古墳の周濠=溜池説は成り立つか?
前方後円墳の特徴
古墳は、古代の王など身分の高い人のお墓です。埋葬施設がありますから、墓であることは間違いありません。
墳長が200mを超える巨大前方後円墳は41基あります。うち37基が近畿です。巨大前方後円墳は、出土した円筒埴輪の様式によって、図表1のような順番でつくられたと考えられています(古墳前期の実年代は僕の説によります)。
図表1
前方後円墳は、その形でヤマト王権との同盟関係を、その規模や副葬品で身分を表していると考えられています。
考古学の重鎮である白石太一郎さんと広瀬和雄さん(ともに歴博)は以下のように述べています。
古墳をつくるためには大勢の人たちが長い期間にわたって動員されたでしょう。図表1を見てもわかるとおり、特に4世紀後半~5世紀初めには巨大前方後円墳の造営が相次ぎました。
人々はどうやってモチベーションを維持したのでしょうか。リーダーへの敬愛・服従の念だったのでしょうか。祖先崇拝や祭祀がそれだけ重視されていたのでしょうか。
図表2
実は、古墳は墓だという事実に加え、古墳の周濠[しゅうごう=墳丘の周りのお堀]は溜池[ためいけ]としても機能していたのではないかという説があります。主に農業土木の研究者から提唱されています。
歴史家の小名木善行[おなぎ・ぜんこう]さんも同じ説を唱えています(YouTube「古墳時代という嘘 〜実は墓ではなかった!?〜」(目からウロコの日本の歴史2-3、2015年)、約15分))。
実際、奈良県行燈山[あんどんやま]古墳の周濠(崇神天皇陵1号堀・2号堀)、ウワナベ古墳の周濠(上鍋池)をはじめ、現在、溜池として利用されている周濠は少なくありません。
一方、後述するとおり、考古学的には、築造時の古墳の周濠が溜池だったという説は否定されています。小名木さんも溜池説の根拠を示していないように見受けられ、疑問がふくらみます。古墳の周濠=溜池説は成り立つのか、検証したいと思います。
溜池によって米の収穫増大
人々のモチベーションに
溜池には主に2つの機能があります。
水田給水機能
洪水調節機能
水田給水機能は、日照りが続いて雨が降らない時でも、溜池の水を水田に供給することによって、稲の成長を助け、収穫を維持する機能です。湿地以外の乾いた平地で水田を開発する時にも、溜池をつくれば、溜池の水を使うことができます。
洪水調節機能は、大雨で洪水が発生した時に、一時的に水を溜めて、洪水被害を緩和する機能です。
どちらも米の収穫、ひいては人々の生活、豊かさに役立ちます。人々が古墳づくりに協力したのも納得できます。
「政治的実力」で王の地位を競う
古墳の周濠が溜池だったならば、「古墳の数=王の数」ではなくなります。1人の王が複数の溜池をつくることは当然あったでしょうから。図表1のように、4世紀の奈良盆地に15基前後もの巨大前方後円墳がつくられたのも納得できます。すべての巨大前方後円墳が王の墓ということはないと思います。
一方、古墳前期・中期には、奈良盆地にも複数の王権が併存していたという説があります。
例えば、奈良盆地東南部では、箸墓古墳・西殿塚古墳・行燈山古墳・渋谷向山[しぶたにむかいやま]古墳が王墓とされていますが、さらに南に桜井茶臼山・メスリ山古墳という巨大前方後円墳があります。
奈良盆地の北部には佐紀古墳群、西部には馬見[うまみ]古墳群があります。さすがに、1つの王権の力で、奈良盆地東南部の古墳群と併行して、南にも、北部にも西部にも巨大前方後円墳を立て続けにつくるのは難しかったのではないでしょうか。
4世紀後半から古墳が大型化していくことについて、坂靖さん(橿原考古学研究所)は以下のように述べています。
義江明子さん(帝京大学)も以下のように述べています。
僕も2023/7/5のnote記事のコラムで書いたとおり、男系継承は欽明天皇の皇子世代(6世紀)からであり、5世紀まで倭王は世襲ではなく、倭王を出す複数の王統があり、その中から政治的実力のある者が倭王に選出されたという説に賛成です。
その場合の「政治的実力」とは何でしょうか。
水田開発、米の収穫量こそが「政治的実力」だった可能性があります。米の収穫量が人々の豊かさの指標であり、米の収穫増大を実現したリーダーが、話し合いによって王に共立されたのではないでしょうか。
