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纒向の外来系土器は本当に卓越しているのか?

奈良県桜井市の纒向[まきむく]遺跡が卑弥呼の都だったという説は、出土する外来系土器の比率が高く、地域も広いいことが根拠の1つになっています。

邪馬台国大和説の論客である寺沢薫さん(纒向学研究センター)は、直接、卑弥呼や邪馬台国には触れていませんが、以下のように述べています。

▶纒向遺跡の第二の特徴※は、この時期の遺跡としては他の地域から搬入された土器が異常に多いという点にある
▶報告書『纒向』によれば、搬入土器は平均一五パーセント、最も多い纒向3式(おおむね庄内3式~布留0式に相当)では一七~一八パーセントを占めるという
▶その搬入元は瀬戸内海沿岸部、山陰、近畿各地、北陸、伊勢湾沿岸部、わずかだが北九州や南海道、東海道、南関東にもおよぶ
▶三世紀では搬入土器の比率の高さと搬入元の範囲の広さにおいて、他の追随を許さない。纒向遺跡は日本列島の物流と交易の中心とも考えられるようになった

寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』(中央公論新社、2023年)

※寺沢さんが『卑弥呼とヤマト王権』で挙げている纒向の特徴は、規模、搬入土器、非農耕・土木、ベニバナ・バジル・天蚕、前方後円墳、弧帯文・呪具、導水遺構、王宮の8点です。これだけの要素がそろっている遺跡は他にはないとしています。

寺沢さんは、卑弥呼はイトやキビの政治的合意で共立され、纒向に都を置いたとします。

卑弥呼は倭国乱を終息させるために共立されました。纒向の外来系土器の比率が高く、地域も広いことは、日本列島の様々な地域から纒向に人が訪ねてきたとか、または移り住んだことを反映しているとされます。纒向が日本列島の交流や交易の中心だったことを示し、共立された卑弥呼の都にふさわしいというわけです。

※トップ画像:桜井市埋蔵文化財センターの外来系土器の展示


外来系土器とは?

外来系土器とは、次山[つぎやま]淳さん(富山大学)が以下のように整理しています。

▶ある地域(様式圏)の型式学的な特徴の認められる土器が、異なる様式圏で出土する場合、これを「外来系土器」という
▶やや単純化していうと、外来系土器には、
▶A 土器自体が製作地から移動したもの(搬入土器)
▶この場合、<土器の素材である>胎土は搬出地(製作地周辺)のものとなる
▶B 人が移動して、移動先で元いた場所の作り方で土器をつくるもの
▶C 出土した遺跡の人が模倣してつくるもの、が<ある>
▶後二者の場合、その胎土は出土した遺跡、あるいはその周辺のものとなる

次山淳「古墳出現期の社会と土器の移動」(史林、2014年)

※▶は僕が改行した個所、< >は僕が補った個所です。

考古学の書籍や論文によっては、外来系土器は「搬入土器」と書かれていることもあり、統一されていません。このブログでは今後、ほぼ次山さんの整理に準じて、「外来系土器=搬入土器+在地産外来系土器」とします。

※ワード解説
胎土[たいど]:
土器の素材。粘土と混和材(砂礫など)からなる
砂礫[されき]:砂と小石。大ざっぱに粒径が0.063~2mmを砂、2mm以上を礫と呼ぶ(地質調査総合センター
在地[ざいち]:遺物(土器など)が出土した場所

外来系土器:在地以外の様式の特徴の認められる土器。以下のA・Bを指す
A 搬入土器:在地以外から移動した土器。胎土は在地以外
B 在地産外来系土器:在地以外の人が移動して在地で製作した土器。胎土は在地

外来系土器の識別方法

外来系土器の識別方法には、下表のように、様式分析と胎土分析の2つの方法があります。この2つを併用すれば、A搬入土器とB在地産外来系土器は識別できそうに思いますが、ことはそれほど簡単ではありません。

様式分析は、調査担当者に地域別様式に関する高い知見が要求されます。知見がなければ、外来系土器が漏れてしまう可能性があります。

胎土分析は素材である砂礫の観察(肉眼・実体鏡など)や蛍光X線分析(元素分析)などにより、砂礫の採取地を推定します。問題は砂礫の採取地が土器の製作地とは限らないケースがあると思われることです。

纒向の外来系土器への3つの疑問

唐古・鍵遺跡史跡公園の楼閣の復元(2024年10月撮影)

僕は2024年10月に奈良県唐古・鍵[からこ・かぎ]遺跡を訪ねました。唐古・鍵遺跡でも外来系土器が多く出土し、唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されています。

唐古・鍵遺跡の外来系土器の比率はどのぐらいなんだろうと調べているうちに、僕は「纒向は外来系土器の比率が高い」「外来系土器の地域が広い」という説明に疑問をもつようになりました。その理由をまとめると以下のとおりです。

➊外来系土器の比率の算出方法が確立されていない(纒向においても確立されておらず様々な数字が公表されている)
➋纒向では様式分析と胎土分析で、外来系比率や地域別比率に大きく異なる結果が出ているが、その理由が解明されていない
➌外来系比率や地域の広がりについて、纒向と他の遺跡を比較した説明がほとんどない。少数の比較できる報告等(唐古・鍵遺跡、久宝寺遺跡、中田遺跡)を見ると、必ずしも纒向が卓越しているわけではない

➊➋➌はそれぞれ関連します。➊の算出方法というのは、土器はほとんどが破片で出土するため、比率を計算する時の「分母」として何をカウントすべきかという問題です。纒向での過去の4つの調査は、下表のようにばらばらです(カウント方法は各報告・論文の説明が理解しづらく、僕の推測を含むため、正しいとは限りません)。

4つの調査の外来系比率と地域別比率を下表にまとめました(訂正論文1つを含む)。様々な数字が出ていることがわかります。

  • 上の表の比率:全体を100とした比率/水色が外来系比率

  • 下の表の比率:外来系を100とした比率/オレンジが1位、黄色が2・3位

※表はクリックで拡大します。

纒向の外来系比率:4研究で様々な数字

4つの調査の詳細を見ていきます。

①調査報告書『纒向』(1976年):外来系15%(様式分析)

纒向の外来系土器の比率は、寺沢さんも触れている調査報告書『纒向』(石野博信・関川尚功[ひさよし]編、桜井市教育委員会、1976年)で報告された「約15%」という数字が有名です。『纒向』は以下のように述べます。

▶纒向遺跡の移入もしくは、それに類した土器…には…二つの性格を見ることができる
▶一つは…移入土器そのものである。…他地域の土器が大和に搬入されてきたものを指す
▶もう一つは…他地域の土器の特徴を持ちながらも、技法、胎土などの面で大和で製作された可能性が強いものである
▶前者は土器の動きしかとらえられないが、後者は明らかに製作者の移動を推定することができる

『纒向』(1976年)

