「子どもの言葉」は、「子どものもの」ではないと心に刻んで
教室における「悪い言葉」を、どうとらえますか?
「おい!てめぇ!ふざけんな!」
「死ねや!」「殺すぞ!」
「まず、土下座してもらえますか?」
書いていくうちに、げんなりしてくる。全て、私が教師になってから、子どもが発していた言葉たちだ。
これらは、「悪い言葉」とくくられるだろう。「暴言」「相手をけなす言葉」とも言えるか。
これらの言葉を聞いて、どんなことを考えるでしょうか?
(なんてひどい言葉を言うのだろう。)とまずは、言葉に着目するでしょうか。
(こんなにひどい言葉を使うなんて、なんてヤツだ。)とその子の人格を考えるでしょうか。
(他の子は、この言葉で傷ついていないだろうか?)と周りの子どもへの影響を考えるでしょうか。
とらえ方は多様にあることでしょう。
いつも心している「人間は、環境の子。」
イギリスのロバート・オーエンは、「人間は、環境の子である。」と言ったそうだ。前後の文脈はよく分からない。しかし、この「環境の子」という言葉を聞いてから、私の子どもたちの暴言へのとらえ方が、ぐんと変わったのだ。
様々な「悪い言葉」を使う子どもたちは、そうした環境に生きてきたのだ。前述したような、げんなりするほどの言葉たちは、それを使う子どもたちの日常生活にありふれているのだ。
相手の言葉を考えるには、それを使う背景となる「環境」に目を向ける。
この「環境」を最近は、「状況、文脈」や「行動目的」から、考えるようになった。ひとつ例を挙げる。
ある日、私は、当時3歳の息子が、使っていないおもちゃを片付けていた。すると、息子は私にこんな言葉をかけてきた。
「お父さん、かっこわる!」
なぜ、この子は、そのような言葉を使ったのだろうとそのときに考えた。
息子の幼稚園では、どうやら先生が注意するときに、「それじゃ、かっこわるいよ!」と声をかけているそうなのだ。(子どもの自尊心や自立心に働きかけそうなこの言葉の是非を問うのが今回の主題ではない。)
これを、子どもの視点に立って考えてみた。
①子ども→何かしたいことに向けて行動している。ただし、その行動は、全体で見ると、指導されるべきことである。
②先生→その行為を「それじゃ、かっこわるいよ!」と指導する。
③子ども→先生に指導されたから辞める。
端的にまとめると、「かっこわる!」という言葉は、息子にとって「自分(他人)のしたい行動を止めるときに有効な言葉」になっているのだ。
そのため、父が、使っていないおもちゃを片付けている行動を止めるために、「かっこわる!」という言葉を使ったのだろう。
悪い言葉を使っている子どもの、「目的」と「状況、文脈」を探るようにみる
では、冒頭の言葉を使った子どもは、その言葉を使って、どのような目的を達成しようとしているのだろうか。ただし、この達成しようとしていることは、自覚的ではない場合もある。
例えば、トランプをしていて、見られたくないから、「おい!てめえ!ふざけんなや!」と言ったとする。
この場合の指導は、「その言葉遣いはやめなさい。」だけでよいのだろうか。
悪い言葉を使ったことで、達成したかった目的(思い)に何もふれられていないではないか。
もし、「どうしたの?」と一声聞ければどうだろうか。
子どもは、「トランプが見られるのが嫌だったんです。」などと、理由を述べるだろう。
その理由には、きっとその子なりの論理性がある。それを聞かずして、表面だけを指導しても、変わらないのではないか。
もしかしたら、「おい!てめえ!ふざけんなや!」と言っていた子は、言われた子との普段のやり取りの中で、そのように言うことで、相手が萎縮して、発言者の意向が通りやすくなってしまっていたのかもしれない。こうした「状況」が見えれば、その子だけではなく、言われた子への聞き取りも必要になるだろう。
そして、その「状況」で、そうした言葉が出てくるということは、きっとどこかで、そうした言葉をかけられたことで、その「状況」が生まれてきたのだろう。つまりこれが、「環境」ということだ。
「子どもの言葉」は、本当は「子どものもの」ではないと捉えられれば。
ここまで考えてくると、「子どもの言葉」は、本当に「子どものもの」と言えるだろうか。
周囲の大人との関わりの中でそうなってしまったとしたら、それは、「大人のもの」になる。
友達との遊びの中で、そうした言葉遣いになっているならば、それは、「友達とのもの」と言えるかもしれない。
このように捉えられれば、きっと、子どもへの声かけが変わってくる。そして、そのような言語環境の中で育つ子どもたちも、きっと変わっていくのではないだろうか。
子どもの言葉を子どものものと捉えず、俯瞰してみる。
そうしたことを、心に刻んでおきたいと思い、今日の記事を書いた。