墓としての古墳は、王の生前につくられたことになります。寿陵[じゅりょう]です。
溜池ならば説明できる謎
そこで、古墳の周濠が溜池だった可能性が出てきます。古墳の周濠が溜池だったのであれば、様々な疑問も説明できます。
佐紀古墳群の市庭古墳は平城京の造営時に早くも破壊されています。古墳破壊は古代からあったのです。墓として重視されていなかったことを表すと思います。平城京造営の頃には溜池としての役割も終えていた可能性があります。
埋葬施設が複数ある古墳があります。王が死んだ時に、溜池の盛り土にたまたま既に埋葬者がいたのかもしれません。
逆に埋葬施設をもたない古墳も、巨大前方後円墳の陪塚[ばいちょう]などには多いです。百舌鳥古墳群のカトンボ山古墳、古市古墳群の西墓山古墳などです。陪塚の周濠が、水田に水を供給するための中継的な溜池だったからだと説明できそうです。
墳丘が葺石で覆われるのは、古墳の外観というよりも、周濠(溜池)が埋まってしまわないようにすることが、もともとの目的かもしれません。
溜池説は証明可能か
古墳の周濠=溜池説は成り立つでしょうか? 僕はまず2つの検証が必要だと思います。
立地 水田に給水できる位置に立地しているか
発掘 溜池の痕跡はあるか
前方後円墳は傾斜変換線に立地
古墳の周濠が溜池だったならば、古墳は水田の近く、給水できる位置になければなりません。
前方後円墳の立地については、考古学者である末永雅雄さんと土木技術者である田久保晃さんの研究があります。この記事は特に田久保さんの著書を参考にしています。
末永雅雄「近畿地方の古墳立地」(考古学雑誌、1951年)
(『古墳の外形・内部構造・副葬品』(雄山閣出版、1990年)所収)
田久保晃『水田と前方後円墳』(農文協プロダクション、2018年)
まず、末永雅雄さんは考古学者として、発掘の経験はもちろん、飛行機で上空から古墳群の立地を確認し、以下のように述べています。
末永さんのいう傾斜変換線とは、ここでは急な傾斜が緩やかになる(傾斜が変わる)ラインを指します。山と平地、丘と平地の境目のことです。
傾斜変換線を確かめるには、国土地理院の傾斜量図が便利です(リンク先は奈良県大和・柳本古墳群の傾斜量図)。傾斜量図で、黒からグレー、グレーから白に変わるところが傾斜変換線です。
図表3は奈良と大阪の傾斜量図に標準地図を重ね合わせ、巨大前方後円墳の位置を示したものです。まずは奈良盆地に注目してください。
奈良盆地の巨大前方後円墳を見ると、みごとに、ほとんどが傾斜変換線付近に位置していることがわかります。
図表3
末永さんの指摘を受け、田久保晃さんは土木技術者の立場から、以下のように述べます。
田久保さんは、奈良盆地の幹線的な用水路として、吉野川分水を紹介しています。図表4は吉野川分水がどこを通っているか示したものになります。
図表4
吉野川分水は巨大前方後円墳と同じライン、つまり傾斜変換線を通っていることがわかります。古代人もどこに溜池をつくれば、平野の水田に水が供給できるのか、知見があったということです。
実際に奈良盆地東南部の山の辺の道を歩いた人は、渋谷向山古墳や行燈山古墳が傾斜変換線に位置していることが、実感できるのではないでしょうか。
なお、纏向遺跡では水田跡がないとされていますが、古墳時代になって三輪山西麓の傾斜地(三輪遺跡)に水田跡が見つかっています(桜井市教育委員会「史跡纒向遺跡・史跡纒向古墳群 保存活用計画書」(2016年))。渋谷向山古墳や行燈山古墳から続く平地にも、水田が営まれた可能性はあると思います。
百舌鳥・古市古墳群は台地の端
これに対して、反論もあると思います。
奈良盆地の古墳は傾斜変換線につくられたとして、大阪の古市古墳群や百舌鳥古墳群はどうでしょうか。
末永さんは以下のように述べています。
古市古墳群や百舌鳥古墳は平地に立地しているように見えますが、図表5の国土地理院の陰影起伏図を見ると、確かに台地の端で周囲よりも高い場所に位置していることがわかります。残念ながら、古市古墳群や百舌鳥古墳群を歩いても、周囲より高いということまでは実感できませんが。
