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古墳の周濠=溜池説は成り立つか?


前方後円墳の特徴

古墳は、古代の王など身分の高い人のお墓です。埋葬施設がありますから、墓であることは間違いありません。

墳長が200mを超える巨大前方後円墳は41基あります。うち37基が近畿です。巨大前方後円墳は、出土した円筒埴輪の様式によって、図表1のような順番でつくられたと考えられています(古墳前期の実年代は僕の説によります)。

 図表1

前方後円墳は、その形でヤマト王権との同盟関係を、その規模や副葬品で身分を表していると考えられています。

考古学の重鎮である白石太一郎さんと広瀬和雄さん(ともに歴博)は以下のように述べています。

○新しいヤマト政権では、首長連合の拡大に対応して、連合の政治秩序の整備が進められ、その一環として連合に加わった首長たちの古墳造営の秩序が定められたのであろう
古墳は、各地の首長たちがこの政治連合における同盟関係を確認し強化するとともに、その連合の中での身分的な位置を表現するために造営されたものでもある

白石太一郎『古墳とヤマト政権』(文春新書、1999年)

<共通性>と<階層性>を見せるのが前方後円墳である
○水運や陸運など、不特定多数の人びとに見せるのが第一義的な墳墓、それが前方後円墳である。墳丘や埋葬施設や副葬品などの諸要素にいろいろな変化をみせながらも、この属性は維持されつづける。それが前方後円墳の本質なのである
○人びとの眼にふれにくい深山幽谷や人跡未踏の地にはつくられない。首長層の領域のなかでも丘陵の頂きや大地の縁辺など、見せるために最大の効果が得られる場所が選ばれる

広瀬和雄『前方後円墳とはなにか』(中公叢書、2019年)

古墳をつくるためには大勢の人たちが長い期間にわたって動員されたでしょう。図表1を見てもわかるとおり、特に4世紀後半~5世紀初めには巨大前方後円墳の造営が相次ぎました。

人々はどうやってモチベーションを維持したのでしょうか。リーダーへの敬愛・服従の念だったのでしょうか。祖先崇拝や祭祀がそれだけ重視されていたのでしょうか。

図表2

実は、古墳は墓だという事実に加え、古墳の周濠[しゅうごう=墳丘の周りのお堀]は溜池[ためいけ]としても機能していたのではないかという説があります。主に農業土木の研究者から提唱されています。

歴史家の小名木善行[おなぎ・ぜんこう]さんも同じ説を唱えています(YouTube「古墳時代という嘘 〜実は墓ではなかった!?〜」(目からウロコの日本の歴史2-3、2015年)、約15分))。

実際、奈良県行燈山[あんどんやま]古墳の周濠(崇神天皇陵1号堀・2号堀)、ウワナベ古墳の周濠(上鍋池)をはじめ、現在、溜池として利用されている周濠は少なくありません。

一方、後述するとおり、考古学的には、築造時の古墳の周濠が溜池だったという説は否定されています。小名木さんも溜池説の根拠を示していないように見受けられ、疑問がふくらみます。古墳の周濠=溜池説は成り立つのか、検証したいと思います。

溜池によって米の収穫増大

人々のモチベーションに

溜池には主に2つの機能があります。

  • 水田給水機能

  • 洪水調節機能

水田給水機能は、日照りが続いて雨が降らない時でも、溜池の水を水田に供給することによって、稲の成長を助け、収穫を維持する機能です。湿地以外の乾いた平地で水田を開発する時にも、溜池をつくれば、溜池の水を使うことができます。

洪水調節機能は、大雨で洪水が発生した時に、一時的に水を溜めて、洪水被害を緩和する機能です。

どちらも米の収穫、ひいては人々の生活、豊かさに役立ちます。人々が古墳づくりに協力したのも納得できます。

「政治的実力」で王の地位を競う

古墳の周濠が溜池だったならば、「古墳の数=王の数」ではなくなります。1人の王が複数の溜池をつくることは当然あったでしょうから。図表1のように、4世紀の奈良盆地に15基前後もの巨大前方後円墳がつくられたのも納得できます。すべての巨大前方後円墳が王の墓ということはないと思います。

一方、古墳前期・中期には、奈良盆地にも複数の王権が併存していたという説があります。

例えば、奈良盆地東南部では、箸墓古墳・西殿塚古墳・行燈山古墳・渋谷向山[しぶたにむかいやま]古墳が王墓とされていますが、さらに南に桜井茶臼山・メスリ山古墳という巨大前方後円墳があります。

奈良盆地の北部には佐紀古墳群、西部には馬見[うまみ]古墳群があります。さすがに、1つの王権の力で、奈良盆地東南部の古墳群と併行して、南にも、北部にも西部にも巨大前方後円墳を立て続けにつくるのは難しかったのではないでしょうか。

