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かつて日本の産業を根底で支えた石炭産業、 その終焉を迎えてから半世紀、各地に遺る面影は…

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かつて日本の産業を根底で支えた石炭産業、 その終焉を迎えてから半世紀、各地に遺る面影は急速に失われています。 ここではかつての産炭地をめぐり、 出会った遺構たちを写真を交え記念していきます。

最近の記事

住友赤平炭鉱 採炭機械

閉山が平成6年と他の炭鉱に比べて格段に最近であった住友赤平炭鉱、この炭鉱で実際に稼働していた採炭機械が大切に保存されている。年に幾度か開催される立坑公開日において、第一立坑の建屋から離れたところの建屋内を見学させてもらうことができた。 まず目をひくのが、地下500mの水平坑を往来したバッテリーカーであった。外板の塗装は剥げ、一部に錆などの痛みが見えるが全体的に状態がよく、今に使用しても稼働しそうな雰囲気で保存されている。 坑内員を運搬した人車も保存されている。小ぶり車体を

    • 北九州市営の観光鉄道

      • 坑業人 田代政平の碑(佐賀県)

        佐賀県伊万里市大川町立川の、旧立川炭鉱付近に一基の石碑が建っていた。旧立川炭鉱の痕跡をめぐる探訪時には何となく気にはなった石碑で、明治期に佐賀の炭鉱開発に尽力した人物の石碑が建立されていた。 その人物の名は「田代政平」であった。 この石碑は、立川炭鉱そばの大溜池ほとりに建立されていた。最初は各地によくあるような土地の名士を称えた顕彰碑か何かかと思っていたが、後日文献「石炭史・佐賀県石炭炭業資料文書・文献編」にその名士の名が紹介されていたことから、この人物が炭鉱開発に大きく寄

        • 住友赤平炭鉱 坑口浴場(北海道)

          北海道赤平市に遺る住友赤平炭鉱第一立坑。閉山して幾年たてどその堂々とした姿を見せる大炭鉱施設は、かつての炭鉱の熱気を今に伝えてくれる。この第一立坑にて大量の石炭、幾多の資材の運搬、そして数多の坑内員が地底と往復した様子が目に浮かぶ。この立坑口の隣には、地上に生還した坑内員が採炭の汚れと疲れを落とした場があった。炭鉱が運営する”坑口浴場”である。 坑口浴場は、坑内員が入坑する身支度をし、勤務明けに湯を浴び、帰宅の身支度をする場所であった。住友赤平炭鉱は、最盛期んびは3000名

        住友赤平炭鉱 採炭機械

          住友赤平炭鉱 第一立坑(北海道)

          各地の炭鉱跡を巡っていたなかで、はじめて北海道を訪れ巨大な遺構群の側に立った時の感動は今でも忘れられない。北海道赤平市、ここに保存状態の大変よい炭鉱施設が静かに佇んでいる。住友赤平炭鉱の立坑やぐらである。 見学会に同行させていただき、内部を見学して施設規模の大きさ広大さにさらに驚き奮い立った。立坑やぐらの直下には地底に続く地下施設への入口がそのまま遺っていた。 坑口に向かって幾条の軌道が伸び、トロッコが立坑を往復するケージから出たり入ったりする様子がしのばれる。 立坑は

          住友赤平炭鉱 第一立坑(北海道)

          楠久炭鉱(佐賀県)の面影 その2

          佐賀県伊万里市山代町福川内、伊万里湾沿いに位置する楠久炭鉱水平坑から山手に登ったところに、楠久炭鉱の別の施設が遺っていた。楠久炭鉱新一坑である。 付近の住人の方に聞き取りをすると、楠久炭鉱の遺構が山の斜面に建ったままになっていることを教えてくれた。その場に訪れると思いのほか大きい構造物に驚く。太い二本の柱に梁が接合され、上部空洞部は曲線を描いた造りになっていた。まるで吊り橋の橋脚のような印象を受ける。 先の住人のお話によると巻上台座の跡だという。文献では楠久炭鉱水平坑の開