移入土器の比率
▶表75は<土器型式の>纒向1式から3式までの、出土状態が明確でほぼ均等に図化し得た土器の中から、全体の土器における外来系の占める割合と地域別及び器種別の割合を示したものである
▶本来ならば各時期の遺構ごとに出土土器のすべての破片を検索の上、表を作成すべきだが何分にも出土量が莫大なため実行し得なかった。従ってこの表は、あくまでも実際の割合の概数を示すものにすぎず、外来系土器の認定方法と共に問題は残るが、あえて纒向遺跡における外来系土器の傾向を表にしてみたわけである
▶外来系土器の占める比率はほぼ15%である。最低に見積っても10%を下ることはおそらくないと思われる
▶時期別変遷をみると<年代が新しくなるにつれて>確実に増加している。しかし増加のピークが纒向3式か、図示しえなかた纒向4式にあるのかは不明である。ただ感覚的な想定では纒向4式の可能性がある
▶地域別では東海が半数を占め、山陰・北陸、河内、吉備と続く。…<年代が新しくなるにつれて>関東系土器の増加傾向は確実であるが纒向3式期における東海系土器の減少はまだ確証は持てない

同上
表75 纒向遺跡出土外来系土器の比率
『纒向』(1976年)より転載(国会図書館デジタルコレクション※)(器種別は省略)

※国会図書館デジタルコレクションはネットで読むことができます(ID登録が必要(無料))。
※「3.土器の移動に関する問題」はコマの283から

「纒向1~4式」というのは、纒向遺跡での土器編年(土器型式の変遷)です。弥生時代の時代区分、他の土器編年(大和1~6式、庄内式・布留式)などとの対応関係を表にしました(古墳の年代や実年代はこのブログの説であり、通説とは異なります)。

『纒向』では外来系土器を以下の2つとしていて、先に示したA・Bと同じです。Aを「移入土器」と呼んでいます。

  • 移入土器そのもの。他地域の土器が大和に搬入されてきたもの

  • 他地域の土器の特徴を持ちながらも、技法、胎土などの面で大和で製作された可能性が強いもの

『纒向』では、外来系土器は「出土状態が明確でほぼ均等に図化し得た土器」の中からカウントしたとのことですが、「均等に図化し得た土器」とはどういう意味なのか、僕は正確にはわかりません。

僕の想像ですが、破片を元の土器の形に組み立て、例えば「完形に近い形まで」とか、「半完形程度まで」というように、様式がわかる形※まで復元できたものを指すのではないかと思います。同程度まで復元できた土器(のみ)をカウントしたところ、それが844個あり、そのうち様式から外来系土器とカウントしたものが123個(14.6%)あったということだと思います。

※様式は口縁部が最も特徴的だと思いますので、カウントした土器はほとんどが口縁部を含むのではないかと思います。

ですから、土器の破片すべてを、比率を算出するための調査対象にしたわけではなさそうです。対象外がどのぐらいあったのか知りたいところです。

①′石野博信氏『纒向』訂正(2019年):東海系が過大?

『纒向』では外来系比率が「約15%」、外来系のうち東海系が「約49%」と概算されましたが、なんと、2019年に『纒向』の編者の1人である石野博信さんから訂正がありました。石野さんは1990年代末ぐらいに「間違い」に気づいたそうです。

▶『纒向』に掲載した円グラフには、大きな間違いがある。それは、東海系土器の比率が49%になっている点である
▶口縁部を中心に外来系土器を数えていったが、東海系土器のS字状口縁甕だけは胴部破片でもわかるので数に入れてしまった。そのため、比率が大幅に増えてしまった
▶数えた時の口縁部を中心に当時の印象を思いおこして訂正したのが表1である。単なる印象であるため、学問的な根拠にはなりえないが、報告書の間違いを訂正し、お詫びする

石野博信「邪馬台国時代、吉備と出雲連合は大和に新王権を樹立したか」
(『季刊邪馬台国』第137号、梓書院、2019年)
石野博信(2019年)より転載

※同じグラフは『纒向学研究紀要』第9号(纒向学研究センター、2021年)p45にも掲載されています。

※ワード解説
S字状口縁甕:
弥生終末期から広まった伊勢湾岸発祥の煮炊き用の土器。あいち朝日遺跡だよりVol.14(p4)の説明がわかりやすいです。

石野さんの「東海系土器のS字状口縁甕だけは胴部破片でもわかるので数に入れてしまった」というのも、僕は意味が正確にはわかりません。東海系と様式が識別できたのであれば、カウントしても問題ない気もしますが、『纒向』の算出基準からは外れているということなのかもしれません。

石野さんは東海系の比率が過大だったとしていますが、外来系全体の比率には影響しないのでしょうか。仮に胴部のみで東海系とカウントした個数を20個として、分母からも分子からも除くとすれば、訂正後の外来系比率は「(123-20)個/(844-20)個=103個/824個=12.5%」となり、「約15%」とは言えなくなります。

石野さんの訂正後の地域別比率は、東海系の比率が下がっただけでなく、吉備系が河内系・山陰北陸系を上回って1位になっています。また、『纒向』では「関東系土器の増加傾向は確実」と述べていますが、石野さんの訂正では、関東系がなくなり駿河系※が加わっています。関東系は胎土分析でも出てきておらず、纒向における関東系の有無は気になるところです。

※駿河は沼津市の高尾山古墳(前方後方墳)が2024年6月に国指定遺跡になり注目されています。

この石野さんの訂正に対し、橋本輝彦さん(纒向学研究センター)は2021年論文で以下のように述べています。

▶石野氏によって示された…<訂正後の地域別>土器比率は、長らく纒向遺跡の調査を担当してきた筆者らが持つ印象とはかなりかけ離れたものとなっている
▶<『纒向』で示された算出方法からは>石野氏が説明するような東海系S字甕の体部破片までをカウントした状況には無かったものと考え<られる>
▶『纒向』で示された外来系土器のデータは現在も一定の傾向を示すものとして有効であると判断したい

橋本輝彦「纒向遺跡巻野内家ツラ地区における土器様相」
『纒向学研究紀要』第9号p55-66、2021年)

調査担当だった石野さんが間違っていると言っているのに、橋本さんが問題ないと判断するという、おかしなことになっています。橋本さん調査(2021年論文)では『纒向』と同じ傾向だったことから、『纒向』の数字は否定したくないのだろうと思います。

②寺沢薫氏論文(1984年):外来系26%(胎土分析)

寺沢さんは、辻地区(大型建物の地区、庄内1式~2式前半)の調査(纒向20次、1978年)で出土した土器の胎土分析を行いました。

▶この試み<『纒向』>は形式の判明する個体に限って行われたという点において確実性をもつ方法ではあるが、逆に形式の不分明なものや、認識に入らなかった搬入土器が脱落している
▶これに対して、破片までを対象にして土器胎土によって搬入率を試算した場合が第八図に示した例である
▶纒向二式期<庄内1式~庄内2式前半>の…全破片九一四について試算したものであるが、搬入率は二六%とさきの例を凌駕する結果となっている
▶言うまでもなく、搬入率の試算方法には解決すべき問題があり、地域的抽出も今後の研究に待つところ大であるが、このように纒向遺跡の平均的搬入率が向後の検討によって少なくとも二割を越えることはおそらく誤りない事情であろうと思う(注)
▶(注)『纒向』報告は、この点で搬入土器の抽出方法に根本的な欠陥を内包しているといわざるをえない