4世紀後半から古墳が大型化していくことについて、坂靖さん(橿原考古学研究所)は以下のように述べています。

○王家の血族間の争いのみならず、地域や生産基盤を異にした諸集団が、権力抗争を繰り広げていたという点に目をむけるべきであろう
○同時代に大型前方後円墳が近畿地方のみならず、それ以外の地域に何基も存在しているという事実にもっと目をむける必要があるだろう。すなわち、同時期に支配者(=王)が併存していたのである
○政治体制の確立と前方後円墳の大型化が関連しているわけではなく、権力者相互の覇権争いが、前方後円墳の大型化の背景にあると考えられる
○あくまで、前方後円墳の大型化には、古墳の規模や墳形に一定の価値をもとめた権力者相互の競争原理がそこにはたらいているとみるべきである

坂靖『倭国の古代学』(新泉社、2021年)

 義江明子さん(帝京大学)も以下のように述べています。

○史実としては、五世紀の倭王は豪族連合の盟主であって血縁による世襲ではなく、政治的実力のあるものが王に「立」てられたとみるべきだろう
○「王」は古くからいたが、それは社会的存在としての「王族」がいたことを意味しない
〇婚姻と血統でつながる王族は、世襲王権の形成とともに、六~七世紀に形づくられていく

義江明子『女帝の古代王権史』(ちくま新書、2021年)

僕も2023/7/5のnote記事のコラムで書いたとおり、男系継承は欽明天皇の皇子世代(6世紀)からであり、5世紀まで倭王は世襲ではなく、倭王を出す複数の王統があり、その中から政治的実力のある者が倭王に選出されたという説に賛成です。

その場合の「政治的実力」とは何でしょうか。

水田開発、米の収穫量こそが「政治的実力」だった可能性があります。米の収穫量が人々の豊かさの指標であり、米の収穫増大を実現したリーダーが、話し合いによって王に共立されたのではないでしょうか。

墓としての古墳は、王の生前につくられたことになります。寿陵[じゅりょう]です。

溜池ならば説明できる謎

そこで、古墳の周濠が溜池だった可能性が出てきます。古墳の周濠が溜池だったのであれば、様々な疑問も説明できます。

佐紀古墳群の市庭古墳は平城京の造営時に早くも破壊されています。古墳破壊は古代からあったのです。墓として重視されていなかったことを表すと思います。平城京造営の頃には溜池としての役割も終えていた可能性があります。

埋葬施設が複数ある古墳があります。王が死んだ時に、溜池の盛り土にたまたま既に埋葬者がいたのかもしれません。

逆に埋葬施設をもたない古墳も、巨大前方後円墳の陪塚[ばいちょう]などには多いです。百舌鳥古墳群のカトンボ山古墳、古市古墳群の西墓山古墳などです。陪塚の周濠が、水田に水を供給するための中継的な溜池だったからだと説明できそうです。

墳丘が葺石で覆われるのは、古墳の外観というよりも、周濠(溜池)が埋まってしまわないようにすることが、もともとの目的かもしれません。

溜池説は証明可能か

古墳の周濠=溜池説は成り立つでしょうか? 僕はまず2つの検証が必要だと思います。

  • 立地 水田に給水できる位置に立地しているか

  • 発掘 溜池の痕跡はあるか

前方後円墳は傾斜変換線に立地

古墳の周濠が溜池だったならば、古墳は水田の近く、給水できる位置になければなりません。

前方後円墳の立地については、考古学者である末永雅雄さんと土木技術者である田久保晃さんの研究があります。この記事は特に田久保さんの著書を参考にしています。

末永雅雄「近畿地方の古墳立地」(考古学雑誌、1951年)
『古墳の外形・内部構造・副葬品』(雄山閣出版、1990年)所収)

田久保晃『水田と前方後円墳』(農文協プロダクション、2018年)

まず、末永雅雄さんは考古学者として、発掘の経験はもちろん、飛行機で上空から古墳群の立地を確認し、以下のように述べています。

大和の古墳は、平野の周辺いわゆる青垣山を成す丘陵と、その傾斜変換線に多く築かれ…る
○桜井市まで約六里(二三キロメートル余)にわたる間には丘陵から平野への傾斜変換線上に塁々たる壮観を示し…ている
○前方後円墳の数でこれにつづくのは大和平野西方の馬見丘陵を主とする南北葛城郡である
○これら前方後円墳はおのおの丘陵の傾斜変換線に直角をなして平野に前方部を向けるか、その基軸線を変換線に沿って築かれたものが多く、後円部を平野に向けたものは非常に少ない
○大和南部山間地帯にもなおかなりの数の古墳が、それぞれ小平野と接した丘陵に立地している。いかなる小古墳といえどもその存在するところには必ず水田耕作に可能な平野が伴っている
○以上のごとく大和における古墳の立地は、一部平野の中にある洪積地の台地を利用した以外の大部分は、丘陵の傾斜変換線をその立地の重要な拠点とし、及び丘陵に拠[よ]れることが古墳立地の一般環境をなしている