図表5
赤色立体地図だと百舌鳥古墳群も高い位置にあることが、よりわかりやすいです(赤色立体地図はアジア航測の特許を使って作成されていますので、リンクのみ貼ります)。
巨大前方後円墳の立地についてまとめます。
前方後円墳は主に傾斜変換線に立地している
平地であっても台地の末端に立地するなど、周囲より標高が高い
下に続く平地には水田が広がっていることが多い
前方後円墳の立地は、古墳の周濠が溜池だったことの最低限の条件(必要条件)は満たすようです。
考古学的に否定:築造時の周濠は狭くて浅い
冒頭述べたように、古墳の周濠=溜池説は、考古学調査によって既に否定されています。
1969~70年に奈良国立文化財研究所が奈良県ウワナベ古墳の周濠の調査を行いました。ウワナベ古墳は現在は奈良盆地最大の周濠を誇ります。
調査の結果、古墳築造時の外堤は現在よりも3m以上低く、貯水量は少なく、溜池を意識したとは考えられないとされたのです。さらに、溜池としての利用は平安時代になることも示されました(「平城宮発掘調査報告Ⅵ」(奈良国立文化財研究所、1974年)p109~113)。
外堤は築造後の盛り土によって、堤のかさ上げがされ、4層になっていました。
第1層 現在の外堤 海抜78m、濠から4.5m
第2層 海抜76.5m
第3層 海抜75.5m
第4層 古墳築造時の外堤 海抜74.7m
奈良県広陵町[こうりょうちょう]教育委員会による2004年の奈良県巣山古墳の調査でも、築造時の周濠は浅く、溜池としての利用は平安時代からとされました。
2022/11/25のnote記事で紹介したとおり、福辻敦さん(纏向学研究センター)は、古墳築造時の周濠は狭かったという調査結果を報告しています。
現在、近畿の前方後円墳には水をなみなみと湛える周濠が多いです。どうして現在は水が豊かなのかというと、幕末(文久=ぶんきゅう)と明治の修陵[しゅうりょう]で大規模な浚渫が行われたからです。
本来の周濠について整理すると、以下のようになります。
築造時の周濠は狭い
築造時の外堤は低く周濠は浅い
溜池としての利用は平安時代から
それが事実であれば、古墳の周濠は貯水量が少なく、日照りの時に水田給水機能を担うことができません。
築造時の外堤が低いとされたことについて、田久保さんは以下のように反論しています。
新説「温水溜池」説の提示
僕は、築造時の周濠が狭くて浅かったとしても、それが溜池としての利用を否定することにはならないと思います。
なぜなら、貯水量が少なければ、溜池の温水効果が期待できるからです。
古墳時代は寒冷期
古墳時代は、中部日本の樹木年輪の酸素同位体比や群馬県尾瀬ヶ原の泥炭層に積もったハイマツ花粉の分析によって、寒冷湿潤な気候だったとされています。
図表6
図表7
貯水量が少なければ水が温まりやすい
稲の生育に適した水温は16~25℃です(JAグループ「稲を育てるための水をいろいろ変えてみよう」)。寒冷期の川や地下水はそれ以下であることが多く、稲がよく育ちません。
溜池の貯水量が少なければ、太陽熱によって水が温まりやすいです。温まった水を水田に供給する機能をもった溜池を「温水溜池」と言い、現在も北海道・東北地方・群馬県・長野県に多いです(図表9参照)。
温水溜池は、入り口では水が勢いよく流れ込まないように壁をつくり、出口では上の方の温まった水が流れ出るようにします(北海道開発局「どうして水をためておくの?-温水池」)。それによって、元の水温から、3~5℃ぐらい温まった水が水田に供給される仕組みです(秋葉満壽次、他「統計的に見た温水溜池に関する考察」(農業土木研究、1953年))。
福辻さんは「初期の周濠は…幅の狭いものである必要があったと思われる」と問題提起していますが、幅を狭くした理由は溜池の温水効果に期待したのではないでしょうか。
田久保さんも小型の前方後円墳について、以下のように述べています。小型だけでなく、巨大前方後円墳でも同じことが言えると思います。
【コラム】榛名山麓のミニ水田
群馬県榛名[はるな]山麓の水田遺跡を調べると、1つの区画が畳2畳ほどのミニ水田が広がった時期があります。やはり古墳時代が寒冷期で、水が温まりやすいように工夫したと考えられます。