寺沢薫「纒向遺跡と初期ヤマト政権」(『橿原考古学研究所論集』6、1984年)
寺沢薫(1984年)より転載

寺沢さんは、『纒向』の分析がすべての破片を調査対象にはしていないことから、「約15%」という数字は適切な数字ではないとし、全破片914個を対象に胎土分析を行いました。纒向20次調査で出土した土器の胎土分析によると、外来系土器の比率が26%、外来系のうち中河内・中部瀬戸内が70%前後と突出して高い結果となりました。

ところが、この数字についても、寺沢さん自身から訂正が示されていることが、2021年橋本氏論文で明らかになりました。

▶調査担当者である寺沢薫氏より、
第20次調査における分類は角閃石[かくせんせき]を含む胎土の土器をすべて中河内・中部瀬戸内系としたため、当時は存在が認識されていなかった纒向遺跡および奈良盆地内で見られる角閃石を含んだ在地の土地<胎土?>も中河内・中部瀬戸内系に含めている との御教示を頂いた
▶このため、第20次調査の分析データの内容については再考の必要がある

橋本輝彦「纒向遺跡巻野内家ツラ地区における土器様相」
(『纒向学研究紀要』第9号、2021年)

寺沢さんが1984年論文の間違いにいつ気づいたのか不明ですが、寺沢さんと橋本さんの間でさえ、2021年までその間違いが共有されていなかったというのが僕には衝撃です。

寺沢さんは「纒向遺跡の平均的搬入率が…二割を越えることはおそらく誤りない」と述べていますが、在地の破片も中河内・中部瀬戸内系としてしまった可能性があるのですから、外来系比率(26%)も過大だということになります。1984年の試料で正確な胎土分析を行うと、どのような数字になるのでしょうか。

③寺沢薫氏・堀大介氏報告(2002年):外来系43%(胎土分析)

寺沢さん・堀さんは、箸墓古墳前方部(布留0式)の調査(纒向81次、1995年)で出土した土器の胎土分析を行いました。

▶算定にあたっては完形半完形品を1個体として数えることが望ましい。しかし、試料の多くは破片試料であり、とくに、細片土器は同一個体の認定が難しい
▶接合資料は乏しく形態、胎土などの検討により、同一個体と考えられるものはほとんどなかった
▶<そのため>壺・甕・鉢は口縁部と底部を、高坏・小型器台は体部と脚部の双方を数えることにした
▶実測および観察をおこなった264点の土器のうち、1点は須恵器、他の263点は古式土師器である

寺沢薫・堀大介「出土土器の統計的報告」
(『箸墓古墳周辺の調査』第6章第1節(奈良県文化財調査報告書89集、2002年))

僕はこのカウント方法も正確にはわかりません。壺・甕・鉢の口縁部の破片、底部の破片、高坏・小型器台の体部の破片、脚部の破片を1点ずつとカウントしたということでしょうか。

寺沢氏・堀氏の報告に間違い

胎土分析を行ったのは奥田尚さん(当時・八尾市立小学校教諭、橿原考古学研究所)です(奥田尚「出土土器の表面に見られる砂礫」(『箸墓古墳周辺の調査』第6章第2節(奈良県文化財調査報告書89集、2002年))。

▶奥田氏は土器に含まれる砂礫の分析によって、大きくⅠ~Ⅳと4つに類型化し、在地を含めた東は東海から西は東予までの13地域に細分されている
▶算定は…263点を対象とした。全体の様相は以下である。在地151点(59.1%)、河内10点(4.1%)、和泉4点(1.4%)、紀伊1点(0.3%)、播磨29点(10.8%)、吉備13点(4.4%)、讃岐15点(5.1%)、阿波・東予3点(1.0%)、湖東1点(0.3%)、越前1点(0.3%)、加賀8点(2.7%)、因幡6点(2.0%)、東海5点(2.4%)、不明16点(6.1%)である

同上

僕は上記を読み、奥田さんの報告(元データ)も確認して、寺沢さん・堀さんのまとめはおかしいと思いました。1文目は奥田さんの報告を正確に伝えていません。2文目は計算が合いません。正しいのは以下になります。

▶奥田氏は土器に含まれる砂礫の分析によって、大きくⅠ~Ⅷと8つに類型化し、在地を含めた東は東海から西は東予までの28地域に細分されている。そのうち今回調査対象とした土器では、5類型、22地域が該当した
▶算定は…263点を対象とした。全体の様相は以下である。在地151点(57.4%)、河内10点(3.8%)、和泉4点(1.5%)、紀伊1点(0.4%)、播磨29点(11.0%)、吉備13点(4.9%)、讃岐15点(5.7%)、阿波・東予3点(1.1%)、湖東1点(0.4%)、越前1点(0.4%)、加賀8点(3.0%)、因幡6点(2.0%)、東海5点(2.3%)、不明16点(6.1%)である

訂正後

1文目は「Ⅰ~Ⅳと4つに類型化」と述べていますが、対象とした土器では、Ⅰ・Ⅱ・Ⅳ・Ⅶ・Ⅷ類型の砂礫を使っていることが報告されています。

1文目の「13地域に細分」は、奥田さんの細分を、寺沢さん・堀さんが13地域にまとめたことを指しています。奥田さんは22地域に細分して報告しています。例えば、奥田さんの「在地・東山麓・初瀬川・寺川」を、寺沢さん・堀さんは「在地」にまとめています。寺沢さん・堀さんは「越前・加賀」は細分したままなのに(「北陸」とまとめていないのに)、「名張川・庄内川」は「東海」とまとめているのも整合性がありません(「伊勢」「尾張」とすべきです)。

2文目の( )内の比率は、寺沢さん・堀さんはどのように計算したのでしょうか。合計は100%になるのですが、分母は統一されていません。しかも、橋本輝彦さんが2021年論文で、この間違った数字をそのまま引用して、間違いが連鎖しています。

せっかく奥田さんが丁寧な分析をしているのに、寺沢さん・堀さん、橋本さんが正確に伝えていないのは残念です。

奥田氏の分類

奥田さんは河川流域ごとに堆積した砂礫を採取して分類し、土器に使われた砂礫の採取地を推定しています。

▶土器…表面に見られる砂礫を肉眼で観察した。肉眼で観察するのみであるため、粒が細かい砂や粘土粒の組成は識別できない
▶観察時、砂礫の種類、色、粒形、粒径、量等について配慮した
▶粒形は角、亜角、亜円、円に、粒径は目測による裸眼ではmm単位で、鏡下※では0.1mm単位で測定した
▶量については非常に多い、多い、中、僅か、ごく僅か、ごくごく僅かの6段階に区分した
▶観察できた砂礫種を基に源岩を推定し、同じような砂礫が遺跡近くで分布する地域を砂礫の採取地と推定した

奥田尚「出土土器の表面に見られる砂礫」
(『箸墓古墳周辺の調査』第6章第2節(奈良県文化財調査報告書89集、2002年)

