自己抑圧していたら自己表現できなくなるなという話
「自由に自己表現がしたいんだね」
私はもともと比較的パワフルな方だった。パワフルという言葉が持つイメージは幅広すぎるけれど。
仕事をバリバリし、飲みに行ったり、ライブに行ったり、一人でばびゅんと海外旅行に飛び出したり。
人に相談もせずなんでもどんどんやっていた。
けれど、2歳と5歳の子どもを育て、
時短ではあれど週5で働き、
ごくひかえめではあるがそこそこに家事もする生活の中で、
「自分の使えている力はどのくらい?」という質問に、
直感的に、「2%くらいだな」と思った。
その思い浮かんだ考えに自分がびっくりした。
「え、じゃあその他のパワーはどこいっちゃったの?」と。
仕事だってシングル・DINKsの時ほど身を削るほどにしていないし、(そんな働き方は、今考えるとどうかとは思うけれども)
子育てのために色々教育だ体験だと仕掛けているわけでも、
家の中ピカピカで手の込んだ料理つくっているわけでもない。
え、ほんとうに私何してるんだろ?
ほぼ最低限の生活しているだけなのになんでこんなにいつも疲れているんだろう?
家事、育児、仕事に追われる生活を切り替えるためにも、自分が本当にやりたいことをやりたい。
しかし待てよ。あれ、私が本当にやりたいことって何だろう…?何も思いつかないな…。
疲れてパワーがないから何もできないと思っていたけど、なんかおかしいぞ…?
これまでは、
何歳までにある程度の収入を得られるようになって、管理職になって、子どもをもって、すまいを整えて、という目標に邁進してきたけれど、
もうなにもないな。
このままでいいのかな?
目標みたいな目印を過ぎてみたら、
そこにあったのは達成感や幸福感ではなく、
なんとなく心許ない気持ちだった。
そこで、メンタルモデルという考え方に触れ、カウンセリングで紐解いてもらう機会があった。
紐解いてみると、今までの目標達成・課題解決って、
自分自身を何かが「足りていない存在」として認知していて、
不足を補ったり強化したりすることで、自分の居場所を安定的なものにしようとしてきたのだ、と気付かされた。
もともと自分の実家が安心安全な居場所であると感じられずに育ってきたのが大きい。
ところが。
今、自分の夫と子どもたちはめちゃくちゃいい人たちで、最高の居場所ができてしまった。
そうしたら、外側の世界に対して居場所づくりをしなくてよくなった。
ら、やることがなくなった。
私が今までやっていたことは、やりたいことではなく不安や怖れから少しでもマシになろうとする回避行動や克服行動であって、
今その必要性がなくなったのだと。
え、それってめちゃくちゃいいことじゃん。
しかし、余っているはずのパワーが見当たらない。
どこいった?
そのパワーを使うとどうなっちゃうと思っているのか、と問うと、
「ヤバいお母さんになってしまうのでは」
という恐れみたいなものが浮かんできた。
ヤバいお母さんとは、私の実母のイメージ。
(私が妊娠したときに、歓迎しないというようなコメントをしてくる、私にとっては本当に理解できない人である。)
私は、安心安全な居場所をつくるために、周囲にも受け入れられてもらおうと、「常識的であろう」として、
自分独自の自己表現を抑圧することにパワーを割いていて、抑圧された側のパワーも行き場を失い、虚無と化している。
これに気付かされたとき、
そうか、本当の自分は、不安から駆動される回避・克服行動にもう飽き飽きしてるのだ、とすとんと納得した。キリがないもんね。
やることありませんよ!とメッセージをくれていたのか。
やりたいことは、当然だけど、やるべきことでは決してないので、
自分を抑圧していることを認識して、ここを解放したら力が戻ってくる。それはなんとなく確信がある。
ありのままの自分では世の中では受け入れられないと生存本能が認知し、本来の自己を抑圧して作り出された「世の中に受け入れられやすい自分像」(実際に受け入れられているのかは甚だ疑問だが、私の生存本能がそうだろうと決めたペルソナ)が、自分自身と分離し過ぎて、そのペルソナ運営にリソース割かれ過ぎて疲弊していたのか。
そりゃ世間や他人が評価してくれる自己を演出してきたら、自分のありのままやりたいことをやる、なんて見つかるわけないわ。
(他人からも評価される)自分のやりたい(できる/やるべき)こと
みたいな、無意識の縛りが強すぎてそりゃもうないよね。
他人からの評価でなく、
自分が自分である、自分でしかないよね、をただ認める。
そして冒頭の、
「自由に自己表現がしたいんだね」
と言われたとき、
自己表現したいということさえ抑圧して忘れてたことに気づいた。私の抑圧力半端無いな。
私の経験や言葉は取るに足りず、文章書いてまで伝えるべきこともないしな。とか。
人から評価されなければ、
表現できない/してはいけない/する意味がない、
みたいなのが無意識のうちにあったのかもな。
望むらくは、自分のモヤモヤや気づきに共感を得たり、似た境遇の人になんかヒントがあればなんて欲もなくはないけど、
それはもっとずっとあとのお話。
まずは、自分が誰に見向きされずとも自分のために表現していいんだよーってことを示すために、
ただ書いてみる。
という、実践。です。これは。