図表8
ただ、区画を小さくしてしまうと畔[あぜ]が多くなり、それだけ水田面積が小さくなってしまいます。温水溜池から水を引いたほうが効率的です。
周濠からの水の供給量
問題は、狭くて浅い溜池で、どのぐらいの面積の水田に給水できたのかということです。僕が試算したところ、仮定に仮定を重ねることになりますが、ウワナベ古墳の周濠の水だけで米を栽培する場合、約6.5ha(650m×100m)の水田の水の必要量をまかなえるという結果になりました(現在のウワナベ古墳の周濠面積で、水深が0.5mだった場合)。
ウワナベ古墳周濠面積(1997年):5万2700m2
水深0.5mの場合の周濠の水体積:2万6000m3(100の位以下切り捨て)
水田1反(10a=0.1ha)当たりの水の必要量:400t(m3)
2万6000/400=65反=6.5ha(650m×100m)
(参考)大和国の水田面積(平安時代):1万7905ha(町歩)
(参考)奈良県の水田面積(2021年):1万4000ha
(出典)
ウワナベ古墳周濠面積:髙橋誠一「大和の前方後円墳に関する計数的分析」(関西大学ジオグラフィカセンリガオカ、1997年)
水田1反当たりの水の必要量:農水省消費者の部屋
大和国の水田面積:和名抄(面積には畑も含む可能性がある)
奈良県の水田面積:令和4年度奈良県水田収益力強化ビジョン
実際には周濠の水だけということはなかったと思いますが、ウワナベ古墳の周濠は現在よりも狭かったでしょうし、水深はもっと浅かったかもしれません。
ウワナベ古墳の計算結果(650m×100m)は意外と広いという印象もあります。古墳時代にどのような水田がどのぐらい開かれていたのか、今となっては確かめようがありませんが、計算上は、大和国全体の水田の水の必要量は、巨大前方後円墳が20基あっても、とてもまかなえません。
温水溜池こそヤマト王権の武器
僕はそれでもいいと思います。
2023/3/8のnote記事に書いたとおり、一面に青い稲穂がたなびく水田風景にとらわれる必要はありません。古代の水田は雑草も多く、稲穂の長さもまちまちで、栽培している作物も多様性があったと思います。
その中で、古墳の周濠(温水溜池)から水を引いた水田では、冷害でもりっぱに米が育っていたら、古墳時代の人々にとっては驚きだったのではないでしょうか。田久保さんも以下のように述べます。
※田久保さんは日照り対策にもなったとしているのですが、僕は周濠の規模からも、古墳時代の気候からも、その可能性は小さいと思います。
噂を聞きつけて、ヤマトには近畿各地、全国各地の豪族が視察に人を寄越したでしょう。
纏向遺跡は外来系土器、特に東海系(49%)、山陰・北陸系(17%)の比率が高いです。関東系(5%)もあります(関川尚功「纏向遺跡の外来系土器」(『大和・纏向遺跡』(学生社、2005年)所収))。九州系はほとんどありません。
纏向遺跡は特に東海系との関係が強く、その東海からは例えば上毛野[かみつけの](群馬県)に集団移住があったとされています。上毛野では畿内の布留式土器も多数出土しています(若狭徹「東国における 古墳時代地域経営の諸段階」(歴博研究報告、2018年))。
古墳時代は寒冷期でしたから、特に東国は冷害が深刻だったと思います。若狭さんも、上毛野では先進的な用水管理が行われたとしていますが、別所茶臼山古墳などは温水溜池だった可能性があるのではないでしょうか。
僕がカウントしたところ、現在、温水溜池は全国に108個あります。北海道(33個)・東北地方(38個)・群馬県(4個)・長野県(10個)が多く、九州(3個)は少ないです。
図表9
テレビでもおなじみの松木武彦さん(岡山大学)は、古墳造営の目的について、以下のように述べます。
前方後円墳をつくる目的には(経済的な)利益があったという指摘に僕も賛成です。松木さんはその1つを鉄の獲得としているのですが、僕は温水溜池であり、米の収穫だと思います。
ヤマト王権は各地の豪族に温水溜池のノウハウ(立地選定や土木技術など)を教える代わりに、王権への参画を求めたのだと思います。具体的には、土木事業や軍事行動の人員提供、交通・交易路の確保、特産品の提供、祭祀の統合などです。
