楠久炭鉱(佐賀県)の面影 その1
佐賀県伊万里市山代町峰に、何棟もの社宅が並ぶ大きな規模の炭鉱が操業していた。久垣鉱業㈱による楠久炭鉱である。昭和43年操業当時の航空写真を見ると、運炭軌道沿いに社宅が整然と並び、ボタ捨ての埋立て地が海に向かって広がっている様子が分かる。
現在では、山側の炭鉱社宅は西田病院に、海側の炭鉱社宅とボタ捨て場は伊万里工業団に姿を変えた。ボタ捨ての埋立地はさらに造成され、伊万里工業団地が広がった。運炭軌道や貯炭場、上荷船(石炭船)の積込み施設の面影はすべて工業団地の埋立地に埋没した形だ。
山側の炭鉱社宅があったところに西田病院が、その傍らに国鉄松浦線現松浦鉄道西九州線の線路が通過している。楠久炭鉱のトロッコ運炭軌道は、この線路の下をくぐっていた。その箇所は現在、駐車場の側で道路もないところに遺る小さな橋りょうが確認できた。
この橋りょうから山手方向に向かうところに、楠久炭鉱の坑口があった。そこにはフェンスに囲まれた施設がある。伊万里工業団へ工業用水を供給する水源地、伊万里市第二工業用水道の施設であった。
その工業用水道施設の側に、土出からきれいな水が滾々と湧き出る箇所がある。土手に「久垣鉱業株式会社 楠久炭鉱」と刻まれた石材が据え置かれている。ここは楠久炭鉱の坑口水平坑のあった場所である。閉山後に楠久炭鉱を記念してか、または坑口の所在を後世に残すためか、立派な扁額が据えられている。
この扁額を観察すると、楠久炭鉱と刻まれているが、会社名の久垣鉱業株式会社と添えられているところから、鉱業所の正門に掲げられていたものではないかと推測する。基礎に石材が綺麗に組まれ、地面に固定されている。閉山後にこのような立派な痕跡を残してくれていることに、感激の念が沸く。
扁額の足元の空洞から清水が湧き、水面を覗くと魚が泳いでいる。きれいな湧き水だ。坑口跡から湧き水だろうが、伊万里工業団地の用水として活用されている。炭鉱閉山あとの坑口第二形態というべき姿だ。
ところ変わって、水平坑から遠く西方向の土地に同じ楠久炭鉱の排気坑が存在していた。滝川内讃岐というところでそこにお住いの方に楠久炭鉱について伺うと、今は土砂で埋められているが山の斜面に排気口の穴が開いているということで、紹介していただいた。
付近は鬱蒼としているが、壁面に土砂が盛られているところがあり、その隙間から空洞を発見した。
斜面は岩盤であり、盛られた土砂の上部に隙間が空いている。
内部を覗いてみると奥まで空間が広がり、手前にはブロックで仕切られたような壁があった。水が湧く音が聞こえる。かつては坑内の汚れた空気を排気た坑口だ。ブロックの仕切りは、閉塞ではなく風洞を構成する壁面の一部だったのかもしれない。
伊万里市滝川内讃岐は内陸にあるが、この地では鉱害復旧の記念碑が建立されていた。採掘した跡の古坑道に土砂が落盤し地表面が沈下するため、坑道を土砂で充填し整地したということだ。
浜辺の水平坑から内陸の排気口まで直線にして3kmである。同じ坑なので内部は通じていただろう。航空写真で確認するとその長大さに改めて驚く。
以下に楠久炭鉱の略記を記す。
昭和22年 楠久炭鉱水平坑 開坑
昭和43年 楠久炭鉱 閉山