(11)一冊の中でつながる
度々書いてきた通り、雑誌とは本来、載っている全てを読まずとも構わないものだ。もちろん作家や編集者は「全部読んでよ~」と思っているかもしれないが、最終的にどの記事を読むかは各々の読者に委ねられている。僕だって、この企画を始めるまで雑誌を通読することなど無かった人間だ。何なら、買ったきりほとんどページを開かず積みっぱなしの雑誌だってある。我ながら怠惰すぎるぜ……。
とはいえ、雑誌の通読は大変なだけかといえば、そういうわけでもない。たまに面白い現象が生じる。同じ号の別々の箇所で互いにつながりあうようなテーマが論じられたり、共通の固有名詞が登場したりするのだ。この「たまに」というのが重要。毎号あちこちで同じ話題や固有名詞が頻出したら食傷するだろうし、”雑”誌である意味がない。様々な文章が雑多に混在している中を読み進めて、たまに「おっ、ここでも似たような話をしてる!」「この名前、あの記事でも見かけたぞ!」と気付くと、ちょっとした高揚感があるのだ。
例えば4月号。この号は「テックと倫理」と題した特集が組まれており、テクノロジー技術と社会、倫理をめぐる創作や論考が並んでいた。論考では、人間とロボットの協働や、子どものデジタル依存についての記事が興味深かった。
同じ4月号に掲載された宇野常寛の連載評論「庭の話」第九回では、中動態とSNSについて論じられている。長くなるので詳述は省くが、かつて國分功一郎が論じた「中動態の世界」は情報技術の発達により回復したものの、それに伴いSNSでの炎上など問題が噴出しているのではないか、という旨の指摘があった。以前の号から議論を引き継いだ連載の一回分とはいえ、「テックと倫理」特集に組み込まれていてもおかしくない内容だ。雑誌の中の離れた箇所で、こうしたテーマのリンクが発生するのが面白い。
(ちなみに、このことについてツイートしたら、宇野さん本人から引用で「むふふ」とコメントがあった。もしかしたら特集を意識しての内容だったかもしれないし、やはり偶然かもしれない。)
例えば8月号。國分功一郎と星野太の対談記事「「寄生の哲学」をいかに語るか」を読んでいると、詩人・石原吉郎について言及する箇所があった。星野の著書『食客論』の中で、石原にとっての飲食と共生について論じられているらしい。
「あれ、石原吉郎って名前はつい最近、見かけた気がする……」そう思って8月号のページをパラパラめくって、見つけた。同じ号に掲載されている鷲田清一の連載「所有について」第二十四回。「シベリアの強制収容所で一つの食缶に流し込まれたわずかの粥やスープを二人の囚人が極限にまで厳密に等分するという、石原吉郎が描いたあの緊迫した場面」という記述があった。
これらの記事を読むまで、石原吉郎という詩人の名を、目にしたことはあったかもしれないが、はっきりとは認識していなかった。しかし、今や石原吉郎という存在は僕の脳内に刻まれたし、どんな作品を書いたのかも気になってきている。あぁ、読みたい本のリストがまた増えてしまった……。
複数の書籍の間につながりを発見することは、読書を続けていればしばしば起こる。「あの本とこの本の内容がこんな形で繋がるのか……!」と気づいたときに感じる愉悦こそが、読書を継続する楽しみだと言えるかもしれない。
様々な文章が集積され一つの塊となった雑誌は、時にその一冊の中で様々なつながりあいを披露してくれる。
雑誌は一部分だけ読んでも楽しいが、全部読んでも楽しいのだ。
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