※「鏡下」というのは「30倍の実体鏡下」という意味ではないかと思います。

奥田さんの地域別分類を表にしてみました。2002年奥田氏報告から作成した表になります。 

これだけの砂礫を集めて、類型化していることに驚きました。奥田さんの胎土分析はどの地域まで網羅しているのでしょうか(近畿周辺に限られている?)。例えば1000個を超える試料で、日本列島全体の胎土と照合するためには、AIでも導入しないかぎり、限界があると思いました。

奥田さんの類型には、よくわからないところが2点あります。

  • 本来は類型から採取地が推定されるはずだが、例えば、「Ⅱa,Ⅱad」類型は寺川、河内水越、吉備が該当するなど、類型(だけ)では地域を特定できないものが多い。類型はさらに細分化されているのか。

  • 吉備の類型は本当に「Ⅱa,Ⅱad」か。大阪府久宝寺[きゅうほうじ]遺跡の発掘調査概要報告書『久宝寺南(その1)』(大阪文化財センター、1987年)(付章第3節p332) の本文では、奥田さんが吉備は「Ⅴ」類型と説明している。2002年奥田氏報告と違うが、その理由が不明である。

※奥田さんの「河川の砂礫とその類型」(『庄内式土器研究』Ⅱ、庄内式土器研究会、1992年)を確認したかったのですが、東博資料館にもなく調べられませんでした。

奥田さんの分析によると、外来系比率(在地以外の胎土の比率)が43%にもなりました。これだけ大きな数字になったのはどうしてなのでしょうか。

在地産外来系土器が13点(5%)

2002年寺沢氏・堀氏報告の特徴は、胎土分析の後に様式分析もしていることです。

▶胎土ではなく土器の地域別型式による搬入状況をみると、まず、土器の型式はあきらかに他地域のものでありながら在地の胎土をしめす例がある。出土土器263点中、13点を数える
▶内訳は…山陰系の鼓形器台が1点、…庄内河内形甕が1点、…東海系S字口縁甕が1点、…布留式傾向庄内河内形甕1点、…瀬戸内東部系の壺2点、…北陸系の可能性のある甕が1点、…山陰系の甕が6点…である
▶地域別にみると、山陰系が8点、河内系が2点、東海系、北陸系が各1点ずつであり、山陰系が全体の66.6%を占める
▶胎土分析と地域的型式による搬入との間には、齟齬をきたしている例が目につく
▶これは筆者らの胎土に関する分析能力や経験の欠如とともに一型式(あるいは形式)土器の地域差を未だ細分型式として認識しえていないといううらみがあることは確かである

同上

在地産外来系土器が13点というのは、僕には意外に少ないという印象です。土器全体(263点)の5%になります。

在地産土器(112点)の中では、在地産外来系土器(13点)の比率は12%になります。土器の比率が人々の出身地を表すと仮定すると、辻地区のうち約1割が移住してきた人々だったと見なすことができます。

ところで、上記の引用の中で、3文目は地域別比率の計算がまたおかしいです。2文目の地域別の個数が正しいとすると、3文目は正しくは以下になります。 

▶地域別にみると、山陰系が7点、河内系、瀬戸内東部系が各2点、東海系、北陸系が各1点ずつであり、山陰系が全体の53.8%を占める

訂正後

寺沢さん・堀さんの計算には間違っている個所が多いのですが、元にしているデータが違うのでしょうか。

2002年報告の『箸墓古墳周辺の調査』は、纒向81次調査(1995年)の報告です。この調査は、宮内庁管理の陵墓の隣接地を発掘した調査として、メディアでも報道されたことのある画期的な調査だったと思います。

外来系土器は定量分析が重要です。調査報告書の数字にこれだけ間違いが多いと、この報告書全体の他の部分は大丈夫なのか、心配になります。

④橋本輝彦氏論文(2021年):外来系10%(様式分析)

纒向の外来系土器の最新の調査は2021年橋本氏論文です。橋本さんは、家ツラ地区(導水施設の地区、布留0式)の調査(纒向90次、1996年)で出土した土器の様式分析を行いました。

▶本年(2021年)は、最初の調査から50年を迎えることとなり、調査次数も200次に及ぶこととなった
▶この間大規模な調査や一括性の高いまとまった古式土師器の出土も少なかったこともあり、50年の間に同様の分析が試みられたのは辻地区の第20次調査と箸墓古墳の前方部周辺において実施された第81次調査のみである
▶纒向遺跡における外来系土器の分析は、3世紀における列島内の地域間交流や社会構造を探る上で重要な手掛かりであるものの、その抽出には担当者の力量や方法(形式・胎土)、統計学としての破片資料のカウント方法の問題などもあり困難な部分も多い
▶かつて報告書『纒向』などにおいて示されたデータは纒向遺跡における外来系土器の様相について、一定の傾向を示すものであったことはこれまで調査に関わってきた多くの担当者が実感しているところであり、改めて出土土器の分析を試みることは決して無駄なことではない

橋本輝彦「纒向遺跡巻野内家ツラ地区における土器様相」
『纒向学研究紀要』第9号p55~66、2021年)

▶『纒向』における…問題は分析の対象とした土器が遺構単位でまとまったものを悉皆的に[しっかいてきに=ことごとく]分析されたものでは無いことで、土器の図化を行った時点でどこまで偏りのない抽出が行われているのかが判然としない点にある
▶<そこで今回(2021年)は>出土した土器は完形資料に乏しく、殆どが破片資料であることから、各器種や搬入土器の算定にあたっては全ての資料を対象に、器形の分類が可能な口縁の全てをカウントし、器種の分類を行うこととした
▶本来は完形品や半完形品をカウントして分析を行うべきであるが、集落遺跡において出土する土器は破片化したものが主体を占めることから、形の大小にかかわらず、すべての口縁部をカウントすることにより、より平均的な傾向を出すことができるのではないかと考えた
▶この作業によってカウントした主要な器種の破片点数は1687点<である>
▶図10は今回の分析で得られた外来系土器の比率を示したものである。今回の作業における外来系土器の抽出は、専ら形式に基づいて試みたもので、全体を通しての外来系土器の存在は10.3%…となった
▶<『纒向』の地域別比率は>第90次調査における外来形土器の地域的多寡や、その内訳(%)と大きく異なる傾向は無い

同上
橋本輝彦「纒向遺跡巻野内家ツラ地区における土器様相」
(『纒向学研究紀要』第9号p55~66、2021年)より転載

▶外来系土器の抽出にあたって問題となるのは第81次調査の分析において寺沢らが記した「胎土に対する分析能力や経験の欠如とともに…土器の地域差を未だ細分型式として認識し得ていない」という状況<である>
▶今回も筆者<橋本氏>が認知できなかった外来系土器は多いと想定している
▶このことは胎土分析の手法を用いた第81次調査において顕著な傾向が出ており、…搬入元となった地域も河内・和泉・紀伊・播磨・吉備・讃岐・阿波、東予・湖東・越前・加賀・因幡・東海が確認されて…いる
▶今後、形式や胎土を合わせた分析を進めることにより、外来系土器の比率は更に増加することが考えられ、今回分析を行った第90次調査もさらに上昇する可能性も考えられる
▶<ただし>胎土分析に基づいた結果の傾向は、我々が普段調査の中で判別している形式的な分類の傾向とは大きく異なるもので、筆者らが持つ纒向遺跡における外来形土器の様相のイメージとはかなりかけ離れたものと言える
▶胎土分析に基づく分類と地域的形式による分類では傾向に大きな齟齬が出る可能性があることは、今後の作業の中で注意していく必要がある

