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秋季号の夏(2024/08/11 完結)


目次 1

会社の昼休憩中に近所の書店へ行く。文芸誌コーナーには最新号が平積みされていて、群像は武塙麻衣子さんの連載に加え、山本ぽてとさんの随筆まで載っているし、新潮は今読み進めている最中の『百年の孤独』特集が組まれていて気になるが、今回買うのは文藝2024年秋季号。なかなかの分厚さ。
本屋を出ると外はものすごい暑さで、会社へ引き返す短い道のりでも汗が吹き出る。とうとう夏が到来したな、と思う。「秋季号」というタイトルと、実際に体感される季節のズレ。

仕事の案件が思いのほか立て込んでいて、あれこれとこなしているうちに定時過ぎ。
帰宅後、『百年の孤独』を読み進める。347ページ~376ページまで。小町娘のレメディオスの昇天は、周囲の男が彼女へ身勝手に欲情しては死に、それらの死の原因が全て彼女へと不当に押し付けられる、そんな場所の重力からの解放というニュアンスが感じられ、高畑勲『かぐや姫の物語』を少し連想した。

文藝2024年秋季号の表紙をめくると、目次がある。今月はまず創作が三本。続いて特集1「世界文学は忘却に抵抗する」、特集2「怖怖怖怖怖」、その後に特集の括りからは外れた今村夏子の短篇、町屋良平のインタビューの題名がならぶ。最後に、連載、書評、季評などのタイトルの列記。
各作品は目次の上で、「創作」や「特集」などに分類されてならんでいる。例えば目次の1ページ目には「創作」という括りで、安堂ホセ「DTOPIA」、木村紅美「熊はどこにいるの」、滝口悠生「連絡」のタイトルが隣り合ってならんでいるが、実際のページ順では、「DTOPIA」(8~75ページ)と「熊はどこにいるの」(206~208ページ)の間に、特集1がまるっと挟まっている。
目次順は、実際のページ順とは異なるルールによってソートされているのだ。

だが読者は、必ずしも雑誌を1ページ目から順番に読んだり、目次に従って読み進めたりするわけじゃない。それぞれの文章への興味の度合い、その筆者のことを知っているか、内容は簡単そうか難しそうか、どれくらいの時間で読めそうかなど、様々な要素を踏まえつつも直感的に判断して、読みたいところから読む。しかも、収録作を全て読まずに、途中で放り出したっていいのだ。

目次順と、ページ順と、実際に読者が読む順番は異なる。
しかも、読む順番は、読者の数だけ異なっている!

この日記は、文藝2024年秋季号を読み終えるまでの期間、継続する予定だ。前述したように雑誌を途中で放り出す可能性もあるが、一応、収録された文章すべてに目を通し、一冊の読破を目指すつもりではある。
そして、この日記では日付の代わりに、その日読んだ文章のタイトルをラベリングに使い、雑誌の目次順に並べていく。本来、時系列順に記録されるはずの日記を、雑誌の目次のルールに合わせてソートするのだ。
そんなことをして何になるのか。僕にもよくわからないが、「雑誌を読む時間」のありさまを浮かび上がらせる試みとしてやってみたい、というのが現時点での僕のモチベーションだ。

創作

安堂ホセ「DTOPIA」 8

そろそろ中編も読もうと思い、通勤電車内で安堂ホセ「DTOPIA」に取り掛かる。各国から集まった10人の男性のうち誰がミスユニバースの心を射止めるか、という恋愛リアリティー番組「DTOPIA(デートピア)」。序盤を読んで驚いたのは、作中では「DTOPIA」が全エピソード配信されており、ミスユニバースが結局誰を選ぶことになるのかあっけなく明かされること。語られるエピソードの時系列も順番通りではないようで(まさに映像サブスクで番組を視聴する感覚)、これからどんなふうに展開するんだろうか、と思ったところで会社の最寄り駅に着いた。

仕事の昼休みに会社の近所のBOOKOFFへ行ったら、気になっていた作品の文庫本が結構イイ感じのお値段になっていて、結局衝動的に5冊買った。自宅にあんなに積読があるというのに……。賞与が入って明らかに気が大きくなっているな。で、BOOKOFFに入るときはあんなに晴れていたのに、店を出るときには分厚い雲が空を覆っていて雷もなり始めている。大急ぎで会社に戻る。社内に滑り込んだくらいのタイミングで雨。ここ最近の天気の不安定さはすごい。気候がバグってきている。

「DTOPIA」を読み進める。作中の「DTOPIA」は視聴者から様々な消費のされ方をしていて、実在のリアリティー番組で起きた悲劇なども想起しつつ読む。更に実際の映画界のシーンにおける「白人が負の遺産を懺悔する」というコンセプトへの鋭い批評が展開されるなどして、興味深く読み進めているうちに、この物語の語り手が「ギャル・クルーズ」に乗って島へ現れた。……ギャル・クルーズ!?

朝起きて、「虎に翼」最新回。玉ちゃんが身に付けた英語が、単に立場や身分を超えてそれぞれがそれぞれに学ぶことの尊さ、みたいなことだけでなく、普段の言葉遣いでは表現できないことを別の言語で表現する描写にまで繋がっていてその見事さにも感動してしまう。「お嬢様」ではなく単に「You」と呼べることによる解放。

昼休憩中は「DTOPIA」を読み進めて、物語は過去に移動し、唐突に中学生が自力で睾丸摘出を行い、摘出されたこの父親が相手の家に乗り込んで……という展開に突入する。美しいボラ・ボラ島から、殺伐とした日本の食卓へ連れてこられ、じわじわと息苦しさ。

仕事帰りにひとりカラオケに行こうと思ったけど、雷が鳴り始めたのでおとなしくまっすぐ帰宅して、家で『国際市場で逢いましょう』を観た。空襲からの避難や出稼ぎでの事故、ベトナム戦争への出兵など、とにかく命がけの激動なのだけど、おそらく韓国のある世代以上の人たちにとっては、決して特別ではなく共有でき得る市井の人々の物語なのだろうな、と想像しつつ観た。

夜に伝統芸能に詳しい友人とLINEでやり取りしていた流れで、最近浪曲を見始めた話をする。最初は浪曲のソフト面(話の内容や構成)に興味を持ってきたが、最近少しずつハード面(節回しなど)への興味も出てきたと伝えたら、「確実に浪曲沼にハマるコースだ」と言われた。

今日は割と仕事が忙しく、一個ずつ対応していたらもう定時。夜は九段下へ移動する。地元の友達が好きなバンドが武道館でライブをするというので東京に来ているから、ライブ終了後に会う約束だった。ライブ終了のメッセージが来たので、九段下駅近くの日高屋で合流。最近の近況など話す。30代を過ぎると、近況の話題もなかなかどっしりしたものになっていく。今日はなんだかんだで「DTOPIA」は読み進められず。

朝から散髪屋に行き、待っている間に「DTOPIA」を読み切る。恋愛リアリティーショーを発端に、他者を勝手に解釈したり欲望を投影したりして消費する大衆の在り様、それを見越して自らアピールするためのイメージを提供する者たちの関係性、そのための記号となっている(しかし一方で差別構造や優位性等は周到に保存されたままの)人種、国から定められた様々な規範とその逸脱など、様々なテーマが詰め込まれつつ、リアリティショーの本編には収められなかった一人と一人の素朴な対話にグッときて、しかしそれもまた、”公開された”アウトテイクとして我々に提示されており、ただこちらが勝手に解釈しているに過ぎないかもしれない。更に、この生自体が、そもそも国政上の思惑の延長にある産物かも知れないことにゾッとしつつ、そのやるせなさを共有しあうラストは不思議に爽やかでもあった。情報量が多くて、まだ消化しきれていない気はする。安堂ホセの作品は読むのが初めてだったので、過去作も遡りたい。

散髪を終えて、暑いのでほとんど家でダラダラしていた。夜は西田さんと久々にLINE通話して、真面目っぽい話から与太話まであれこれ話していたら、すっかり夜更かしになった。

木村紅美「熊はどこにいるの」 206

今回の文藝では一番ページ数が多い木村紅美『熊はどこにいるの』を読み始める。木村紅美の作品は群像に載っていた『夜のだれかの岸辺』以来、読むのは2作目。時系列が前後しつつ、三人称ではあるがカメラの置かれる人物も切り替わるので、じわじわ全容が見えてくる感じか。

今日は仕事が忙しくなく、Xで話題になっていたBRUTUSの「魚籠」のルビの件を眺めていたら時間が溶けた。「びく」と「さかなかご」は別の物を指すのでは、と指摘する投稿を見て、もしかして落語の「鮑のし」で婚礼に持っていく鮑を入れているアレって「さかなかご」なのか?と思い至るが、正確なところはわからない。

帰宅後、録画が溜まっていた今週分の『虎に翼』を観る。航一の過去の重みたるや。

早めに目が覚める。U-NEXTのポイントが溜まっていたので、みくのしん・かまど『本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む』の電子書籍を購入し、『走れメロス』『一房の葡萄』まで読む。みくのしん、生活への解像度が高く、登場人物への共感力が異常に高いので、『一房の葡萄』をまるで自分の実体験かのように感じ始めるところまで行っててすごい。友田さんとは別の形での「代わりに読む」であり、最小単位の読書会でもある。

朝イチで早稲田松竹に行き『貴公子』『ゴールド・ボーイ』の二本立て。『貴公子』は血みどろアクションあり、カーチェイスあり、笑いどころありのエンタメノワール。”貴公子”のキャラ立ちも良くて楽しい。『ゴールド・ボーイ』は中学生のひと夏の青春と冒険を描いたジュブナイルムービーとサイコノワールをごちゃ混ぜにしたような怪作。

