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自分と向き合うってなんだろう

晴れている。10月の空。秋の空。

雲ひとつなく、太陽の光を真っ直ぐに届けてくる。

なのに

何故、このココロはこんな風に晴れないのだろう。

飲食店打撃による、契約満了から半年以上たった。まだ、動きだせていない自分がいる。感染症への心配を理由に、自粛生活をしていた。

自分の場合は、まぁ、色んな人がいると思うが、強いられて、ひとり暮らしていた訳ではない。

テレワークできついとか、人とのコミュニケーション不足とか、運動不足とか。テレビやネットニュースで自粛生活による弊害を様々取り上げていたが、響かなかった。

人と会わないことが、楽だった。

幼稚園くらいまでは、活発だったと思う。でも、ひとりでいることの方が好きだった。家族は、片親がある組織に加入していたからか、ケンカばかりしていたように思う。醬油差しが飛んでいた。自分から声をかけるのが申し訳なくて、声をかけてくれた友達を大事にしようと思っていた。小学校低学年のときは、いじりと、いじめの違いがわからなかった。影でコソコソ言われているのはなんとなくわかってたけど、反論もせず、言う子とも一緒に遊んだりしていた。こころから楽しくなくて、ひとりで図書室に行き、伝記をむさぼり読む時間の方が好きだった。

昔から、馴染むことが苦手なニンゲン。

親と、自分とは年の離れた兄が、ケンカしているのをみていた

精神的な病気になった兄のことで、家族内で責任のなすりつけ合いをみてきた

どうしようもないのに だれのせいでもないのに

原因を知って何になる?

複雑に絡み合ったこころの糸を火で炙ったところで、何か変わるの?

自分が、何かの火種になったらいけないと、片親がいる組織に所属しながら、社員になった。両方の願いを、取り入れたと思っていた。

でも

人に会いすぎた。

自分を知らなすぎた。

自分を知らないくせに、人の意見を取り入れようとしていた。


省略。

社員を辞め、パートをしても、どうも息がしにくい。笑えない。

誰かと働けば、どんどん情報が入ってくる。それを良く受け止めるか、うまく流せればよいのに、ただその情報の投球に、疲れてしまう。

求人で、アットホームとか、やる気のある方、という言葉をみるたび、自分はもう、無理かもしれないと思う。辞める前に出来ていたはずの、取り繕うこと、が出来る気がしない。

取り繕う?何の為?生きる為?生きたいの?なんで?

わたしはわたしに何を求めているのだろう。

自分に向き合うって、なんなのだろう。

今、何かに向き合っている人たち、すごいよ。

本当、みんな、すごい。

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