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吉原散策 浄閑寺 〜「べらぼう」の舞台〜

2025年の大河ドラマ「べらぼう」
毎週「大河ドラマ紀行」を自分なりにまとめています。

第1回目は吉原

先日、吉原探索をしてきました。

今回はその続きです。



浄閑寺

吉原とは方向がちょっと違います。
最寄りの三ノ輪駅の近く。(吉原より近い)
JRの線路沿いにありました。

ちなみに
浄閑寺は荒川区です。


投込寺

浄閑寺の門のところにある
説明文。
「投込寺」

沢山の遊女が
投げ込み同然に葬られるので
「投込寺」
今では考えられない扱いだったのだな、と思いました。

投込寺 説明文

各宿場の近くにも
「投込寺」というのはあったようです。
旅の途中で無くなった人を
葬り、供養するためのお寺だったのでしょうか。

この説明の隣に
お顔がない像が。


小夜衣供養地蔵尊

小夜衣供養地蔵尊

元々は境内にありましたが、今は山門前に立っています、「悪い部分をなでると良くなる」という言い伝えがあり、お参りの人が絶えません。 この小夜衣(さよぎぬ)については次のような話があります。

京町1丁目の四つ目屋善蔵の抱え遊女、小夜衣は、女主人に放火の罪をきせられ、火あぶりの 刑になりました。ところが、一周忌、三回忌、七回忌のたびに廓内から火が出て四つ目屋はいつ も全焼し、ついには潰れてしまいました。廓内の人々が集まって霊を慰める仏事を行ってからは、 年忌ごとの家事はなくなったそうです。

浄閑寺 ホームページより引用 http://jyokanji.com/historicsites.html


多くの史跡

お寺に入り
管理塔にいき
お寺の方に声をかけました。

勝手に入ったら行けないよなぁ。
写真、取ったらやはりだめよね。

お寺の方に訪ねたところ
「どうぞ、どうぞ」
写真もOK
史跡の地図と解説の用紙もいただきました。

ただ、やはりお墓なので
史跡以外は
なるべく写真に入らないように
撮らせていただきました。


中門


若紫の墓


若紫の墓

明治時代の遊女「若紫」
年季明け直前に、他の遊女と心中しようとやってきた客に
刺されて亡くなってしまったそうです。

永井荷風の日記「断腸亭日乗」
昭和12年6月22日に書かれているそうです。


永井荷風


永井荷風文学碑

震災

今の世のわかき人々
われにな問ひそ今の世と
また来る時代の藝術を。
われは明治の児ならずや。
その文化歴史となりて葬られし時
わが青春の夢もまた消えにけり。
団菊はしをれて桜癡は散りにき。
一葉落ちて紅葉は枯れ
緑雨の声も亦絶えたりき。
円朝も去れり紫蝶も去れり。
わが感激の泉とくに枯れたり。
われは明治の児なりけり。
或年大地俄にゆらめき
火は都を燬きぬ。
柳村先生既になく
鴎外漁史も亦姿をかくしぬ。
江戸文化の名残烟となりぬ。
明治の文化また灰となりぬ。
今の世のわかき人々
我にな語りそ今の世と
また来む時代の藝術を。
くもりし眼鏡ふくとても
われ今何をか見得べき。
われは明治の児ならずや。
去りし明治の世の児ならずや。

永井壮吉「偏奇館吟草」より


永井荷風文学碑
荷風花畳型筆塚


新吉原総霊塔


新吉原総霊塔
新吉原総霊塔


三遊亭歌笑塚


三遊亭歌笑塚

三代目 三遊亭歌笑(さんゆうてい かしょう)

戦後の人気噺家。昭和の爆笑王。
人気絶頂の33歳のときに
アメリカ兵のジープに轢かれ亡くなったそうです。

「男はつらいよ」の寅さん
渥美清さんが
三遊亭歌笑役で出ている映画


首洗い井戸

名前がとても物騒ですね。
本庄兄弟?

父・本庄助太夫の仇である平井権八を討ち果そうとした助七と助八の兄弟でしたが、兄助七は吉原田圃で権八に返り討ちにあってしまいます。弟の助八はこの井戸で兄の首を洗っているところを、無残にも権八に襲われ討ち果たされてしまいました。この平井権八の話は、浄瑠璃や歌舞伎にもなっています。

浄閑寺 ホームページより引用 http://jyokanji.com/historicsites.html
首洗い井戸


首洗い井戸

敵である平井権八をモデルにした
歌舞伎、講談、落語など
いろいろあるそうです。
白井権八 の名前のほうが有名。


『平井権八実伝』(国文学研究資料館所蔵)
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/300025088


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