夜のレイトショーまで時間があるので、古書ソオダ水で古本を眺めたり、ドトールで読書したり。「熊はどこにいるの」を途中まで読み進めて、『本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む』は読了してしまう。雨穴の書き下ろし『本棚』が、途中の展開で「このテーマの書籍に、この内容を書き下ろすの正気か!?」と少し恐ろしかったが、最終的にはなるほどねという展開に落ち着き、みくのしんのリアクションが著者本人を圧倒していて面白かった。

早稲田松竹に戻ってレイトショーで『1999年の夏休み』を観た。全寮制の学校で、夏休みに校舎に残っている3人の生徒と、もう1人の転校生の関係を描いた作品。少年4人を少女が演じてたり、4人の生徒以外に登場人物がいなかったり、なんとなくループしているような閉じた構造になっていたりと、コンセプト自体も変わってはいるのだけど、なんだかスクリーンで起こっていることよりも異様な雰囲気を感じて、ぞわぞわしながら観ていた。タイトルだけ知ってて気になっていた作品だったから、観れてよかった。

「熊はどこにいるの」を読み進める。男児を”男らしく”育てるか否か、育児におけるジェンダーについての話が続いている。

昼頃に東池袋へ。ひがいけポンドというスペースで、機械書房・岸波さんが企画した「スピードスターブックフェス」が開催されていて、それに行く。キッチンと配信ブースが並んでいるその向かいの机に柿内さんのブースがあって、柿内さんはその日配布するフリーペーパーを折る作業中。柿内さんも時評のために読んでいた「DTOPIA」の感想などを話して、他の本のブースも見てまわる。mg.のブースで、岸波さんにオススメされた怪異とあそぶマガジン『BeːinG』が妖怪特集で、ぱらっとページをめくったら妖怪「寝肥」についての記事があって、「寝肥のコラムがあるんですか!?」と思わず声が出た。小学校低学年の頃、水木しげるの妖怪大図鑑を愛読していて、その時の記憶がバーッと思い出されたのだった。ZINEのデザインも素敵だったので購入。
もう一冊買ったのは、真木由紹『台湾および落語の!』で、こちらは「彩流社から謎の小説が出ている…?」ということで以前から存在は知っていた本。ブースに作者の方がいて、落語の話などもあれこれして、ちょっと興味が出てきたので買った。落語と台湾とスケボーの話らしい。

柿内さんが書肆海と夕焼の文芸時評についての対談をするので、その間の店番を引き受けつつ、おしゃべりを聞く。時評をする立場になってしまった柿内さんの、愚痴交じりで熱量たっぷりに今の文芸・文芸誌ってどうなんですかトークを柳沼さんが柔らかく受けていく感じ。時評=最新の文芸を読んで早めに評するファーストペンギン的な役割なんだから、分かりやすい小説ばかりの状況であれば必要が無い、もっと分かりにくい小説が読みたい、という話がグルーヴがあってよかった。
柿内さんのトーク後もブースに居座って、お客さんに本の紹介をしたり、ビールを飲んだり、友田さんと話したりして、15時頃に会場を出た。

うろうろ歩いて、大塚駅の方まで。そこから電車を乗り継いで田原町へ出る。カラオケに入って一時間弱の暇つぶしをしてから、木馬亭で真山隼人さんの独演会へ。演目は黄門さまがノリと権力乱用で何とかしてしまう荒唐無稽な展開が楽しい「水戸黄門奥州の巻」と、遊女との恋を成就させたいがあまり金を横領して後に引けなくなってしまって不穏な余韻の「冥途の飛脚封印切」。更に特別企画として初代真山一郎が河内音頭・江州音頭を混ぜ合わせて作ったという「浪曲音頭 日本列島民謡の旅」。タイトル通り北から南まで日本各地の民謡を歌い繋いでいく。ラストで、太平洋戦争の際に戦場となり多大な犠牲を強いられてしまった沖縄への鎮魂も歌われるのにぐっとくる。

帰宅後、昼のイベントで買ったオカメサブレを食べつつ「熊はどこにいるの」を読了。男性がいる世界と距離をとり、山奥の家で共同生活を送る女性たち。という設定でシスターフッドを描く作品かなと思ったら、連帯して暮らしてはいるけど、リツとアイは互いに思うところがあるし、単純に仲が良い、というわけではない。そこにやってくる捨て子の男児の育児を巡って、家の中のバランスに震えがきてしまう。「夜のだれかの岸辺」と共通して、他者は他者として必ずしも完全に分かりあったりはできないし、誰かと共に生きていくとしてもあくまで個人は個人でしかないのだけれども、その場その場での優しさや思いやりはある、という感触。ラストは『ボーはおそれている』のことも思い出した。あの時やってしまったことへの罪悪感を抱えながら、(しかし、その罪を咎め罰してくれる人は現れないまま)生きていく荒涼とした心持ち。

滝口悠生「連絡」 437

グーグルアドセンス使いたいなと思いながら、結局ちょこっと落語の感想を書いて終わっていたブログをまた動かそうかな、ということで、過去にnoteで書いた鬼平犯科帳を読んでいる間の日記のうち、鬼平の感想の箇所だけを巻ごとにまとめていくことにした。これだけで、24本の記事ができるぜ。

今日から滝口悠生「連絡」を読む。保育園の子どもをもつ父親の目線から、子どもと接する中で体感される事柄を丁寧に言語化していくような文章。僕は子どもだったことはあるが、それももはや遠く、親になったこともないから、分かるようで分からないような、文章として頭ではわかるが、体感としては分からない、イメージとして読む。

夜は録画していた『十階のモスキート』を観て、内田裕也の娘役の子は小泉今日子に似ているな、と思ったら、小泉今日子だった。
今日一日、全然喋ってないなと思い、久々に30分だけスペースで喋る。ずんださんが聴いてくれている。

夏休み、天気の予報が悪くて嫌だなぁ、という気持ち。昼食の時間、ガストでランチを食べてから、滝口悠生「連絡」を読み終える。子育てを通して、例えば保育園で出会う他の子のお父さんや、同じ時間を公園で過ごしている人たちへと、意識が拡張されていくシーンが印象的。
読んでいる途中、近くの席で男の人が店員さんに「取り皿ください」と言ったら、小さな子の「取り皿ってなに?」と尋ねる声が聞こえた。「お皿だよ、取るためのお皿」。さっきまで「男の人」としか認識していなかったその声の主は、「お父さん」になっている。

特集1 世界文学は忘却に抵抗する

鼎談:
斎藤真理子×奈倉有里×藤井光
「見えない大きな暴力を書きとめる─「現代を映す10冊」をもとに」 78

昼のうちに『百年の孤独』を最後まで読み終える。恋と性欲に塗れたり、何かに夢中になった時間もいつか色あせ、次第に絶望へと陥り、老いに追いつかれる哀しみ。しかし、その哀しみさえも、いつかは忘れられすべては跡形もなく消え去るのだ!というところに叩き込まれる。600ページほどかけて大量の登場人物の人生を追ってきたからこそ、ラストの虚無の重みが出るし、その重み分がすべて無に帰すからこそ謎の清々しい余韻がある。

渋谷へ向かう電車内で斎藤真理子×奈倉有里×藤井光「見えない大きな暴力を書きとめる─「現代を映す10冊」をもとに」を読む。かつて「世界文学」という言葉には祝祭的な響きがあったが、今や世界文学からはハッピーさは感じられない、という話は面白かった。インターネットの普及などが手伝って、世界各地がグローバルになものとしてつながり、世界のシリアスな問題も単に対岸の話と言いづらくなってきてしまった背景があるのかも。鼎談の中で言及されている作品の中では、サーシャ・フィリペンコ『赤い十字』が気になる。

ヒカリエでのZINEのイベントや、渋谷公園通りギャラリーの展示を少し覗いてから、今月3回目の渋谷らくごへ。
柳家小ふねさんは婚活についての枕から面白く、「たらちね」も独特なくすぐりが増えていて楽しい。柳家やなぎさんは初見。古典を改作した「フラグ短命」は普通の古典も上手そうな安定感だからこそ、ぶっ飛んだアレンジが映える。三遊亭遊雀師匠はゆったりじっくりの「道灌」。顔の微細な表情が可笑しい。トリの入船亭扇辰師匠はたっぷり「井戸の茶碗」。ちょっとした仕草や描写の積み重ねによってキャラクターの人柄が浮かび上がる感触。ほくほく大満足な気持ちで会場を出る。そのまま、代官山方面に歩き蔦屋書店を覗いてから家路へ。

特別企画:
松田青子+インタン・パラマディタ 太田りべか訳
「往復書簡 越境して結束をする私たちの方法」 92

仕事の合間にradikoで「J-WAVE TOKYO MORNING RADIO」の友田さんが出演した箇所を聴く。パーソナリティの別所哲也の語り口が過剰な優雅さで面白い。ディズニーアニメの伯爵キャラがラジオをやっているようなイメージを浮かべる。

仕事帰りに「立川流 夜の新作の会」を観に行く。前座の立川のの一さんの新作が、隠居と八五郎で、長崎土産の香辛料を色んなお茶に入れて味見をする、というなんともほのぼのした出だしで面白い。最終的に「チャイ由来の一席」になるアホらしさも楽しい。がじらさんの「Kappa」も面白かった。芥川龍之介の「河童」は実は落語へのオマージュなのではという、何だかアカデミックなやりとりが始まったかというと、河童そのものが登場してからは途端に馬鹿馬鹿しい展開になるのが楽しい。談吉さんの「ゲル状のもの」は二度目だけど、”ゲル状のものが恩返しに来る”という変な話なのに、「みゃーちゃん、可愛かったな」というつぶやき、缶ビールと出来合いの惣菜で済ます一人暮らしの夕飯、「生まれ変わったらキャビンアテンダントになりたい」など、ところどころのディテールにじんわり感動してしまう。

