未来の自分への提言〜みえることを疑いなさいよ〜
子どもの見え方と大人の見え方
「みどり色だよねぇ。」
今朝、自分の子がからし色のコーヒーカップを見て、つぶやいていた。パートナーが、「からし色って言うんだよ。」と言うと、
「みどり色なんだけどなぁ。」
子は、みどり色に見えたらしい。わたしもパートナーも、それを見て、まぁそれでいいかと思ってスルーした。
noteを開いたときに、ふと、そのことがあたまをよぎった。それを着想に、書いてみたいと思った。
みえるってなんだろう?
今回、子と私の見え方は違っていたのだ。
子はなぜ、みどり色に見えたのだろう?
もしかしたら、色弱なのかもしれない。いや、色弱じゃなくて、光の当たり方が違ったからかもしれない。昨日、散歩に出たとき、少し黄変している草と新緑のコントラストが浮かんで、みどり色といい間違えたのかもしれない。そもそも、自分が見たものをうまく表現する色がこの世になかったのかもしれない。
急に「みえる」ということが気になってきた。
目に映る。感じられる。見て取れる。
辞書で調べてみた。そうすると、3つの意味が書いてあった。(私がまとめた言葉です)
①目に映る。
②見たところ、様子が…であると感じられる。
③見て取れる。
「物質として、みえること」と「自分の認識を通して、みえること」に大きな違いがあるのだと思った。
昨日読了した「13歳からのアート思考」と結びついたのだ。
ただ、みることの難しさ
この本の詳述は、しない。でも、絶対に読むことをおすすめする。さらに、本の中にあるエクササイズも必ずやって、振り返っていってほしい。印象に残ったのは、以下の3つ。
①「自分の内側にある興味」をもとにすること
②「自分のものの見方」で世界を捉えること
③「自分なりの探究」をし続けること
わたしの最近の座右の銘は「人間は、環境の子である。」だ。イギリスの実業家ロバート・オーエンがのこした言葉だ。
人間の考えは、環境が大きく影響している。それは、子を見ると分かる。どんどん自分の発言に似てきているのだ。子の発言を通して自分の発言を省みることが増えてきている。
洗濯のCMは気付けば、男性ばかり。昔は、女性が多かった。洗濯は誰がするものかも、もしかしたら環境によって決められてきているのかもしれない。
目に映るものを、そのまま表現することがどれだけ難しいか。
前掲書に、「窓を見る」話があった。
窓を見る。すると、景色が見える。でも、本当は窓を見るとは、物質的な窓を見ること。窓を見たら、景色が見えた。結局、見たいものや認知によって、事実なんてねじ曲がってしまうんだ。(別に、窓を見たら景色が見えても悪いわけではないけれど。)
みることって難しい。
感情と環境と認識というイロメガネ
コロナの影響(おかげ)で、子と過ごす時間が増えた。
そうすると、自分がイロメガネで物事を見ていることに気づく。
子と散歩に出ると、道端の花に気づく。三つ葉が群生していることにも気づく。土を触ると、外気よりもあたたかいことに気づく。
ふだんの認識では、これらは捨てられている。自分に必要ないからだろう。
子の言動に感情的になることがある。ひとしきり終わった後に振り返る。すると、いつも「自分の感情を外に置けるようになりたいなあ」と思う。難しいんだけれど。
自分は子よりも、生きている時間が長い。その分、判断するときの材料がたくさんある。でも、それはいいことばかりではない。自分の認識のせいで物事の見え方を狭めてしまっているかもしれない。
自分を疑う自分を信じる
猪突猛進型(と自分で思っている)は、一気に突っ走られる。それは強みだ。でも、猪突猛進した先が、目的地と反対なんてこともあるだろう。
いつも、「自分を疑う」視点を忘れないようにしたい。言い換えれば、立ち止まる感覚かな。
そうやって、「自分を疑う」自分でいていいんだ。
そう自分を信じるようにいたい。
人ってそんなにすぐに変われない。また何かトラブルが起きたら、猪突猛進したくなってくるかもしれない。
そんな未来の自分への提言。
「みえることを疑いなさいよ。」