          楠久炭鉱(佐賀県)の面影 その2

          楠久炭鉱(佐賀県)の面影 その1

          佐賀県伊万里市山代町峰に、何棟もの社宅が並ぶ大きな規模の炭鉱が操業していた。久垣鉱業㈱による楠久炭鉱である。昭和43年操業当時の航空写真を見ると、運炭軌道沿いに社宅が整然と並び、ボタ捨ての埋立て地が海に向かって広がっている様子が分かる。 現在では、山側の炭鉱社宅は西田病院に、海側の炭鉱社宅とボタ捨て場は伊万里工業団に姿を変えた。ボタ捨ての埋立地はさらに造成され、伊万里工業団地が広がった。運炭軌道や貯炭場、上荷船(石炭船)の積込み施設の面影はすべて工業団地の埋立地に埋没した形

          楠久炭鉱(佐賀県)の面影 その1

          立川炭鉱(佐賀県)の面影 その2

          佐賀県伊万里市大川町立川、大日鉱業㈱が昭和期に長く操業していた中堅の炭鉱である立川炭鉱について、排気坑口のほかにいくつかの遺構を目にすることができた。立川炭鉱の記念碑に刻まれた炭鉱施設の所在地をもとにそれらを確認してみる。 本坑口のほかに新坑口と刻まれてているが、これらは文献の内容と照らし合わせて、本坑口が昭和11年開坑の第一坑、新坑口が昭和38年開坑の第二坑であると思われる。昭和22年の航空写真は、その第一坑で本坑口の様子がうかがい知れる。 石碑に刻まれた情報から山神社

          立川炭鉱(佐賀県)の面影 その2

          立川炭鉱(佐賀県)の面影 その1

          佐賀県伊万里市大川町立川、ここには大日鉱業㈱が採炭していた立川炭鉱の痕跡を見ることができる。立川炭鉱のあった場所を訪れると、立派な記念碑が建立されている。 この立川炭鉱跡と揮毫された大理石の記念碑が面白いのは、かつての炭鉱施設の大まかな所在の情報が付け加えられていることである。本坑口、新坑口など、旧炭鉱跡地を探索するにあたって大変興味を惹く情報が大理石に詳しく刻まれている。 この石碑の情報と、かつて操業していた頃の航空写真を比較してみた。年代は昭和22年のもの、立川炭鉱が

          立川炭鉱(佐賀県)の面影 その1

          厳木駅(佐賀県)の給水塔

          佐賀県唐津市厳木町、有明海沿いの佐賀市と日本海沿いの唐津市を結ぶJR九州唐津線の中間に、木造の駅舎が静かにたたずんでいる。周囲は山と田畑が囲み、唐津線の峠を思わせる景色が広がっている。 この峠の駅にかつて鉄道の運行を支える近代産業遺産が綺麗に保存されていた。蒸気機関車に給水する給水塔である。航空写真を眺めてみると、駅舎の反対側に、背の高い構造物が建っていることが分かる。 駅構内に堂々と屹立し、強固なレンガ積みの頂点に、傘を被った水タンクが座っていた。水タンクは鉄板を製缶し

          厳木駅(佐賀県)の給水塔

          柏原炭鉱(素性不明・佐賀県?)の扁額

          佐賀県唐津市厳木町浪瀬、ここに大変不思議な印象を覚える炭鉱の痕跡に出会った。浪瀬地区にお住まいの方にたまたま教えていただいた炭鉱に関するものだ。「確かに炭鉱があり、ここらで石炭を採掘した証拠が遺っている」と言われ、指示されたところに向かった。 向かったところの道端を見て、大変驚愕する。しばらく呆然とした。その初見の際の驚きは言葉にできないものであった。お住まいの方から伺った証拠とは、このことだったのか。その証拠はガードレールの真下に忽然と、唐突に姿を現した。 なんと、坑口

          柏原炭鉱(素性不明・佐賀県?)の扁額

          浪瀬の山神社(佐賀県)

