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実家を片付けていて、父と祖父について知ったこと

父は自分のことをほとんど話さない人だった。

子供の頃聞かされたのは、父が江田島の海軍兵学校に居た、ということだ。

父がそこで学んだことは、寝床のシーツをいかに皺が寄らないようピンと敷くかと「のし泳ぎ」らしい。
のし泳ぎは、疲れずに長時間波を立てずに泳げる古式泳法だそうで、私も父から習った。
兵学校に関しては、その二つの話しか聞いたことがない。

実家を整理していて、海軍兵学校の写真集があったので、思いついてネットで生徒名簿を検索してみる。
父は終戦の年、昭和20年の4月に入学している。
16か17の時だ。
たったの数カ月在校しただけで終戦を迎えたのだった。
シーツとのし泳ぎで終わってしまったのも無理はない。
飢えも知らず、戦争にも行かずに済んだ負い目からだろうか?
父は、食べ物の味にケチをつけることを非常に嫌った。
グルメブームなど許せなかったのではないか?

祖父のこともほとんど知らない。
私がまだ幼い頃に亡くなったからだ。
焼き魚などを食べる時の箸使いに大変厳しく、祖父と一緒に食事をするのは恐怖だった。
トイレに行きたくなっても、中座は大変行儀の悪いこととされていたので、食事中にお漏らししてしまったこともある。

祖父は国税関係で受勲したことがある、長野の田舎では「おらが村のエラい人」だったらしい。
仏壇には、勲章を胸につけた祖父の写真が飾ってあった。

古いアルバムに、大蔵省から送られて来た、授与式への招待状と「勲章および銀杯伝達式心得」が貼られている。
差出人は、大蔵大臣 田中角栄 とあった。
のちの総理は、昭和40年には大蔵大臣だったのだ。

家族のことではあるが、これらは父が亡くなって10年以上、祖父が亡くなってからはもっともっと長い年月が経っての新発見だった。

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