帰りの電車内で、「往復書簡 越境して結束をする私たちの方法」を読み終える。インタン・パラマディタはインドネシア出身の小説家。互いの国の文学・出版業界や、フェミニズムの状況などが主な話題となる。書簡は太田りべかが翻訳したのち相手に届けられるので、翻訳文化についてのやりとりも多く、海外では書籍の表紙に翻訳家の名前が載らないケースが多いと知って驚いた。大きなテーマの合間に、お互いの飼い猫についての話が挟まるのも良いな、と思った。対談だと、一連の流れの中で別のトピックをいきなり語り始めるのは難しいけど、書簡であれば、複数の話題を並べて、同時に投げかけられる。

注目の作家3名& 日本語に翻訳されてほしい作品 海外文学翻訳者・研究者21人アンケート 190

帰りの電車で「海外文学翻訳者・研究者21人アンケート」を読んだ。名前に見覚えのある人もいれば、知らなかったけど翻訳担当した作品名は知っているな……という人がちらほらいる。注目作家や翻訳されてほしい作品名は固有名詞をザーッと眺めるくらいで、むしろ回答者それぞれの興味のある研究テーマを見るのが面白かった。翻訳者と聞くとなんとなく専業を思い浮かべがちだが、そういうわけではなく、それぞれが興味関心に基づいて道を選んだ末に、現在仕事として翻訳もやっているのだ、ということ。

雨は降りそうで降らず、いや、ほんのちょっと小雨ではあったが、干していた洗濯物に被害は無くて安心。

録画していた映画の中から『スプリット』を観る。面白いけど、多重人格=解離性同一症に何かヒーローめいた特別性を見出す、みたいな設定の危うさや、傷ついた者がその加害者でなく「傷ついていない者」へと恨みを稼働させる展開への乗れなさはある。続編『ミスター・ガラス』も録画してあるので、近々観たい。

韓国・日本・チベット・タイ〝戦争〟テーマの書き下ろし短篇:
パク・ソルメ 斎藤真理子訳「スカンジナビア・クラブにて」 114

今日は午前中に会社の健康診断。受診する病院は、ラブホ街のど真ん中にある。元ラーメンズ・片桐仁が、若い頃警備員のバイトをしていたらしい(と昔、片桐さんの個展に掲示されていた年表で知った)。今回よりは例年よりも、検査の合間の待たされる時間が長く、待合室のテレビで、前日にあったオリンピックの体操男子の映像を眺める。あん馬の上で足がくるくる回る。病院の先生から「体重を落としてください!」と強めに言われたので痩せねば。

と、思いつつ、お腹が空いたので昼食は油そばを食べに来てしまった。料理が来るまでの合間に、パク・ソルメ『スカンジナビア・クラブにて』(斎藤真理子 訳)を読み終える。自分の体の動きについて考えるワークショップに参加し、そこで出会った仲間と街を散歩する、というそれだけの短編ではあるが、街の中から、あるいは過去の家族との記憶から、戦争の歴史が表出する瞬間があって、さりげなさの中にどっしりと重みがある。

柴崎友香「現在の地点から」 127

仕事はそこそこあり、滑り込みで面倒なものもあったが、定時過ぎには会社を出る。帰りの電車では柴崎友香「現在の地点から」を読む。現在の広島を歩きながら、戦時中の、あるいは戦後の、あるいは以前訪れたときの記憶が重なる。原爆が落ちる数か月前まで広島にいたらしい祖父(しかし、それがどこまで真実かは分からない)、戦争について軽はずみな発言をしていながら二〇〇三年のイラク戦争勃発に動揺する父、そして現在進行形の戦争にも思いを馳せながら広島を歩き、戦争の最中にいることを想像しようとしながらも、実態とは遠く離れているだろうことも分かっている娘=作者という、エッセイ的な短編。

帰宅後、録画していた「虎に翼」を観たら、最後に、明日の放送は通常より15分前倒しになるという字幕が出る。明日は8時から「広島平和記念式典」の放送があるのだ。

ラシャムジャ 星泉訳「傷痕」

渋谷らくごは夏の古典落語3席に玉川太福先生のフジロックフェス出演のエピソード浪曲で夏の昼に見るのにぴったりの会。文菊師匠の「船徳」で船に乗る客が夫婦となっていて、少し妻が不機嫌になって夫が気まずい、みたいなニュアンスが加わっているのが面白いアレンジになっている。

中野へ移動して、ブックファーストの2階にあるカフェ。季節のサンデーがあんこペーストに黒ゴマのかかったバニラアイスが乗っている最高の組み合わせ。アイスコーヒーも飲みつつ、ラシャムジャ「傷痕」を読む。中国青海省の山岳地帯を舞台に、父が息子に語る戦争の記憶。映画を観たり友達と戦争ごっこをしている中で息子がイメージしてきた「戦争」は、父の語りによって打ち崩されるとともに、息子は父親が今もなお抱え続けている哀しみに触れる。

チダーナン・ルアンピアンサムット 福冨渉訳「群猿の高慢」 160

相変わらず天気は不安定で、家を出なければいけない時間ぎりぎりまでだるくてベッドの上でうだうだしていた。仕事の案件数はほどほど。今年は売上が落ちているらしく、夏の賞与も昨年より減るらしい。とほほ。

帰宅後、戦争をテーマにした書き下ろし短篇から、タイの作家、チダーナン・ルアンピアンサムット「群猿の高慢」を読む。訳は福冨渉。三つの猿の群れによる戦争を描いており、主人公が、別の群れの長老猿を、思想や考え方は一致しないがリスペクトし得る相手と思っていて、さりげなく毛づくろいする場面がほほえましい。激しい猿たちの戦争は、人間によってあっというまに鎮圧される。猿たちが信仰を抱いていたことも、猿から猿へリスペクトの毛づくろいがあったことも、全ては人間の圧倒的な権力の前には、無いに等しいものとなる。その虚しさ。
訳者の解題で、作者が「本作の執筆中は猿モードになっていたようで、自分のことを日本語で「サルコ(猿子)」と呼んでいた」と書いてあって、それも好きなエピソードだった。作者は1992年生まれ。サルコは僕とほぼ同い年だ。

論考:
古川日出男「文学の時差」 173

少し気温が下がって汗はかかないものの、低気圧によるものか、頭痛でぼやーんとしたままの一日。
仕事の合間に短歌を2首ほど仕上げて、帰宅後、未来短歌会の結社誌に送る原稿を作る。なんとか10首間に合わせたが、短歌の作ってあるストックがもうほぼ無いので来月の投稿分が心配。

『百年の孤独』を535ページまで。もう残り100ページを切っている。ウルスラやレベーカ、セグンドの双子が亡くなり、ブエンディア一族も衰退に向かっているような気がする。様々なことが忘れ去られる中、最後まで自分の見た歴史の事実を伝え続ける者とそれを聞き届ける者がいる、というシーンが印象的。
古川日出男の論考「文学の時差」。短いながら消化しきれてないところもあるが、作家自身に痛みも変化もないいまま一方的にメッセージを書き連ねるもの(=処方箋が書いてある本)に文学の有効性はなく、時に作家自らのアイデンティティすら分解し翻訳しながら、様々な社会的・歴史的・文化的な”時差”を埋めていく試みにこそ有効性は宿る、という理解。冒頭、作家志望者へのアドバイスも興味深かった。まず大量の本を読み、その中から「凄い」と思った3人の作家の3つの本を選んで、細やかな再読を繰り返すこと。

作家を創った世界の小説3冊:
金子玲介「語りに魅せられて」 182

気圧が下がったせいか午前中は視界もぼんやりしてどよーんとした調子。
ランチ休憩で、会社の近所のガストに入ろうとしたら、ちょうど店員さんが貼り紙を持って出てきて、「すみません、今日この後、貸し切りになってしまって……」と入店を断られた。平日のガストを貸し切りするような集団って、何だ……? テレビの収録とか入ってたのだろうか。で、思ったところで食べれなかったのでうろうろさまよった結果、焼肉ライクに入って昼から肉と米をモリモリ食べてしまった。

午後からは仕事がちょいちょい立て込んで、キリの良いところまでやって定時で退勤。帰宅後、YouTubeを見たり友達とLINEしたりしてたら結構夜遅くなってしまったので『百年の孤独』には手をつけず、文藝の世界文学特集から金子玲介のエッセイ「語りに魅せられて」を選ぶ。奇想の短篇小説が好きなので、文中で紹介されているケリー・リンク『マジック・フォー・ビギナーズ』が気になる。