          佐賀県唐津市厳木町浪瀬、周囲に岩屋炭鉱、新屋敷炭鉱などの大手中堅の炭鉱のほか、東和炭鉱のような小炭鉱が操業していた厳木の土地に、炭鉱と縁の深い名前の神社が鎮座していた。浪瀬の山神社である。昭和期に操業していた炭鉱を航空写真に配置すると、取り囲むように炭鉱が点在していたことが分かる。 県道32号線に面した鳥居には、山神社と揮毫された額が架けられている。 鳥居をくぐると、参道上に浪瀬川の沢を跨ぐ石橋が架けられていた。石橋のほとりには桜の木が植えられている。 山のふもとに、境

          浪瀬の山神社(佐賀県)

          箞木(うつぼぎ)炭鉱(佐賀県)の面影 その2

          佐賀県唐津市厳木町箞木(うつぼぎ)、緑豊かなこの土地にかつて零細炭鉱が細々と操業していた。その痕跡はわずかながらも、閉山後永く姿を潜めていた2基の坑口が採炭の事実を強烈に示してくれる。箞木(うつぼぎ)炭鉱である。 唐津市立箞木小学校の東寄りと西寄りに1基、坑口が潜んでいた。今回は上図航空写真の西寄り、ウツボ木炭鉱坑口跡2を訪れた。愛宕神社付近の脇道を入ると、トタン板を貼った建屋に出くわす。 一見して屋外の物置と思える建屋だが、中を覗いて驚愕した。厚いセメントで縁取られた丸

          箞木(うつぼぎ)炭鉱(佐賀県)の面影 その2

          箞木(うつぼぎ)炭鉱(佐賀県)の面影 その1

          佐賀県唐津市厳木町箞木(うつぼぎ)に、炭鉱そのもの痕跡を示す見事な坑口が遺っていた。JR唐津線が並走する県道350号線から、沿道集落に入る脇道にその坑口は潜んでいた。炭鉱の名前は箞木(うつぼぎ)炭鉱である。 唐津市立箞木(うつぼぎ)小学校から、唐津線の線路と県道350号線を挟んで山のふもとに集落がある。山のふもとには民家が軒を寄せ合っている。 坑口はうつぼぎ小学校南の集落西寄りと東寄りの2か所に存在し、その西寄りにある坑口跡(上図坑口跡1)を訪ねてみる。坑口は家屋と車庫の

          箞木(うつぼぎ)炭鉱(佐賀県)の面影 その1

          新平野炭鉱(佐賀県)の面影

          佐賀県唐津市相知町平山上、古くは江戸時代、明治から時代を追って採炭が行われた佐賀県央の相知、資料を手元に散策すると高い杉の並木に覆われた炭鉱の遺構を目にすることができた。 県道32号線より脇道を通り、旧岩屋新岩炭鉱(高倉鉱業㈱)の鉱業所跡を横に一本道を進むと、道路の舗装は落ち葉に代わり、やがて杉の並木が覆い茂る山間に進入する。 背の高い杉が無尽に生い立ち、一帯を木陰が覆う山の斜面に、見るからに人工の構造物が忽然と姿を現した。 近寄ってみてみると、ポケットのようだ。採炭し

          新平野炭鉱(佐賀県)の面影

          岩屋新岩炭鉱(佐賀県)の面影

          佐賀県唐津市相知町平山上、のどかな田園が続く平山川沿いに、かつての小炭鉱の痕跡を見ることができた。鉱業所の名前は、岩屋新岩炭鉱である。会社名は貝島炭鉱㈱操業の相知炭鉱と隣り合わせに採炭していた高倉鉱業㈱である。 昭和39年の航空写真を観察すると、岩屋新岩炭鉱のあった場所の背後にはボタ山がそびえているのが分かる。 平山川を跨ぐ宮浦橋を渡り、岩屋新岩炭鉱のあった場所へ進む。山と山の合間に道は続いていた。 鉱業所跡と思われる場所には、民家が数件並んでいた。人影も感じられ、たまた

          岩屋新岩炭鉱(佐賀県)の面影