見出し画像

一瞬も永遠も自分次第

 先日書いた『夢十夜』第一夜を再び思い出す。「自分」は、目の前に寝ている「女」に死後百年待っていてくださいと言われる。そして、待っていると答えた瞬間女の目から涙が溢れ、その目を閉じると同時に女は死んでしまう。二人は目こそ合わしているが、いくつかの言葉を交わすだけで手も触れていない。気持ちが通じ合ったと感じられたのはほんの一瞬。「自分」は幸せだったのかと考えていた。

 
 

 待ち焦がれていたライブ
 子どもが活躍した運動会
 大好きなドラマの最終回
 久しぶりに行く海外旅行…


 どれも日々の生活をやりくりしては万障繰り合わせ、物理的、精神的な準備を整えて臨むけれど、いざその時が来たら一瞬で終わる。でも、それでいい、それがいいと今更ながら思う。

 
 例えば、ライブで推しと目が合ったとする。一瞬だと嬉しいけど、これが何分も続くとしたら…身動きとれないライブの他のこと何も入ってこない、そのうち周囲から何であの子(←ここはあえての「子」)だけと非難を浴び、しまいにはもうこっち見ないでとさえ思ってしまう…なんてことになりかねない。


 一瞬だからこそマイナスな部分は記憶から消え、頭の中で何度も再生しては余韻に浸り、時が経つほどに美化されて更に特別な思い出として心に残り続ける。


 「女」の死後、約束通り百年待ち続けた「自分」の元に会いに来たのは「真っ白な百合」。天から滴る露を受けふらふらと揺れる花弁(はなびら)に接吻をする「自分」。言葉を交わすことはないけれど、思いは通じ合っている。ふと、ゆりはどうして「百合」と書くのかなと調べてみると、ゆり根の形状が何層も合わさっているからということだ。百合は真っ白な頬の清純な女性をイメージさせるし、百年後に合うという意味でもぴったりだ。一瞬の交感のようだが永遠に結ばれたようにも思える。


 同じようなことが繰り返される長い人生の中に、時々幸せな一瞬があると、その前の準備段階からがんばれて、終わった後も幸せが続く。大きな幸せとか小さな幸せとか言うこともあるけど、その大きさを決めているのは自分の心。そんなことを考えていると、『夢十夜』第一夜の「自分」も、百年待てると思う人に出会えたというだけで幸せだったろう。私も幸せに気づけるアンテナをはって生きていきたい。


 最後に、藤井風さん好きな人なら百合の花と聞いて思い出す動画を置いておきます。「私も百合になりたい」とか妄想するだけで幸せになれます。





いいなと思ったら応援しよう!