小池水音「世界と片手をつなぐこと」 184

サクサク仕事を済ませて定時退勤。渋谷へ移動し、ユーロライブで渋谷らくごを観る。
トップバッターは立川談吉さん。「ゴメス」は以前もシブラクで見たが、不意打ちで場違いな単語が挿入されているのにバグらないまま世界が進行しているようなへんてこさ。「持参金」も以前談吉さんで観ていて、女性の容姿イジリや金目当てで女性を嫁にもらう展開など、元々のこのネタにある女性蔑視な部分について、むしろ明らかに人間ではない生き物に置き変えることでクリアできないかというチューニングの意図は分かるけど、そのアレンジによる生々しさも出てしまって、ちょっと引いてるお客さんもいる空気を感じた。「持参金」は観る機会自体減ってきているが、個人的に、演者がどんなチューニング・アレンジをしているかのみに目が行ってしまうネタになりつつあるのでよろしくない。
古今亭志ん五師匠は観るのが久々。お天気をテーマにしたテーマパークの噺、という妙な新作なのだけど、志ん五師匠は落語中の言いよどみやフィラーが少なく、聞き心地が良い。
国本はる乃さんの浪曲は二度目。やはり伸びやかで生き生きとして楽しい。もっといろいろな演題を見てみたい。
瀧川鯉八師匠は、にきびをつぶしてトリップするという、どうやったらそれだけで一隻の落語に仕上げる気になるんだという新作。圧倒的な勢いで走りきる。途中から鯉八師匠が、完全にヤバい目つきをしたおばあさんにしか見えない。
全体的に変なネタばかりだったのに、金曜の疲れがほぐれて、何だかほくほくした気持ちで帰路につく。

寝る前に文藝を開き、小池水音「世界と片手をつなぐこと」を読む。片手には自分が共感できるもの、もう片方の手に自分にとって未知のものを渡してくれるような、海外文学を読むときの感触のこと。

日比野コレコ「アデノウイルスで死にかけのワニ」 187

僕の住むアパートの向かいの小学校が選挙の際はいつも投票所になるので、自宅を出て投票を済ませて帰ってくるまで、10分もかからない。今日も朝のうちに都知事選の投票を済ませて帰ってきた。投票所とのこの距離感によって、僕にとって選挙とはそんな大げさなものでなく、何か出かけるついでに済ませられるような気軽なものなのだ。人によってはわざわざ出かけるのが億劫な場所に投票所があったりもするだろうから、「選挙」や「投票行為」というものに対して抱くイメージは人それぞれ違うだろうな、と思う。

自宅で、録画していた「鬼平犯科帳 血頭の丹兵衛」を見て、『百年の孤独』を読む。シーズン1の締めくくりとして、前話やシーズン冒頭の場面を踏まえつつ、良い感じのまとめ方。橋爪功演じる蓑火の喜之助が最高なので、ぜひ今後のシーズンで「老盗の夢」も映像化してほしい。
『百年の孤独』は444ページまで読んだ。かつてマコンドの人たちをがっかりさせた活動写真だが、時代が巡り、映画館が若者の恋の舞台になるのが面白い。文化・文明も最初のころから比べて大きく変わった。本編は残り200ページを切った。こんなに分厚い本を読み終えられるだろうか、と最初は心配だったが、一日数ページでも読み進めればいつかは終わる。

夕方から家を出て、浅草木馬亭で「真山隼人ツキイチ独演会 第29回」へ。今回は国友忠特集と題して、国友忠が創作した作品「槍の剛八」「狐絵師」の二題に加え、1998年に木馬亭で収録された国友忠本人による「猫虎往生」口演映像の上映という企画。上映機材の調子が悪く、ラスト15秒で映像が止まってしまうという不具合があってそれは残念だったが、息子のために金を工面しようと、唐辛子の大食いに挑戦して1万円を得るもそれが元となって死んでしまった車夫の葬式を描く「猫虎往生」はとってもユーモラスかつ、最後は生き返ってハッピーエンドだったりして楽しかった。真山隼人さんは今回も明るく楽しい。長く高音が出るくだりでぐっと引き込まれた。沢村さくらさんの三味線もかっこいい。
木馬亭を出たら、都知事選の当確の報道が出ていた。

帰宅後、文藝の世界文学特集の中から、日比野コレコのエッセイ「アデノウイルスで死にかけのワニ」を読む。エッセイの文体自体が変化したり揺れたりしながら、短い中に様々な切り口が入っていて面白い。

言葉が世界をつくるのでも、その逆なのでもなく、言葉とは、現実である。そのとき、比喩というのは、物語規則である。

文藝2024年秋季号 188ページ

すべてと恋に落ちる可能性を秘めている人だけに惹かれる。(中略)もちろん恋というのは狭義での恋愛の話ではなく、たとえば、路地に迷い込んだら目に映るあらゆるもののうちどれかにひとめ惚れする、可能性をぜったい的に持っている、ということだ。受け口の猫とか、細くて強いオレンジ色の光線とか。それに自らのすべてを賭す計算間違いの鮮やかさである。

同上

この辺りの文が印象的。日比野コレコの小説はまだ読んだことがないので、近々何か読みたくなった。

特集2 怖怖怖怖怖

対談:
春日武彦×梨「本当に怖いフィクションとは何か?」 290

友田さんがXに『群像一年分の一年』の感想を書いてくれていてありがたい。「(自分で決めたにせよ)目の前の状況を受け入れて面白がる著者の姿勢は、人生を面白がるヒントに満ちている」という一文を読み、俺の本はそんなにステキなものだったのか、と驚く。

家を出る前に、文藝の春日武彦・梨の対談記事を読む。現実の思わぬ側面が浮かび上がってくるホラーを描くために、現実らしさそれ自体を模倣するドキュメンタリー的な手法を用いてきたが、それが「フェイクドキュメンタリー」としてフィクションのジャンルとして認知されてきた現在、クリエイターはどこに立脚してホラーコンテンツを制作しているのか、という対談。SNSが流行して、様々なコミュニケーションのレイヤーが複雑に入り混じっている中で、その中にどうやってノイズ的な恐怖を紛れ込ませるかというのは、作り手にとっては結構難しそう。
ちなみに、僕は卒論でフェイクドキュメンタリーについて、「作品世界の内部にカメラが備え付けられていることによって、観客はむしろ安全圏から作品を楽しめるの」ということを論じたのもあって、ドキュメンタリー的な手法が必ずしも恐怖に貢献するわけではないのでは?と、少し疑問に思っていたりもする。

夕方から渋谷へ移動。今月は4日連続で観に来てしまった渋谷らくご。今回は三遊亭青森さんの出番が二度ある回。トップバッターの春風亭朝枝さんは「のめる」。他の演者の同演目に比べて、八五郎の察しが悪いのが可笑しい。青森さんの一席目は「千両みかん」。冒頭の若旦那のくだりをカットし、番頭がみかんを探しに行くのもあくまでお店への忠義心。だからこそ旦那が千両のみかんを「安い」と言ったときの、番頭の挫け具合が情けなく切なくもある。柳家さん花師匠はゴッホへの熱量たっぷりの枕から「棒鱈」。田舎侍が脱力系でなよっとしているのが他の演者と違うアレンジでとにかく面白い。「あんちぇ…」という謎の呟きが耳に残る。めちゃくちゃ笑ってしまった。さん花師匠は古典落語に不思議なアレンジや奇妙な瞬間が入っていることが多くて、もっと他のネタも観たい。青森さんの二席目は「真景累ヶ淵〜宗悦殺し〜」で、声の凄みによって重い場面にぐぐっと引き込まれた。青森さんはとにかくあの声の迫力が強みだなぁ。三連休は落語を観てたら終わってしまった。

特別企画:
綿矢りさ「夜の日課は哲学ニュース」 302
「綿矢りさから「哲学ニュース」運営者へのQ&A ネット界隈の怪談クロニクル」 306

先日の「真山隼人ツキイチ独演会」についてのXの投稿に、曲師の沢村さくらさんからリプライが来た。僕が惹かれた隼人さんの長い高音について「節の終わりごろ、盛り上がる節を「あて節」と言いまして、隼人くんのその節は初代真山一郎が作った節です。「真山節」とか、「真山先生のあて節」みたいな言い方をしています」と教えていただく。なるほど、浪曲では特有の節回しもまた、師匠から弟子に受け継がれていくのか! 勉強になった。浪曲は聴く数を増やしていこうかなと最近思い始めたところなので、また隼人さんの独演会にも行きたい。

仕事の昼休憩は会社近くのベローチェで、食事はサンドイッチと飲み物だけで安く軽く済ませ、残りの時間で読書する頻度が近ごろ増えた。
今日は読みかけだった川端裕人、本田公夫『動物園から未来を変える ニューヨーク・ブロンクス動物園の展示デザイン』を最後まで読み切る。革新的な展示により、世界中の動物園からお手本のように見なされているというブロンクス動物園。その展示を担当する日本人デザイナーと共に巡りながら、動物園を作る上での思想と工夫を紹介する、という内容。展示を通じて自然保護・動物愛護の意義を学んだ来場者が、展示の最後に自分の払った観覧料をどの団体に寄付するか選択できる、という仕組みが興味深かった。一つの展示の中で、動物への興味を喚起し、愛護活動に関する学習を経て、実際に支援行動につなげるまでがワンストップで達成されていることに感心する。
とはいえ、単純に「ブロンクス動物園すごい!」という話で終わらない。例えば”動物たちへの福祉”と”展示としての見やすさ”の兼ね合いへの試行錯誤や、組織内の部署間での折り合いをつける難しさなど、優れたコンセプトやデザインを練っただけでは終わらず、それを継続しアップデートする実務レベルの部分にこそ大変さがあるのだ。せっかく来場者を驚かせる凝った装置を作ったのに、それをメンテナンス・修理できる業者が廃業してしまい、本来の意図通りの展示ができなくなった……という話など、ちゃんとガッカリ要素も書いてあるのは誠実だな、と思った(書籍刊行時には、装置の修理が無事に行なわれて、展示も元通りになったとのこと)。新型コロナ禍以前に書かれた本なので、今はまたここに書かれた状況から変わっているのだろう。

