近いけれど、遠いってどれほど本気で思えるか

ゴールデンウィークが終わった。休みが終わってしまったという喪失感は少ない。

やったことと言えば、バーベキュー。近所の肉屋で、三密を避けようと家でバーベキューをしようとする人が密集しているという本末転倒な展開に、(なんだろうなあ。これでいいのかなあ?)という疑問をいだいたことが、思い出だ。

様々なネットニュースを眺めた。ご存知のこととは思うが、ネットニュースにはコメント機能がある。

最近見る記事のコメントには、いいねが優に1万を超えるようになってきた。これを見て、かなりの違和感を感じた。

コロナ前は、1万を超えるなんてことはあまりなかった。でも、今は毎日何かしらの記事のコメントに1万を超えるいいねがついている。

そこには、言いたい放題のコメントが乱立している。その中においては、いいねがたくさんついているコメントには、説得力があるように思える。

1万を超えるから素晴らしいわけではないのは重々承知だ。でも、こうしたコメント欄を見て、何かしらの気持ちのゆらぎはおこる。なぜゆらぐのだろう。なぜ、違和感をいだくのだろうと考えてきた。

先日、「ことばを失った若者たち」という古い本を再読していた。その時にこんな言葉に出会った。

「テレビの普及は、『新しい口語』のスタイルを生み出すことになる。」

ローコスト、ローリスク、ローリターンのコミュニケーション

テレビの普及とともに、様々な「新しい口語」が生み出されるだろうと、著者は述べていたのだ。それから、約30年が経つ。今、デジタルデバイスの普及とともに「新しい口語」なんてものではなく、新しいコミュニケーションが生まれているのだろう。

デジタルデバイスの普及とともに訪れているのは、「個別化」だと感じる。

好みの違いによって、どこまでもニッチにいける。それぞれの楽しみは、手元のスマホの中へ。

面と向かって話すことは、結構コストがかかる。特に知らない人ならなおさらだ。でも、家に帰ればオンラインの中で、共通の好みがある人とつながれる。しかも、実際に面と向かって話すことはない。コミュニケーションへのコストは低い。

ネット記事のコメントは、匿名でできる。自分の発言がまずかったことによって不利益をこうむることは少ない。ローリスクのコミュニケーションなんだ。

でも、こうしたことは、リターンの少なさを招くのではないかと思う。リターンの少なさとは、現実世界での利益の少なさということだ。

デジタルの中では、ハイリターンのように思えるかもしれない。しかし、それによって収益が出るのだろうか。youtubeのように収益化できるモデルがあればいい。しかし、収益とは単純にお金、資産で判断できるものなのか。

何か、自分を研磨して高めていくような視点でものごとを見られることって、お金以上に大切なんじゃないかと私は思う。

「デジタル」と「身体」と「手の届く範囲」

先日、NewsPicksのWeekly Ochiaiの中で、落合陽一氏が「デジタルの身体性」という言葉を使っていた。彼の話を聞きながら、私は以下のようなことを感じていた。

デジタルの世界観にどっぷりのめり込むと、身体性は過去とはまるで違うものになるだろう。それは、全て是と言えるか。いや、どうしても、デジタルではうめようのない、身体性への渇望が出てくるだろう。

デジタルデバイスとの物理的距離は、近い。スマホはいつも手の届く範囲にあるだろう。すぐにデジタルの世界にふれられる。

でも、そのデジタルにある世界は、実際は手の届く範囲になんてないことの方が多い。

アメリカのことに意見したって、何かが変わるわけでもない。そもそも本気でアメリカをなんとかしようと思っている日本人がどれだけいるのか。なんとなく意見してみよう、マウントしてみようみたいな人もいるんじゃないかと思ってしまう。

本当は、物理的には遠い場所なのに。でも、手元にあるデバイスという物理的距離の近さとコミュニケーションに向かうまでのコストの低さによって、明らかに自分のうちに秘めた思いを書き連ねる人が増えたと思う。そして、その思いは、どこか独善的なにおいがしてしまう。

まあ、こうやってnoteの記事を書いている自分だってそうだ。

近いけれど、遠いってどれだけ本気で思えるか

なんて、無責任な世の中になったんだろうと思うときがある。

すぐにコメントにいいねができるから、匿名で意見を言うことができるから、まったく影響が及ぶはずもない隣国の情報がすぐに入ってくるから、物理的距離がどんなに離れていようとも、タイムラグがなくコミュニケーションを取られるから…。

人は意見をたれながす。自分の思うようにいかせたがる。

本当は、隣りにいる人だって、本当に理解し合えるのには時間がかかる。

どんなことも、物理的距離がどんなに近くても、様々な距離が遠くにあるのが当たり前なはずなんだ。

子どもだってそうだ。本当はわからないことだらけなはずだ。

でも、教師は権力があるから、「すぐ近くで、何かしら変えられる力をもっている」と勘違いする。

デジタルの世界で、物理的距離がゼロになる、この世の中だからこそ、大切にしたいことがある。

「近いけれど、本当は遠い」と本気で思うこと。

成果を出すときだってそうだ。短い時間で(近い場所に成功があって)目標に到達しようとするけれど、本当は目標達成にはいろいろな経験を積む必要があることが多い。

子どもだってそうだ。距離は近い。感化もできるかもしれない。自分の関わりで人生が変わるかもしれない。でも、その子の本当の個性を見るには、遠い遠い道のりを少しずつ歩むような丁寧な省察やかかわりが必要なはずだ。

それを忘れてしまう。どこか、近いものは自分の働きかけが届くように錯覚する。

「近いけれど、本当は遠い。」そういうものばっかりだと私は思う。


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