同上

橋本さんの説明を、僕なりに整理すると以下のとおりです。

  • 『纒向』の外来系比率や地域別比率の数字は経験的にも納得できるが、すべての破片を確認しているのかは心もとない

  • 今回(2021年)はすべての破片を確認し、すべての口縁部をカウントしたところ、1687点になった

  • 様式分析により、外来系土器は190点、外来系比率は10.3%となった。地域別比率は『纒向』と似た傾向だった

  • 様式分析だけでは漏れが発生する可能性がある。胎土分析と組み合わせることで、外来系比率は増加することが考えられる

  • しかし、胎土分析による地域別比率は調査担当者の実感とはかけ離れている

ここでまた問題にしたいのは、外来系比率の計算です。全体が1687点で、外来系が190点ならば、外来系比率は11.3%です。ところが、図10を見ると、全体が1853点になっています。この1853点がどこから来た数字なのかがわかりません。主要な器種以外の破片点数も加えた数字なのでしょうか。

せっかく、すべての破片を確認していながら、このような不明点があるのが残念です。結局のところ、纒向の外来系比率に関する報告・論文には、素直に読めるものが1つもありません。

ここでは図10にしたがって、全点数1853点、外来系比率10.3%という数字を使うことにします(外来系比率は小数点以下四捨五入して「10%」とします)。これまでの4つの調査で示された外来系比率、地域別比率の一覧表を再掲します。

(再掲)

現段階では、纒向の外来系比率は、様式分析では2021年橋本氏論文の「10%」、胎土分析では2002年寺沢氏・堀氏報告の「43%」が信頼できる数字ということになると思います。

算出方法の確立を

どういう破片をカウントするのかについて、僕は橋本さんの方法が最も望ましいと思います。膨大な破片を『纒向』のように(僕の推測ですが)完形または半完形まで復元してカウントするのは、労力がかかるうえに、それでも漏れが生じるでしょう。労多くして功少なしです。口縁部だけの抽出は、1個の土器を複数個にカウントしてしまうことがあるでしょうが、やむをえないと思います。

さらに、橋本さんも述べるとおり、同じ試料で様式分析と胎土分析を併用すべきだと思います。それによって様式分析で漏れた搬入土器を抽出できますし、在地産外来系土器も抽出できます。まずは、2021年の1853点の胎土分析を行ってほしいです。1000点を超える胎土分析は、気の遠くなる作業で時間がかかるとは思いますが。

外来系比率の算出について、寺沢さんと橋本さんは以下のように述べます。

▶まだまだ途方もない時間と労力が必要だ
▶胎土分析もふくめ、こうした統計的調査は緒に就いたばかり。…「百年の大計」ということになるのかもしれない

寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』(中央公論新社、2023年)

▶これまで纒向遺跡において古式土師器全般に対する統計的な検討があまり進んでこなかった背景には、土器の構成や外来系土器の比率が調査地点によって多少のバラツキはあるものの、大きくは『纒向』で示された比率に近く、手を加える必要が感じられなかったことや、土器の形式分類や搬入元の特定には古式土師器に対する知識とそれなりの労力が必要であること、破片資料の分析を行う上での統計学的な問題が払拭できないことなどがある
▶今回<2021年>の報告は…過去50年の間でほとんど行われてこなかった出土土器の統計的な検討を悉皆的な調査にもとづいて結果を公表することは、それなりに意味を持つものになったのではないかと考えている
▶後に続く取り組みに期待したい

橋本輝彦「纒向遺跡巻野内家ツラ地区における土器様相」
(『纒向学研究紀要』第9号p55~66、2021年)

2人とも「百年の大計」とか「後に続く取り組みに期待」とか、算出方法の確立に及び腰なのがもどかしいです。算出方法が確立できないのであれば、「纒向は外来系土器の比率が高い」などとうたうべきではありません。

弥生終末期(3世紀)に土器がどのように移動したのかは、邪馬台国の所在地にかかわらず、日本の古代国家の成り立ちを考えるうえで重要です。その基礎データを提供することは考古学者の責務だと思います。

『纒向』(1976年)が出てから、もうすぐ半世紀にもなります。外来系土器の算出方法の確立を強く望みます。

様式分析と胎土分析の差:2つの理由?

外来系比率が、様式分析では10%、胎土分析では43%と大きく異なる理由はなぜでしょうか。橋本さんは「傾向に大きな齟齬が出る可能性があることは、今後の作業の中で注意していく必要がある」と述べています。「注意する必要がある」のではなく、積極的に理由を解明しなければなりません。そのためにも、同じ試料で様式分析と胎土分析の併用が欠かせません。

地域別に、2002年寺沢氏・堀氏報告(胎土分析)と2021年橋本氏論文(様式分析)の差を見たのが下表です。薄緑網かけが(全体を100とした時の)胎土分析と様式分析の差になります。

外来系を100とした比率では、一見、東海系の差が大きいように見えますが、胎土分析と様式分析の差は、全体を100とした時の比率で見るのが適切です。様式分析と胎土分析の差は、特に瀬戸内(東部瀬戸内)が大きいことがわかります(次に山陰・北陸、近畿(河内))。

僕は2つの可能性があると思います。

1つは様式分析で外来系土器が漏れた可能性です。橋本さんは「筆者<橋本氏>が認知できなかった外来系土器は多いと想定している」と述べています。橋本さんのような熟練した専門家でも、瀬戸内系などの土器を見落とすことがあるのでしょうか。やはり口縁部とはいえ、土器破片で抽出するのは限界があるということかもしれません。

もう1つは(まったくの僕の想像ですが)在地以外の砂礫が土器の素材として纒向に持ち込まれている(砂礫が流通している)可能性です。

土器を製作するために、東部瀬戸内などの砂礫(だけ)が土器の素材として纒向に持ち込まれた可能性はないでしょうか。つまり、砂礫は日本列島の流通品であり、砂礫の採取地と土器の製作地が異なる可能性です。東部瀬戸内の砂礫が纒向に持ち込まれ、纒向の人々が東部瀬戸内の砂礫を使って、在地の様式の土器を製作することがあったのではないでしょうか。

胎土は粘土と砂礫から成ります。砂礫は混和材であり、除粘(手に粘土がくっついて仕事がしにくいのを防ぐ)、土器の乾燥・焼成時のひび割れを防ぐ、といった役割があります(佐原真「考古学から見た土器の岩石学的研究」(『考古学と自然科学』5号、1972年)。東部瀬戸内などの砂礫が良質な混和材として、日本列島内を流通していてもおかしくないと思います。

砂礫のような重いものの流通はありえないかもしれず、あくまで僕の想像にすぎませんが、吉備をはじめとする東部瀬戸内は、砂礫の有数ブランド産地だったのではないかと思いました。