仕事帰りに図書館に寄って、文芸誌の気になってた作品を拾い読み。イニシャルに置き換えて書いてある人物について、多分あの人のことだな、と察しながら読むのは本来想定されている読まれ方と違うのかも、と知人が寄稿しているエッセイを読みながら考える。

帰宅後、『百年の孤独』を読む、マコンドに大雨と干ばつ。かなりのピンチで、これはさすがに滅んじゃうんじゃないか、マコンド。残り120ページほど。
文藝はまとめサイトについての綿矢りさのエッセイと、サイト運営者へのインタビュー。匿名の人々が持ち寄る心霊怪談と人間が起こす恐ろしい事件とが同列で並べられている、インターネット普及後の恐怖の消費のされ方の一側面を切り取るような記事。

特別企画:
朝宮運河・大岩雄典・廣田龍平・藤原萌
「特別企画 異界への扉をひらく〈怖怖怖怖怖〉作品ガイド」
編集協力= 山本浩貴(いぬのせなか座) 406

天気予報は晴れ時々曇り(雲の色が濃い目のグレー)で、降水確率30%の時間帯があったから、一か八か、洗濯物を干して外に出る。駅へ向かう途中で折り畳み傘を家に忘れたことに気づくが、取りに戻ればおそらく会社に遅刻するので、そのまま駅へ向かい電車に乗り込む。

午前中は仕事が少なく、夏休みの予定など考えながら過ごす。8月はたくさん出かけたい。予算はあるのか。行きの電車と昼休憩中で、「特別企画 異界への扉をひらく〈怖怖怖怖怖〉作品ガイド」を読み終える。文芸に留まらず、映画やアニメ、テレビ番組、ゲーム、都市伝説など様々なトピックがある。少し前に観た「コワすぎ」劇場版の紹介文を見て、なるほどあの展開はそういう意図を読み取れるのか、と膝を打つ。卒論が近いテーマではあったので、恐怖とフェイク性の関係性についてはもうちょっと掘ってみたい。ただ、僕は怖いコンテンツ自体は好んで見ないので、あんまりモチベーションが上がらないのだが……。

外に出たら、濃い灰色の雲が浮かんでいる。雨、降らないといいな……。

創作:
八木詠美「プリーズ・フォロー・ミー」 310

午前中に八木詠美「プリーズ・フォロー・ミー」を読む。山手線の車内で、女性のスマホケースに貼られたシールが気になった主人公は、女性の後を追うが……という話。途中でなんとなく着地はこうなるかも、と予想は着いたが、この特集でこういう話だと主人公の視点から一人称で書いても良さそうなところを、三人称で書くことで主人公に対して少し距離を保った筆致に微妙な浮遊感があり、読者は女性を尾行する主人公のことを更に尾行させられているのだった。だとしたら得体のしれない存在は、主人公から見た女性でなく、読者から見た主人公か。

午後からもりたの家へ遊びに行く。近くのスーパーで集合。買い出ししてから家へ。もりたの家は引っ越ししてからちょこちょこ片付けはしたらしく、とりあえず、前回よりは物が整理された印象はあるが、まだ散らかっている。僕は部屋の隅に陣取ってあれこれ喋り、もりたは話しながら部屋の片づけを進めていく。「一人でやるより、喋り相手がいるだけでも掃除がはかどるわ」ともりた。引っ越し以降、物が上にいっぱい載ってて座れる状態で無かったソファが久々に座面を見せた。そこに腰掛け、テレビを見ながらだらだら過ごす。その間にもりたは部屋を順調に片付けていき、足の踏み場がだいぶ増えた。
すき焼きのタレが余っているから、ということで、晩御飯はすき焼き。豚肉、白菜、エノキ、長ネギ、油揚げなど。油揚げにタレが染みるとこんなに美味いのか!と驚く。あっという間に鍋が空になり、ご飯も消えた。もりたの家から僕の家は結構遠いので、遅くなる前にバスと電車を乗り継いで帰宅。

澤村伊智「さぶら池」 326

朝、家を出る前と会社へ向かう電車内で、澤村伊智「さぶら池」を読む。家業のラーメン屋を継いだ男の家族に奇妙なことが起こるが……、という短編。作者は確か映画『来る』の原作の人だったと思うのだが(原作は未読)、『来る』と共通して、個人から見えているものと周囲の認識が見事にすれ違っていることが露見するところに、恐怖を見るような話。起きていることは不条理なのだけど、主人公がこういう目に遭うことの作中での道理が最後に示されてしまうのはちょっとなぁ、という気持ちがある。

会社は毎年12月に海外旅行へ行っていて、今年は夏の業績が目標の90%を超えたら海外、下回ったら国内旅行にする、と社長から話がある。正直、国内旅行でいい。福岡とか。仕事は来週の半ば頃までにやらねばならぬ作業が増えたので、暇にはならなさそう。

仕事帰りの電車で、野坂昭如『とむらい師たち 野坂昭如ベスト・コレクション』を読了。生と性への執着、凄惨な戦争とその傷跡、生々しくグロテスクでえげつない話ばかりなのに、するする読み進められる軽妙でテンポのいい文体がすごい。我が子を殺した母親の心に刻印された戦時中のトラウマを、一人称・三人称混在の文章で描く「死児を育てる」が特にインパクトがあった。

小田雅久仁「囁きかわす者たちからの手紙」 346

午後から出勤してほどほどの忙しさ。月初で映画が安いから何か観に行こうかなと思ったが、昨日は大雨で帰りが遅くなったから、今日は早めに帰ろう、と決める。

帰りの電車内で小田雅久仁「囁きかわす者たちからの手紙」。作者本人が主人公で、かつて小説のモデルにした二人の同級生がその後、不穏な最期を遂げて……、という話。主人公=小田雅久仁は二人の死の真相を妄想するが、それは悲惨だがありきたりな物語でしかなく、真実は分からず閉ざされていることにこそ恐ろしさがある。同級生二人の予知能力の件もあって、真実不明な出来事に、後からつじつまを合わせて勝手な物語を当てはめてしまうこと自体についての話、でもあるな、と思う。小田雅久仁は随分前に読んだ『本にだって雄と雌があります』が面白かったから、他の作品も読みたいな~と思いながら読めていない作家の一人。そんな作家がたくさんいる。

今日の健康診断で体重を減らせ、と言われたので、帰りにチョコザップに寄って、いつものマシンに加えてトレッドミルも使う。時速6キロで、早歩きと小走りの間くらいの速度で15分。

帰宅後、この日記の続きを書いて、あとはぼんやりしていたらすっかり眠くなってしまったので、日付が変わる前に就寝。

三木三奈「土屋萌」 360

朝起きて、インターネットとテレビの接続を試したが、やはり繋がらず。会社のパソコンで、J:COM公式サイトから作業員訪問の予約を入れようとするが、予約が確定しようとするところでサーバーエラーが出る。同じような状況で、同じように予約を入れようとする人たちのアクセスが殺到しているのだろうか。

昼休憩、近所の公園のベンチに座ってカスタマーサービスに電話をかけると、しばらく待ったら繋がった。で、確認してもらったところ、僕の住んでいる建物全体にインターネットモデムの障害が起きていたが、ちょうど僕が家を出たくらいの時間帯に復旧したとのこと。「帰宅後、ご確認いただければ復旧状態になっているかもしれません」と言われて、とりあえずひと安心。なんだか急に晴れ晴れした気持ちになって、近所の書店で文學界の最新号を買ってしまう。短歌特集が気になっていたので。

仕事が終わって帰りの電車で三木三奈「土屋萌」を読む。大学受験の際に泊まったホテルでの「土屋萌」という女性を巡る出来事と、それから数年経ち、主人公の前に現れた名字に「ヤ」のつく人物たち。事態の全容は分からないまま不穏な出来事に巻き込まれていそうな一方で、主人公自身も奇妙なところがあり、不思議な質感の短編だった。三木三奈は名前だけ知ってて、作品を読むのは初めて。まだ読後の感想の置きどころがよくわかんないので、もうちょっと他の作品も読みたいな、という気持ち。

帰宅後、ネットとテレビを確認したら、無事に復旧していた。わーい!

木原音瀬「リンク」 375

今日から夏休み。なんか楽しい映画が見たいな、と思い録画した中から『マッシブ・タレント』。ニコラス・ケイジがほぼ本人役。俳優のニック・ケイジはキャリアの行き詰まりや娘との関係に悩み、俳優引退を考える。そんな最中、大富豪の誕生日パーティに招待を受けたニック。富豪はニックの大ファンであり、映画の趣味も合って意気投合する。しかし、実は裏でCIAが富豪の身辺を捜査していて……、という話。ニコラス・ケイジ作品の細かなオマージュは拾えてないと思うが、友情バディものアクションコメディとして楽しいし、ニコラス・ケイジへのリスペクトも感じられて清々しい。作中で一見シネフィルに舐められがちだけどめちゃくちゃ良作な映画として『パディントン2』が挙げられていて、久々に観たいな、という気持ちにもなった。

家を出る前に木原音瀬「リンク」を読んだ。身体的な痛みを他者に転移できる技術が発達し、妻が出産するときの身体的な苦しみを夫に転移するのがブームとなっている設定のSF短篇。夫が死の恐怖を感じるほどの体感=それを今まで出産する女性たちが感じ続けてきてのだ、という非対称性や倫理の話としても面白く興味深い設定なんだけど、もっと話が広がりそうなところで終わってしまった印象。