温水溜池のノウハウは、ヤマトの中で王の地位を争うだけではなく、ヤマト王権の全国拡大の有力な武器の1つだった可能性があります。
温暖化とともに前方後円墳は衰退
7世紀になると、近畿では前方後円墳はつくられなくなっていきます。奈良県市庭古墳のように壊されてしまう古墳もあります。
古墳の周濠が温水溜池だったならば、理由が説明できます。寒冷期が和らぎ、気候が温暖に向かったからだと思います。樹木年輪の酸素同位体比でもハイマツ花粉でも、700年頃から気候が温暖に向かった傾向が見てとれます(図表6・7)。
7世紀からは普通の溜池がつくられはじめました。狭くて浅い周濠(温水溜池)の必要性は薄れたのでしょう。
最古の溜池とされる大阪府狭山池は7世紀前半につくられたとされています。奈文研の年輪幅年輪年代法によって「616 年に伐採されたコウヤマキを用いて樋管[ひかん]※をつくって埋設し、堤を築いたことが判明」しています(大阪狭山市「史跡狭山池の本質的価値」、光谷拓実「年輪年代学(13)」(奈文研、1996年))。
※樋管:溜池の水を水田などに引くための導管
前方後円墳は王の墓でありながら、誰の墓なのか伝えられている古墳が1つもないのは驚くべきことです。強いて言えば、箸墓古墳が日本書紀で倭迹迹日百襲姫[やまとととひももそひめ]の墓とされていますが、倭迹迹日百襲姫は実在の人物とは考えられません。
前方後円墳の墓としての価値は、人々の心に残らなかったのではないでしょうか。前方後円墳の価値は温水溜池にあったからだと思います。
まとめ:「温水溜池」説の状況証拠
田久保さんは2020年にNHKテレビ「先人たちの底力」にも出演されたようです。今は観ることができませんが、田久保さんの溜池説にどんな反応があったのか気になります。
ちなみに、田久保さんが著書を紹介している記事もあります。
著書を語る「水田と前方後円墳」(田久保晃、2019年)
※著書やこの記事で、田久保さんは古墳時代に米が物品貨幣として機能していたと書いていますが、米が物品貨幣として機能したのが確かなのは16世紀以降です(浦長瀬隆『中近世日本貨幣流通史』(勁草書房、2001年))。
田久保さんは前方後円墳の築造方法についても、興味深い説を示しています。改めて記事にできたらと思います。
田久保さんには教えていただきたいことがたくさんあるのですが、現段階で、学会や出版社を通しても連絡がつかないのが残念です。
最後に、古墳の周濠が温水溜池だったという状況証拠をまとめます。
多くの前方後円墳は水田に給水できる位置に立地している
周濠は狭く浅かった。貯水量が少ないと水は温まりやすい
古墳時代は寒冷湿潤な気候だった
ヤマトは東国と関係が深い(九州とは薄い)
前方後円墳は7世紀以降、温暖化に伴って衰退する
埋葬施設のない古墳(陪塚)がある
平城京造営時に壊された古墳もある(墓として重視されていない)
誰の墓なのか記憶と記録に残っていない(墓として重視されていない)
古墳というと、墳丘や埋葬施設の発掘が期待されがちですが、周濠の調査・研究がもっと進むといいと思います。墳丘は宮内庁管理で発掘が制限されていても、周濠は自治体または水利組合などが管理している古墳は多いです(御廟山古墳・津堂城山古墳・墓山古墳など)。
周濠が溜池として利用されていたことを直接的に示す遺構・遺物が見つからないでしょうか。
古墳時代にさかのぼる灌漑の痕跡が見つかってほしいです。狭山池のように、古墳時代の築造時の樋管などが発掘されるとベストだと思います。
僕は古墳の温水溜池機能を強調しすぎたかもしれません。もちろん、あれだけの石室と副葬品がありますから、古墳は墓として重要だったのでしょう。
ただ、墓とか祭祀の面ばかりが注目される現在の古墳研究は、古代のイメージをミスリードしている気がします。古墳が温水溜池だったとしたら、この記事で書いたとおり、古代のイメージはがらっと変わるのではないでしょうか。
(最終更新2024/9/15)
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