こういったことは、同じ試料で様式分析と胎土分析を併用して、下表の緑の網かけ(在地以外の胎土による在地様式土器)があれば、ある程度、裏づけられると思います。やはり、同じ試料で様式分析と胎土分析の併用が欠かせません。様式分析と胎土分析による地域別比率の違いが解明されなければ、外来系土器の算出方法は確立されたとは言えません。

纒向と纒向以外の遺跡の比較:外来系比率と地域の広がり

「纒向は外来系土器の比率が高い」といわれても、一般人は弥生時代の通常の遺跡では外来系比率がどのぐらいなのかを知らないので、「15%」や「10%」が高いのかどうか、ピンと来ません。調査担当のみなさんの感覚は正しいのだろうとは思いますが、「高い」というためには、他の弥生遺跡との定量的な比較が欠かせません。そのためにも、算出方法を確立させ、統一する必要があります。

外来系比率の比較

唐古・鍵との比較(様式分析)

唐古・鍵遺跡は弥生中期に最盛期を迎えた環濠集落です。

唐古・鍵考古学ミュージアムでも、外来系土器が展示されています。唐古・鍵考古学ミュージアムは、展示もHPのバーチャルミュージアムも、様式の解説が充実していて勉強になります(バーチャルミュージアムでの外来系土器の解説は㉒番からになります)。

田原本町教育委員会の『唐古・鍵遺跡考古資料目録Ⅱ 土器編2(弥生・搬入・特殊)』(2016年)がまたすばらしい資料で、唐古・鍵遺跡で出土した土器の概要の説明とともに、縄文土器・弥生土器・古式土師器136個、搬入土器53個、特殊土器(小形品・異形土器など)129個の1個1個の説明が掲載されています。

※『目録Ⅱ』は奈文研のサイトに掲載されているはずですが、掲載元がわかりません(PDFがPCに保存されてしまう)。「唐古・鍵遺跡考古資料目録Ⅱ」で検索してください。

『目録Ⅱ』は外来系比率について、以下のように述べています。

▶ここに掲載する搬入土器は、ほぼ搬入元が明らかにできるもので、完形にちかい土器を中心に53点を掲載した
▶実態は小破片も多く、搬入元が不明なものや唐古・鍵遺跡産との差異が中間的なものも多くあり、搬入土器の数量は相当な量と思われるが、唐古・鍵遺跡における搬入土器の割合を算出するのは困難である

『唐古・鍵遺跡考古資料目録Ⅱ 土器編2』(田原本町教育委員会、2016年)p12

『目録Ⅱ』には「完形にちかい土器」を掲載したとのことで、『纒向』の算出方法の考え方に近いのではないかと思います。ただし、比率を算出するのは困難と述べています。確かに、中間的な様式をどう判断するかなど、算出方法が確立していなければ、カウントしようがありません。正直なコメントです。

一方、寺沢さんは唐古・鍵遺跡の外来系比率について、1984年論文で以下のように触れています。

▶この時期<弥生終末期>の搬入率の高さはひとり纒向遺跡に限ったことではない
▶正式な報告はないが、大阪府八尾市中田遺跡では、纒向三式新(布留0)期併行の土坑出土土器一三二個体中のじつに七割が…河内…、紀伊、摂津、吉備、山陰製の土器でしめられているという
▶こうした近隣地域の搬入土器の存在は、河内―摂津―和泉地域にあってはすでに弥生時代中期から一部にみられた社会的状況<である>
▶これに対して大和では弥生時代を通じて搬入土器が一割を超えることはなく、唐古・鍵遺跡で五%前後(試算)、六条山遺跡で三%という低率であることを考えれば、纒向遺跡の搬入率はきわめて高いということができよう

寺沢薫「纒向遺跡と初期ヤマト政権」(橿原考古学研究所論集第6、1984年)

この論文の1984年当時は、唐古・鍵遺跡の調査を、田原本町が橿考研から引き継いだ時期だそうです(1982年までが橿考研調査)。寺沢さんは1984年当時は橿考研所属なので、橿考研保管の土器から様式分析によって試算したのではないかと推測します。

『目録Ⅱ』によると、唐古・鍵では弥生中期に外来系土器が多く出土し、後期に低調になるようです。外来系比率が1984年寺沢氏論文の試算のとおり、全体を平均して5%前後とすると、比率の高まる中期には5~10%だった可能性があります。

纒向は『纒向』が述べるとおり、時代が新しくなるにしたがって外来系比率が高まり、布留0式期(箸墓古墳の年代=古墳前期)がピークと推定されています。2021年橋本氏論文によると、布留0式期の外来系比率が10%ですから、その前段階である庄内式期(弥生終末期)は5~10%だったと考えられます。

つまり、弥生中期の唐古・鍵と、弥生終末期の纒向では、外来系比率は変わらないかもしれないのです(そもそも、唐古・鍵の「5%前後」と纒向の「10%」には統計学的な差があるといえるのでしょうか)。

仮に卑弥呼の都が纒向だったとしても、少なくとも、卑弥呼が共立されて纒向に都を置いたから、纒向が日本列島の交流・交易の中心となり、外来系比率が高まったとは言えないと思います。纒向が成立する前から、奈良盆地は日本列島の交流・交易の中心的な役割を担っていた可能性があるのではないでしょうか。

久宝寺遺跡・中田遺跡との比較(胎土分析)

大阪府久宝寺[きゅうほうじ]遺跡や中田遺跡では、奥田さんによって胎土分析が行われています。

久宝寺遺跡(古墳前期)では、胎土分析した土器全体(142個=150個から区分不能の8個を除く)のうち、在地比率が42%(60個/下表のⅢ類型)、外来系比率が58%(82個)です。全体のうち、吉備が15%(22個/下表のⅤ類型)(外来系の1位)と高くなっています。 

久宝寺遺跡における土器の胎土分析
『久宝寺南(その1)』(大阪文化財センター、1987年)(付章第3節p334))より転載

※類型Ⅰ紀伊、Ⅱ生駒西麓(河内)、Ⅲ在地(河内)、Ⅳa堺(和泉)、Ⅳb八尾等(河内)、Ⅴ吉備、Ⅵ因幡、Ⅷ播磨、Ⅶ・Ⅸ不明(在地以外)
※報告ではⅡ・Ⅳbも搬入土器に区分。Ⅱ・Ⅳb(14個)を在地とすると、外来系は48%(68個)。

中田遺跡では、第5次調査(1990年)の胎土分析がネットで見られます。試料数が少ないですが、25個のうち、外来系比率が48%(12個:吉備、播磨、阿波、山陰?、加賀)となっています(『中田遺跡』(八尾市文化財調査研究会、1995年)p17~20)。

胎土分析はどれも奥田さんが行っていますから、算出方法は統一されているはずです。外来系比率は、纒向遺跡が43%、久宝寺遺跡が58%(または48%)、中田遺跡は48%ですから、纒向が高いわけではありません。