文藝チャレンジ:
#不気味な書き出し文藝 受賞作発表 ゲスト選者 大森時生 387

朝のうちにサクッと読めるものとして、「#不気味な書き出し文藝 受賞作発表」を読む。Xで投稿された不気味な書き出しをピックアップして紹介。書き出しとしてはデイリーポータルZの「書き出し小説大賞」があるので、企画自体にどうしても既視感あるなぁ、となった。

昼から、大学時代のサークルの同期の結婚パーティ。「暑すぎるからノータイ、半袖ワイシャツとかでいいよ」と事前に連絡があり、お言葉に甘えてクールビスみたいな格好で参加。外はやはり猛暑だったので、このスタイルで正解だった。親族向けの式は少し前に終わっていて、今日は友人のみのパーティとのこと。市ヶ谷のオシャレなレストランでフレンチのコース料理を食べながら、大学の同期とあれこれ雑談をする。いつものメンバーと喋っているうちに、空気感が次第に、高田馬場の居酒屋で飲んでいる感じに近づいていく。途中、壇上に巨大な釜が登場。サプライズとして、招待客へ釜飯が振る舞われる。フレンチレストランなのに、「同じ釜の飯を食う」というここだけ和のノリ。帰りのお土産の中に、熱中症対策でOS-1も配られる心づかいがある。

帰宅する頃には汗だくだったので、すぐに風呂に入って、あとはだらしなく一日過ごす。深夜に文化系トークラジオLifeがあって、知り合いが何人か出演するのでメールを書いた。

怪談短歌:
我妻俊樹「雲から覗く顔」 388

朝のうちに『百年の孤独』を読み進める。409ページまで。急に勃発する大食い大会、大量の同級生が押しかけてきてしっちゃかめっちゃかなお泊り会など、変に過剰なエピソードが差し込まれて「なんじゃこりゃ」と笑いながら読んでいたが、アウレリャノ・ブエンディア大佐が死を迎える一日の丹念な描写に圧倒されてしまう。30ページ程ずつ読み進めているが、その短いページ数の間だけでも様々なことが起こって中身が濃い。

バスに乗って吉祥寺まで出る。
移動中の読書は、この暑い最中に分厚い文藝を持ち運ぶのは辛かったので、なんとなく蒸し暑い気候に合いそうだなという直感から、未読で積みっぱなしの野坂昭如『とむらい師たち 野坂昭如ベスト・コレクション』の文庫版を選んだ。野坂昭如の小説を読むのは初めてで文体に独特なテンポ感がありスムーズに読めるんだが、最初の二篇「浣腸とマリア」「マッチ売りの少女」がどちらも結構ギョッとする話で、気分がぐったりしてしまった。

吉祥寺で百年、防破堤、ついでにブックオフを覗いてから三鷹へ移動し、水中書店、りんてん舎。途中で天気が崩れ、雨が降る予報を見ていたので小ぶりな折り畳み傘を持ってきてはいたが、それでは対応できないくらいのゲリラ豪雨になって、服を濡らした。

今日は夜にもりたと演劇を見る予定で、もりたも既に三鷹にいたので、ドトールで合流する。駄弁りながら時間をつぶしてから劇場へ移動。もりたが他に誘っていた知人たちと合流して観劇。この劇団を観るのは2回目で、前回の公演が面白かったので楽しみにしていたが、設定やところどころのディテールなど面白いところもあるものの、上手くいっていないと感じるところも多く、期待を上回ってはくれなかった。
その後、近所の居酒屋で飲み会。「舞台、ちょっと上手くいってなかったね~」という話で盛り上がり、僕は酒を全然飲まないが他が飲むメンバーなので、テーブルの上にメガジョッキがどんどん増えていった。

終電間際で帰宅。さすがに全くページを開かないのはいけないな、と思い、我妻俊樹「怪談短歌 雲から覗く顔」を読む。「怪談短歌」と銘打っているものの心霊現象などをはっきり描くようなものではなく、読むと不穏なざわめきを感じる短歌が並んでいる印象。読み込むともうちょっと「怪談」である意図が汲めるのかもしれない。印象に残った一首はこれ。

鏡の庭のほうが賑やかだったからわたしもそこにいる菊花展

文藝2024年秋季号 389ページ

エッセイ:
大森時生「衝動的煩悩」 384

臨時の終点のホームに降ろされる。空調が効いていないのか、妙に熱風が流れ込んでくるところに立って電車を待ちながら、大森時生のエッセイ「衝動的煩悩」を読む。黒塗りされているところのあるエッセイだが、黒塗りの意図がはっきりしちゃっている分、なんか普通にカッコつきの「コンプラ」対策的な機能しか果たしていない気がする。読み終わったところで乗る電車が来た。

升味加耀「健やかに生き延びるための呪いについて」 390

昼前に家を出て、渋谷へ。まずは松濤美術館で「111年目の中原淳一」展。「絵柄に見覚えあるな~」くらいの認識で行ってみたけど、雑誌編集や人形制作など、イラストレーションにとどまらないマルチクリエイターだったんだと知る。リメイクやアップリケなど、服をつぎはぎして補修する目的のものを、オシャレとして読み替える視点も面白い。

渋谷らくごの14時回。柳家小八師匠の「船徳」はなぜか途中で手ぬぐいでハチマキしてしまい、そのまま演りきってたのが可笑しかった。田辺いちかさんの「応挙の幽霊画」は絵を見て居酒屋のおかみさんの表情が変わるシーンが見事。市童さんは江戸っ子がいきいきして楽しい「天災」。よく見ると市童さんって、指が長くてキレイだな、というのが今日の発見。トリの文蔵師匠はゆったりじっくりの「道灌」。直前の「天災」と展開が被っている部分があるが、おそらく今日の終演後、お客さんの帰りの時間帯あたりで雨がふる予報だったのに合わせて、「雨具を借りに来る奴に断りの文句を言う」この演目を選んだのでは。

同じ回に来ていたわかしょさんがパルコの「ぼく脳展」に行くというのでついていく。様々な細かい思いつきをごっそり持ってきたようなスペースをうろうろする。わかしょさんと解散して、パルコを出たら雨が降っていて、傘を持っていなくて大急ぎで雨宿り先を探す人をあちこちに見かけた。道灌だ。

帰宅後、『百年の孤独』を566ページまで読んだ。どんどん人がいなくなる。

升味加耀「健やかに生き延びるための呪いについて」は劇作家のエッセイ。社会を覆う理不尽や痛みを、それを見ずに暮らせている人たちの前に恐怖として現前させるフィクション。それを見終えた後も、社会のあらゆる場所でその恐怖が目に入るようになってしまう、そんな呪いとしての演劇についての文章で、誰かが以前、「ホラーというのは、世界というのは実は自分が思っていたものとは全然違うものらしいということが明らかになる瞬間を描くこと」みたいなことを言っていたのを思い出した。

論考:
木澤佐登志「この世界という怪異 実話怪談と思弁的怪異」 393

朝起きたら、トリプルファイヤーの新アルバム「EXTRA」の配信が始まっていたので、ベッドで流しながら聴く。今回はこれまでに比べると踊れる感じが高まっていて、小躍りする。フルートが入ってメロディアスな瞬間もあって、音楽として気持ち良すぎて笑ってしまう瞬間がある。めちゃくちゃいいな、またライブも行きたい。

それほど忙しさはない月末。片手間でnoteの月報を書き終えたりもする。退勤して外に出たらゲリラ豪雨。近くの松屋に駆け込み、夕食がてら雨宿り。外に出たら少し勢いが収まっていたが、駅に着くと電車が大幅な遅延。調整のためにホームに停まりっぱなしの電車に乗り込んで木澤佐登志「この世界という怪異 実話怪談と思弁的怪異」を読み進める。論考で紹介されているテントにまつわる実話怪談がおもしろい。夜中、ふと気になって家の外に出ると、玄関から門までのアプローチの間に、誰が建てたのでもないテントが張られている、という話の奇妙な感触。実話怪談、それほど興味を持っていなかったんだけど、こういう感じのものはもっと読んでみたい。乗っている電車は急遽、行き先を本来の終点の5つ手前の駅に変更した。僕の家の最寄りは本来の終点の1つ手前。

短篇

今村夏子「トラの顔」 420

後で知ったのだけど、僕が帰りの地下鉄の駅のホームへ降りたころ、外は落雷などが激しかったらしく、その影響かは分からないが、駅の信号点検によって、電車がなかなか動かなかった。その間に今村夏子「トラの顔」を読む。主人公のくるみが小学三年生のころ、約2ヶ月だけ共に暮らしたフーコさんという女性との交流を描いた話で、なんとも切ない余韻。何となく脳内でフーコさん役としてヒコロヒーを思い描いていた。

やっと電車が動いて、通常よりも30分以上かけて帰宅すると、家の無線LANのインターネット接続が機能していないことに気づいた。テレビを点けると、地デジもBSもCSもケーブルテレビも映らない。Xを見たら落雷の影響で同じような状況の人の投稿がいくつか見られた。もしかして、ネットもテレビもないまま、夏休みに突入するのか……?

川端康成文学賞受賞記念インタビュー

「町屋良平が語る「私」と物語をめぐる新しい私小説」聞き手・構成 水上文 474

前日の夜、録画がたまっていた分の『虎に翼』を最新回まで見て夜更かししてしまい、変な時間に目が覚めてしまって完全に寝不足。ごろごろ横になりつつ、文藝の町屋良平インタビューを読む。町屋良平作品はちょこちょこ読んでいるけれど、ここ4年ほどの作品は追えていない。ここ最近はまたモードが変わってきているっぽいというのは、小耳にはさんでいるが。そんなに長いインタビューではないけど、フィクションより現実の「私」のほうがリアリティが薄い、現在は小説にも実用的な要素が求められてるのでは?など、色々と気になる論点があって面白かった。最近の作品も読まねば。

今日は、仕事がそこそこ忙しかった。合間の休憩時間で友田さんの『『百年の孤独』文庫版を読み進める。『百年の孤独』読了済みの状態だと、「え、そんなシーンあったっけ」とか「あれ、あのくだりはスルーなんだ」とか、自分自身と友田さんの読書の差異が浮かび上がるので、自主制作版を読んだときとは読み応えがまた違う印象。『百年の孤独』を知っていると、脱線していく瞬間がより楽しいし、脱線先もよく知ってるものだった場合、知ってる曲から別の知ってる曲へDJがスムースに繋げた時のような高揚感がある。具体的にはニカノル神父から小さんの「粗忽長屋」への繋ぎ方が、びたっとハマった感触があって楽しい。

新たな人間国宝認定のニュースがあり、京山幸枝若が浪曲師で初めての人間国宝に選出された。最近、浪曲をもっと見に行きたい気持ちなのでちょっと嬉しい。

連載

皆川博子「ジンタルス RED AMBER 風配図Ⅱ」【第4回】 482

今日は一日中出かける日と決めて、まずは朝から太田記念美術館へ。開館20分前くらいに到着して文藝を読みながら待つ。着いたときは2、3人しかいなかったが、後ろにどんどん人が並んで行列に。入場してからもどんどん人が増えて、これまで太田記念美術館では体験したことないくらいの混み方。様々な妖怪・幽霊が描かれた浮世絵を集めた『浮世絵お化け屋敷』の前期展示。怖くてユーモラスで、様々なバリエーションのお化けが描かれていて楽しい。一番わけが分からなくて面白かったのは、川に落ちた雷神が河童に川へ引きづりこまれそうになって、思わず放屁してしまう絵。月岡芳年の絵もいくつかあって、やはり構図がカッコいいものが多い。

青山ブックセンターを経由し渋谷へ。神座でラーメン、唐揚げにビールで腹いっぱいにしてから御機嫌でユーロライブへ到着。
渋谷らくごの開演を待つ間に、皆川博子『ジンタルス RED AMBER 風配図Ⅱ』第四回。時代背景はよくわからないが、中世のロシアとバルト海周辺を舞台にした群像劇っぽい。登場人物紹介と別に『秘密法廷』の登場人物の記載があるので、作中作の構造なのだろうか。設定が分からないまま読んだけど、部分的には印象的な箇所がある。スジェンスキーから「君の文章には、詩がある」と素質を認められたステンカが、誕生日を知らない自分にとって、今日が誕生日だということにしようと決める場面がよかった。ステンカもスジェンスキーもどんな人物だかよくわからないが。

朝吹真理子「ゆめ」【第6回】 503

会社に向かう電車で朝吹真理子「ゆめ」第6回。麦と太郎という姉弟の子どものころの記憶から現在の話へ、かと思いきや時間が遡って戦時中の、あやめという富豪の令嬢(?)の話になっていく。あやめは太郎が死ぬ夢を見ていたり(現代の太郎と同じ人?同じ名前の別人?)、母親からの”妻の心得”の訓戒が長々と古文の文体で展開されたり、謎の小説だ。

今日は夏休み前の仕事最終日。細々した作業を済ませたら取り急ぎ今日中に終わらせなければならないものは終わって、連休明け以降にやる作業の下準備をだらだらと進める。

どれだけ晴れていても、最近のゲリラ豪雨が不安で、洗濯物を部屋干ししてしまう。すると帰宅後の部屋は暑さに加えて、洗濯物から水気が蒸発して湿気もすごい。急いで窓を開けて換気をしようとしたところで、スマホからの地震アラーム。僕の家はあまり揺れなかったけれど、最近の気候も地面もなかなかにヤバい。

『ゆめ』第6回を読み終えて、戦時中の性暴力や空襲が描かれつつ、夢のビジョンも交えてどんどんと異様なテキストになっていく。この回しか読んでないから、流れが全然わからないんだけど、これはものすごい作品なのではないか。将来的に単行本にまとまったら読みたいな。

絲山秋子「細長い場所」【第6回】閉ざされたキャンプ 526

午前中に絲山秋子「細長い場所」第6回。連載ではあるけど、この回だけで単発でも読める。連作短篇なのかしら。どうやらこの世ならざる場所にあるらしいキャンプ場で、喋る馬に乗る話。おそらく死後の世界で、馬の躍動に生を感じる。

昼に下北沢BONUS TRACKへ。BOOK LOVER’S HOLIDAYの出店とB&Bを見て回る。B&Bの入口に友田さんのブースがあって少し雑談し、関口竜平『『『百年の孤独』を代わりに読む』を代わりに読む』を購入。B&Bのなかで少し涼んでから店を出る。夜が雨の予報だったのに傘を持ってくるのを忘れたから、一度帰宅し、風呂に入って少し休憩。折り畳み傘をもって、夕方から再び外へ。

夜はらくごカフェで笑福亭茶光さんの新作落語の会「新作ドロップ」。オープニングトークはゲストの昇々師匠の、新作落語の作り方について。「テーマは古典にないものを選び、構成は古典から借りて使う」「起承転結にしない」「共感を大切に」など、創作する上でのメソッドや軸がきっちり確立されている印象を受けた。それでいて高座はクレイジーで、今回もプレゼン前に尿意を我慢するネタ「決壊」で大暴れでめちゃくちゃ笑ってしまった。茶光さんのネタでは「オカンとサツキ」がすごい。「短いカットを矢継ぎ早につなげて、長い期間をエモーショナルに描く」という、例えばCMやショートムービー等で使われそうな手法を、上方落語の小拍子を使って表現する。梅雨時のネタということで、演じられるタイミングがかなり限られるらしいのがもったいないほどの良作だと思う。
落語会中から雷の音が聞こえていたが、会が終わって外に出ると物凄い雨。一度家に傘を取りに帰っておいて正解だった。とはいえ、雨が激しすぎて傘があってもかなり濡れてしまったが、地下鉄の駅へ何とか滑り込んで帰路へつく。

町田康「ギケイキ」【第45回】 534

今日は仕事の合間に昨日の文化系トークラジオLifeを聴く。工藤さんの合いの手力が高い。ちょっと番組のテンションが高まるし、一人でしゃべるターンが長くなりがちなので合いの手が入ると聞き手にとっても息継ぎになる。

今日は仕事の作業がそこそこあったけど、夕方までに片付いた。帰りの電車で町田康『ギケイキ』第45回を読む。連載ではあるが、「義経記」の口語訳的な作品だから、訳が分かんない感じではない。義経一行が山伏姿で関所を通れるか通れないか、というところなので、有名な「勧進帳」あたりのパートなのだろう。ハッタリをかます弁慶がノリノリだ。

この装幀がすごい!【第14回】ゲスト 純靄禾(文藝天国)/川名潤・佐藤亜沙美 545

会社へ向かう電車で「この装幀がすごい!」第14回。タイトル通り書籍の装幀について語る連載。装幀のプロフェッショナルだけでなく、ゲストとして別ジャンルの業種からも招かれているらしい。装幀のプロ目線と、読者側の思い入れと、それぞれのアングルから「すごい!」と語れる枠ということか。文藝天国って名前は見覚えがあり、確かSpotifyで楽曲が配信されているのを見かけた記憶がある。純靄禾のプロフィールに「色彩作家」とあったので、音楽に限らないアーティスト活動をしているらしい。佐藤亜沙美のコラムで雑誌「精神看護」のケアをひらく特集の表紙がすごい、という話がされていて、ケアをひらくシリーズの『超人ナイチンゲール』を途中まで読んで積んでいることを思い出す。文藝を読み終えたら取り掛かろう。

仕事中の作業でポイエティークRADIOを聞いた。その後に読んだ日記でもそうだけど、柿内さんが昨日のスピードスターブックフェスでの、僕の店番っぷりについて言及してくれていた。こんなに褒めてもらえるのなら、店番の人としての人気獲得を目指すのもいいかもしれない。代わりに売る人だ。

山本貴光「文芸的事象クロニクル」2024年3月~5月

なかの芸能小劇場で「俺の圓朝忌」。三遊亭青森さんが後輩の三遊亭萬都さん、桃月庵黒酒さんを招集して、三遊亭圓朝の落語2作をリレー形式で口演する企画。前半は萬都さん→青森さんと「松と藤芸妓の替紋」。奥州屋新助は何度か座敷に呼んだことのある芸者・美代吉が、自分の生き別れの妹だと気づく。美代吉が芸者を辞めて不自由なく暮らせるよう、妹分として身請けすることにした新助だったが、そこに美代吉の恋人・庄三郎がやってきて……という話。どんなストーリーか全く知らない状態で聴いていたので、サスペンスフルな展開にどんどん引き込まれる。まだ二つ目になったばかりの萬都さんがものすごく上手いのにも驚いた。特に、幇間の三八の明るく軽い喋りっぷりと、庄三郎が新助を殺してしまうシーンの緊迫感が見事。青森さんは語り口がクールで、特に車夫殺しの場面は脳内に映画的な映像が広がるくらいに見入ってしまった。

仲入り休憩中に山本貴光「文芸的事象クロニクル」に目を通す。「2004年にテルアビブで起きた自爆テロへの関与の容疑で投獄され、イスラエルの刑務所に20年にわたって収監されている」状態で、大学に入学して政治学を修め、執筆作品がアラブ小説国際賞を受賞したというバシム・カンダクジのことが気になる。