※寺沢さんが1984年報告で述べる、中田遺跡の外来系土器が7割を占めるという調査は「中田1丁目39出土土器胎土の砂礫観察」(奥田尚、『八尾市文化財紀要2』、八尾市教育委員会、1986年)で報告されています。ただ、東博資料館にもなく閲覧できませんでした。2020年1月の八尾市文化財保護審議会会議録で長友朋子さん(立命館大学)が「中河内にある古墳時代初頭の遺跡の7割に吉備系の土器がみられ、中でも中田遺跡・東郷遺跡に集中している」と触れています。

外来系土器の地域の比較

寺沢さんも述べるとおり、弥生終末期には、外来系土器の出土が増える遺跡が多くなります。纒向が外来系比率でとりわけ高いわけではないことがわかり、寺沢さんは今度は外来系土器の地域の広がりを強調します。

▶この時期<弥生終末期>の遺跡の調査が全国的に進むにつれ、「纒向遺跡に匹敵する」という事例が次々と報告されるようになった
▶物流・交易センターといえる遺跡は、各地方の中心地には普遍的に存在するとの見方も出てきた
▶例えば…大阪府八尾市中田遺跡群や久宝寺[きゅうほうじ]遺跡群、…吹田市垂水南[たるみみなみ]遺跡と大阪市崇禅寺[そうぜんじ]遺跡、愛知県一宮市八王子遺跡群、…岡山県倉敷市と岡山市に広がる足守川[あしもりがわ]遺跡群、…福岡市の比恵・那珂遺跡群などはその典型である

寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』(学生社、2023年)

▶しかしそれでもなお、纒向遺跡の搬入土器はその比率の高さと、搬入元が列島規模の広がりをもつ点で卓越している
▶各地の物流・交易センターの搬入元をみると、西日本を中心とする遺跡と東日本を中心とする遺跡に大きく分けられ、おもに中距離程度のエリアで持ち運びされることが多い
▶ところが纒向遺跡の場合は、東西の中距離エリアの土器がまんべんなく流入するだけでなく、遠距離エリアの土器も持ち込まれている
▶奈良盆地が西と東の接点にあたるからだという指摘もあるけれど、ならば、北陸や東海のセンターには近畿や関東の土器がもっとはいらなければならないし、大阪のセンターには伊勢湾や東海の土器がもっと入らなければならない
▶地理的位置関係だけに理由を矮小化するのは合理的ではない

同上

寺沢さんは纒向への搬入元の広がりを、1984年論文の時から強調しています。 

▶この<纒向の>特殊性を一段と物語るものが、搬入の対象地域の広さである
▶<大阪府>中田遺跡の場合でさえその対象は近畿地方西部から山陰、吉備までに限られたのに対し、纒向遺跡ではじつに西部瀬戸内から関東地方にまで及んでいる

寺沢薫「纒向遺跡と初期ヤマト政権」(『橿原考古学研究所論集』6、1984年)

寺沢さんの見解を整理すると以下のとおりです。

  • 大和の中では纒向の外来系土器の比率が高い。唐古・鍵遺跡でも試算では5%前後である

  • 弥生終末期~古墳前期には大阪、愛知、岡山、福岡など、各地に外来系土器の比率が高い遺跡が報告されている

  • しかし、外来系土器の地域の広がりでは纒向が卓越している。纒向では近畿各地、瀬戸内、山陰、東海、北陸、関東に及ぶ

  • 例えば、大阪府中田遺跡は近畿西部から山陰・吉備までに限られる

外来系比率が纒向と匹敵する遺跡があることは、既に述べたとおりです。唐古・鍵も(年代は異なりますが)、纒向と変わらない可能性があります。

寺沢さんが強調する外来系土器の地域の広がりはどうでしょうか。

纒向、久宝寺、中田遺跡の外来系土器の地域を一覧表にまとめました(胎土分析)。

1984年寺沢氏論文の時点では、中田遺跡は「近畿地方西部から山陰、吉備までに限られた」ようですが、1995年奥田氏報告で「加賀」が加わっています。ただ、確かに久宝寺・中田に比べると、纒向の外来系土器の地域は「東海」「近江」「讃岐」など広がりをもちます。

一方、唐古・鍵遺跡の外来系土器の地域は纒向にひけをとりません。唐古・鍵考古学ミュージアムに展示があります。

「近畿地方以遠との交流」(唐古・鍵考古学ミュージアム展示)※

※東ポチさんのブログ「気ままに奈良ブログ」の2024/4/4記事の写真をお借りしました(ありがとうございます)。僕も2024年10月にミュージアムを訪ねたのですが、絵画土器に目を奪われて、撮影しわすれてしまいました。

纒向と唐古・鍵の外来系土器の地域を一覧表にしました(様式分析)。

※『纒向』と『目録Ⅱ』の算出方法は似ていると推測しますが(完形・半完形をカウント)、2021年橋本氏論文(口縁部をカウント)は異なります。

微妙なのが関東系と九州系です。石野さんによる『纒向』の訂正後には「関東系」がありません。奥田さんの胎土分析にも「関東」はありません(「不明」の中にあるかもしれませんが)。纒向で関東系土器が出土しているのか、明確にしてほしいです。

九州系は、寺沢さんも石野さんもわずかですが、出土しているとしています。石野さんは2019年論文で「<1973年に九州を回った際>纒向遺跡の九州系と考えた大壺片を携行しておきながら、大分県安国寺遺跡の南九州系由来と考えられる大壺には気付いていなかった」と述べています。大分県で出土した土器の系統があるのかもしれません。ただし、報告書・論文などで正式には報告されていないと思います。

報告・論文からは、纒向にあって唐古・鍵にないのは「北陸」「関東」です。逆に「信越」「九州」は、唐古・鍵にはありますが、纒向にはありません(「九州」も纒向の正式な報告・論文にはないと思われる)。

唐古・鍵は、纒向と外来系比率が同程度の可能性があるだけでなく、地域の広がりもひけをとらないといっていいのではないでしょうか。

唐古・鍵でも胎土分析が行われてほしいです。様式分析と比べて、または纒向の胎土分析と比べて、どんな結果が出るでしょうか。

生活必需品の移動の比較

秋山浩三さん(大阪府立弥生文化博物館)は、イギリスの考古学者、ゴードン・チャイルド(1892~1957年)の「都市」の定義のうち、「生活必需品の(恒常的な)長距離交易」を重視し、唐古・鍵遺跡の外来系土器に関連して、以下のように述べています。

▶唐古・鍵に遠くからきているのは、まず北陸・姫川のヒスイ、硬玉です
▶それ以外に遠くからきているのは、土器が中部・信濃からきていたり、中国・吉備からの大きい土器はたぶん何らかの祭りに使ったり、特別な用途で持ってきているわけです。普通の生活に使う土器ではないものです
▶唐古・鍵も、そのような生活必需品ではないものをかなり遠くから持ってきているのです。持ってきているのは確かですが、しょっちゅう、あるいはたくさん持ち込まれているのではどうもなさそうです
▶生活必需品については、日常の土器とか…を近畿内の周辺地域から搬入してくる。基本的に生活必需品は近距離移動であることが唐古・鍵の実態でしょう