季評

水上文 「たったひとり、私だけの部屋で 鳥の声を聴くために 2024年3月~2024年6月」 547

十条へ向かう電車では水上文の文芸時評。私小説がほとんど男性作家によって占められてきたことについて、「彼らは「私」を、何の戸惑いもなく個のものとして発することができる」という指摘がある。社会からの排除や差別により、そもそも存在していないことにされたり、アイデンティティを不安なく表明することができない「私」。その文脈で紹介されている李言峰『言霊の幸う国で』は気になるし、以前、機械書房で買った文藝のバックナンバーの私小説特集も読まねば、と思う。やはり、文芸誌を読むと、読みたいものが増える。

十条の肉骨茶の二階で春雨や晴太さんの落語会。ルート9の会で気になっていたので、一人会に来てみた。ネタは「猫と金魚」「粗忽長屋」「厩火事」の3席。細かなクスグリのアレンジがあって楽しい。
前日に、新型コロナ感染によりお客さんからの予約キャンセルが数件あったとのこと。やはり新型コロナまだまだ流行り続けているんだな。夏休みだからといって調子に乗りすぎないようにせねば。

書評

吉本ばなな『下町サイキック』【評】古賀及子 556

昨日は夜更かしぎみだったのに、朝早く目が覚めてしまい、かなり寝不足。仕事は、ぽつぽつときた作業依頼に、のろのろと対応する。作業の数が多くなかったのが救い。合間に、Xのフォロワーさんと久々に遊びに行く約束をしたり。

眠いので、なかなかページが進まなかったが、『百年の孤独』を読み進めた。475ページまで。大量虐殺が隠蔽される恐ろしさにゾッとする。戦争とはまた異なる形態のジェノサイドだ。
文藝は書評を一本読む。吉本ばななも、もちろん名前や代表作のタイトルを知ってはいるものの、これまで読んだことがない作家。書評を読んだ感じ、”下町”ならではのほっこりした雰囲気の中に、何か不穏なものが入り混じったようなテイストなのかな、と思う。

山内マリコ『マリリン・トールド・ミー』【評】伊藤春奈(花束書房) 557

今日も今日とて、眠い。目覚ましがてら、文藝の書評欄を読む。『マリリン・トールド・ミー』は、以前アフター6ジャンクションでも紹介されていて気になっている。アトロクではマリリン・モンローに絞った特集だったけど、書評によると、マリリンからの電話を受け、彼女について調べ卒論を執筆する中で成長する主人公のパートも分厚そうで、読みごたえありそう。

午前中に仕事をいくらか片づけて、しばらく暇。我が社、業界全体の流れが変わってきているので、結構苦境なのではという話を同じ部署の人と噂する。細々とした作業を済ませて、定時で退勤。

帰宅後、録画してある映画の中から『Pearl パール』を観た。予告編の印象でもっとテンション高く激しい映画なのかと思ってたが、意外とゆったりしたペースの作品。人は血みどろでしっかり殺されはするが、いきなり驚かすような見せ方はあまり無いので落ち着いて見られる。戦争に感染症、家族の介護など、自分を田舎の牧場に閉じ込める要因に周りを取り囲まれ、抑圧されながら映画スターを夢見るパール。その痛ましさがそのまま人の形になったかのような、ミア・ゴスの存在感がすごい。もう取り返しがつかないことをやってしまった後で、いよいよ夢に手がかかるかというオーディションシーンでの「うーわっ…」となる展開は、何となく予想はしていたが最初の挙動からしてどうしようもなさがハッキリ分かる、あまりの冷酷さで唖然となって口あんぐりしてしまった。

古川日出男『京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る』【評】河﨑秋子 558

夏の賞与が出た! 昨年と比べて金額が減って残念。とりあえず先に家賃振り込みを済ませて、残りを貯金用口座と新NISA口座に振り分ける。お金が入って気を良くして、帰りは焼鳥屋に寄り道して夕食。で、店を出たらゲリラ豪雨。折り畳み傘の中に身を縮こめて、なんとか家に帰る。

友田さんの『『百年の孤独』を代わりに読む』の文庫版を読む。『百年の孤独』を読み終えた後だと、脱線する瞬間がより楽しく、脱線先が自分のよく知っているものだともっと楽しい。フェルナンダは未知やすえだったのか。
一方、もはや『百年の孤独』未読状態で読んだ自主製作版『代わりに読む』を、果たして僕はどのように読んだのか、その感触がもはや思い出せない。いくら脱線が面白いとはいえ、本筋である『百年の孤独』の中身を全く知らないまま読み進める体験は、どのようなものだったのか。いや、過去の感想はTwitterやnoteに書いてはあるのだけれど、それにしたっていまいち実感としては思い出せない。
とはいえ、最近読み終えたばかりなのに『百年の孤独』も様々なディテールを既に忘却し始めているのであり、『百年の孤独』も『代わりに読む』も「忘却」自体が重要な事象のひとつであった。現時点の感想も、『百年の孤独』も忘却したあとで『代わりに読む』を再読したら僕はどう感じるのだろうか。

文藝からは短い書評を一本読む。古川日出男『京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る』、なんとなく見知った情報から変な作品っぽいなとは思っていたが、書評を読んで更にその印象を強めた。読みたいが、古川日出男についてはまだ『おおきな森』や『南無ロックンロール二十一部経』といった、分厚すぎる積読が残っている。それをまず読め。

長井短『ほどける骨折り球子』【評】児玉雨子 559

電車に乗ったところで、前も後ろもほかの電車が詰まっているからなかなか動かない。長い停車をしてからやっとひと駅進むペースなので、この間に未読の書評を読み進める。長井短『ほどける骨折り球子』。評者は児玉雨子。表題作は「守る/守られる」のジェンダー規範を巡る話ということで、面白そうなので気になる。長井短は芸名を落語の「長短」という演目にちなんで付けたというエピソードを聞いたことがあり、そんなに俳優仕事や文筆仕事を追っていない癖に勝手に親近感を抱いている。電車がひと駅進んだ。

クラリッセ・リスペクトル 福嶋伸洋・武田千香編訳『ソフィアの災難』【評】島本理生 560

まだ、家の最寄りまで3駅ある。クラリッセ・リスペクトルは名前に聞き覚えがあり、おそらく過去作が日本翻訳大賞を受賞していて、アフター6ジャンクションの特集で知ったはず。本とは関係ないけど、島本理生のこの書評での「感性とは言うなれば感覚と理論の間の、純粋な咀嚼段階である」という文章が印象的。”スマートな定義付け”憧れがある。談志の「上品とは、欲望への挙動がスローモーなこと」とか。電車がひと駅進んだ。

福尾匠『非美学』【評】小倉拓也 561

まだ、家の最寄りまで2駅ある。福尾匠はこの『非美学』も気になっているが、近々文庫化される、『眼がスクリーンになるとき』のほうが、ドゥルーズの『シネマ』を扱った映画と哲学に関する本なので、読みたいと思っている。電車がひと駅進んだ。家の最寄りは次の駅だが、車内アナウンスで「これからまた調整のため長めに停車します」と宣告されたので、電車を降りて、ひと駅分徒歩。外は雨が止んでいて、湿気は高いが汗だくになるほどの厚さではない。本来よりもだいぶ遅くに帰宅。
「未来」の最新号が届いていて、5月に行ったピクニックについて詠んだ短歌が載っている。
結社誌は投稿してから実際に掲載されて手元に届くまで三ヶ月のタイムラグがあり、評価がすぐにもらえないもどかしさもあるが、時間をおいて活字になった自分の短歌と久々に向き合うと、また詠んだばかりのときよりも距離を取って眺められるのがいい。

待ち合わせ場所のローソンまで歩く五月の全面的な明るさ

全面的な明るさ、というフレーズが、我ながらいいなと思う。全面的な明るさ。

第62回文藝賞応募規定 562

後半は黒酒さん→青森さんの「闇夜の梅」。紙問屋の娘と手代が恋仲になったのをきっかけに、悪党も絡んで悲劇が起こる。圓朝、物語の展開を作るのはうまいけど、話をたたむときに「実は家族でした!」をやりがちなの、作家としての手癖なのか、当時はこういう話の展開がベターだったのか……。黒酒さんは笑いどころもきっちりつくって後半へ繋ぎ、青森さんも迫力たっぷりの熱演。2時間半の濃密な公演だった。

帰りの電車で、目次にも書いてあるので、文藝賞応募規定も読む。選考委員に町田康がいるが、確か、群像の新人賞の選考委員もやっていて、そんな大変そうな業務を兼任しながら、『ギケイキ』の連載もしているのかと驚く。今調べたら、村田沙耶香も文學界の新人賞選考委員を兼任していて、五大文芸誌の賞といっても、実は選考委員はところどころ重複しているんだな、と気づく。正賞は万年筆で、賞金50万円(雑誌掲載の原稿料含む)は副賞。

著者一覧 567 
文藝後記 568

目次には著者一覧も書いてあるが、ここは本当に著者名と簡易的なプロフィールのみ。さっと眺める。
目次に書いてあるものはすべて読み終えたが、一番最後のページに「文藝後記」として、編集部員のコメントが載っている。群像は一人が担当していたようだが(おそらく編集長?)、文藝は複数人の5人の編集者のコメントが載っている。河出書房新社が新社屋に引っ越して最初の文藝ということでなんとなくウキウキした印象を受ける。季刊のため、この間に刊行された文藝初の単行本の紹介も多く賑やかだ。

帰宅後、風呂に入って汗を流し、ベッドに横になって、スマホで天気予報を観た。明日も暑いらしい。秋季号を読み終えて、僕はまだ夏の真っただ中にいる。

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