秋山浩三「チャイルドの<長距離交易>と唐古・鍵~纏向の時代」
『ヤマト王権はいかにして始まったか』(学生社、2011年)=2007年10月シンポジウム採録)

生活必需品の移動によって、交流・交易がどの程度活発だったかを推定する考え方はおもしろいと思います。外来系土器の中で生活必需品でない土器があっても、単発的だった可能性があります。生活必需品の移動が多ければ、それだけ交流・交易が活発だったといえます。

ただ、唐古・鍵や纒向の外来系土器の中で、生活必需品の土器とそうでない土器は簡単に識別できるものなのでしょうか。器種、土器の大きさ、煤のつき具合などで識別するのでしょうか。

唐古・鍵で出土した吉備系の大型壺の用途が祭祀で、生活必需品ではないだろうことは何となく納得できます。一方、中部系の土器は『目録Ⅱ』によると鉢ですが、これが生活必需品でないと言い切れるのでしょうか。

秋山さんの考え方はおもしろいのですが、生活必需品の識別方法がわからず、唐古・鍵と纒向で生活必需品の比率を比較したデータも提示されていません。シンポジウムという制約があったとは思いますが、参考文献も掲載されていません。

現段階では「生活必需品は近距離移動であることが唐古・鍵の実態」(つまり、唐古・鍵では遠距離の移動は活発ではなかった)と言われても説得力がないと思います。

近畿以外との比較はAIの導入を

僕が調べたかぎりでは、何らかの形で、外来系比率や地域別比率まで公表されているのは、近畿の遺跡しか見つけられませんでした。

寺沢さんは、日本列島の交流・交易のセンター的な遺跡として、近畿以外にも、愛知県八王子遺跡群、岡山県足守川[あしもりがわ]遺跡群、福岡市比恵・那珂遺跡群も挙げています。

岡山県古代吉備文化財センターのHPを見ると、以下のような記載があって興味深いです。

▶<岡山県>津寺遺跡からは東海地方の台付甕、北陸の甕・器台、畿内の壺・甕・高杯、讃岐の壺・甕・高杯、山陰の壺・甕・高杯・鼓形器台・台付椀などが確認される
▶津寺遺跡から約1km南にある足守川加茂A・B遺跡からは東海地方の台付甕、畿内の壺・甕・高杯、山陰の壺・甕・鼓形器台、西部瀬戸内の壺・甕、讃岐の壺・甕、九州の壺・甕・高杯などが確認されている
▶この他にも高塚遺跡、立田遺跡、政所遺跡、上東遺跡など、挙げればきりがない
▶古墳時代初頭の吉備の地で確認された他地域の土器の存在から、既にそこには全国の各地からの人の移動と一定期間の居住が想定される
▶吉備の土器もまた東は畿内、西は九州までの範囲での出土が報告されている。吉備の人もまた各地へと移動していることが窺われる
土器の移動の背景が何であったのかは、大和と吉備、吉備と山陰などといった単に地域間の交流といった次元ではなく、日本列島全体の政治事象の中で理解し、考えていかなければならない問題であろう

島崎東「意外に多い土器の移動」
(岡山県古代吉備文化財センター、グラフおかやま1998年4月号より転載、2019/10/15更新)

津寺遺跡、比恵・那珂遺跡、八王子遺跡などでも、外来系土器の定量分析が行われてほしいです。その場合、全国で統一された算出方法が必要です。

2014年に古代史歴史文化協議会が設立され、地域をまたがった共同研究が行われています。協議会には2024年12月時点で、埼玉、奈良、和歌山、鳥取、島根、岡山、佐賀、宮崎の8県が加盟しています。これまで古墳時代の玉類・刀剣類をテーマに共同研究が行われたほか、2024年12月には「古墳時代の王権と地域」をテーマに講演会も行われました。

土器の移動は協議会の共同研究のテーマにふさわしいと思います。協議会で算出方法を統一して、統一された算出方法のもと、様式分析と胎土分析で、各地域の外来系土器の比率、外来系土器の地域別比率が算出されてほしいです。

僕は様式分析も胎土分析もAIの導入が必要だと思います。日本列島全体の様式や砂礫を類型化し、大量の試料を識別するのは、もはや調査者個人の経験だけに頼ることはできません。橋本さんや奥田さんのノウハウをAIに覚え込ませる必要があります。寺沢さんの述べるとおり、今からの「百年の計」になってしまいますが、少しずつでも前進してほしいです。

纒向の卓越は前提ではない

冒頭で紹介した次山淳さん(富山大学)の論文では、外来系土器のこれまでの研究史がまとめられています。僕には、纒向の外来系比率と地域の広がりが卓越していることを前提にした考察が少なくないように見受けられます。

▶春成秀爾は…弥生時代終末期には大和と遠隔地諸集団の関係が、大和への人間の移動を含むものであったとし…「大和盆地における他地方土器型式の検出は…大和盆地へ他地方の人々が一時的な移動だけでなく、在地の集団関係から切りはなされて、生口、奴婢などの形態をとって強制移動させられている可能性をも示唆する…」とした<1984年>
▶穴澤咊光は、広範囲な搬入土器の出土から纒向遺跡への労働力と物資の集積を想定し、「…<纒向では>貯蔵物資の大々的放出による再分配が行われていた可能性も決して否定できない」としたうえで、「纒向遺跡は当時の日本国内の流通機構の要め」であったことを示唆した<1985年>

次山淳「古墳出現期の社会と土器の移動」(史林、2014年)

しかし、本当に外来系比率や地域の広がりで纒向が卓越していたのかどうか、今回の記事で見たように、現時点では断言できないと思います。

土器の移動、ひいては人々の移動が、纒向が形成される年代から活発になり、纒向がその中心だったかのような先入観は改められるべきではないかと思います。確立された算出方法による基礎データの蓄積を望みます。

まとめ:纒向の外来系土器は卓越しておらず、卑弥呼の都の根拠にはならない

最後にこの記事のまとめです。

  • 纒向の外来系土器の比率は調査報告書『纒向』(1976年)で報告された「約15%」という数字がよく知られている

  • 2021年の様式分析(布留0)では外来系比率は「10%」となった。現時点ではこの数字が最も信頼できる

  • 2002年の胎土分析では外来系比率は「43%」となった

  • 様式分析と胎土分析で大きな差が出る理由を解明しなければならない。同じ試料で様式分析と胎土分析の併用が必要である

  • 纒向が卓越しているというためには、確立され、統一された算出方法で、他遺跡との比較が必要である

  • 現時点での胎土分析による外来系比率は、大阪府久宝寺遺跡は58%(または48%)、中田遺跡も48%であり、纒向が高いわけではない

  • 外来系土器の地域の広がりでも、纒向は関東から九州まで、唐古・鍵は信越から九州までであり、同等といえる(纒向の関東・九州は不確か)

  • 纒向は外来系土器の比率や地域の広がりが卓越しているわけではない。奈良盆地は纒向が形成される前から日本列島の交流・交易の中心だった可能性がある

  • 外来系土器は纒向が卑弥呼の都であることの根拠にはならない

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