末永雅雄「近畿地方の古墳立地」(考古学雑誌、1951年)
(『古墳の外形・内部構造・副葬品』(雄山閣出版、1990年)所収)

末永さんのいう傾斜変換線とは、ここでは急な傾斜が緩やかになる(傾斜が変わる)ラインを指します。山と平地、丘と平地の境目のことです。

傾斜変換線を確かめるには、国土地理院の傾斜量図が便利です(リンク先は奈良県大和・柳本古墳群の傾斜量図)。傾斜量図で、黒からグレー、グレーから白に変わるところが傾斜変換線です。

図表3は奈良と大阪の傾斜量図に標準地図を重ね合わせ、巨大前方後円墳の位置を示したものです。まずは奈良盆地に注目してください。

奈良盆地の巨大前方後円墳を見ると、みごとに、ほとんどが傾斜変換線付近に位置していることがわかります。

図表3

末永さんの指摘を受け、田久保晃さんは土木技術者の立場から、以下のように述べます。

○なぜ、多くの前方後円墳が「傾斜変換線」あたりに築かれたのであろうか。その理由として、権力者・支配者としての権威を示すために墓所を見上げるような高い場所に築造、自然地形を生かしての築造、農地とりわけ水田としての適地をはずしての築造など、さまざまな説がある
○私は、それらの説とはまったく違う考えをもつようになっていた。「ほとんどの前方後円墳は、その周濠が下方の水田地帯を灌漑する溜池として活用できるような位置に築かれた」というものである。その考えが、末永博士の意見でさらに確信がもてるようになった
○私は、全国各地の前方後円墳を訪れて、末永博士が指摘した「多くの前方後円墳は傾斜変換線あたりに築かれた」、「前方後円墳が築かれた傾斜変換線あたりから下に水田地帯が広がる」ということを確かめた。その結果、私が見た大多数の前方後円墳は、指摘どおり傾斜変換線あたりに立地し、下方には水田地帯あるいは水田地帯であったと思われる土地が広がっていた
○水は高いところから低い所に向かって流れる。一般に、幹線的な用水路の路線は、平坦な土地から急な傾斜の丘陵・台地などに移るあたり、つまり…「傾斜変換線」あたりを通るように選定される
○そうしないと、標高差の関係で幹線から枝分かれした水が、届かない農地ができてしまうからである

田久保晃『水田と前方後円墳』(農文協プロダクション、2018年)

田久保さんは、奈良盆地の幹線的な用水路として、吉野川分水を紹介しています。図表4は吉野川分水がどこを通っているか示したものになります。

図表4

「吉野川分水 大和平野土地改良区」HP

吉野川分水は巨大前方後円墳と同じライン、つまり傾斜変換線を通っていることがわかります。古代人もどこに溜池をつくれば、平野の水田に水が供給できるのか、知見があったということです。

実際に奈良盆地東南部の山の辺の道を歩いた人は、渋谷向山古墳や行燈山古墳が傾斜変換線に位置していることが、実感できるのではないでしょうか。

なお、纏向遺跡では水田跡がないとされていますが、古墳時代になって三輪山西麓の傾斜地(三輪遺跡)に水田跡が見つかっています(桜井市教育委員会「史跡纒向遺跡・史跡纒向古墳群 保存活用計画書」(2016年))。渋谷向山古墳や行燈山古墳から続く平地にも、水田が営まれた可能性はあると思います。

百舌鳥・古市古墳群は台地の端

これに対して、反論もあると思います。

奈良盆地の古墳は傾斜変換線につくられたとして、大阪の古市古墳群や百舌鳥古墳群はどうでしょうか。

末永さんは以下のように述べています。

○一見して原野に、構築せられたようにみられる場合もあるが…古市古墳群、…百舌鳥古墳群のごときは、有数な洪積台地端に構築した例である
○(古市古墳群は)応神陵(誉田御廟山[こんだごびょうやま]古墳)付近に石川大和川流域の灌漑田がつづき、西北大阪平野に連なるために、一見古墳群は平野に立地をしたようにも見られるが、標高五〇~六〇メートル等高線上にある羽曳野丘陵の北端に立地せるものである
○和泉南部の淡輪[たんのわ]、多奈川、久米田付近の古墳はすべて傾斜変換線から平野に接して立地しているが…この洪積台地の末端が百舌鳥古墳群となり、さらに北に進んで大阪の上町台地を形成する

末永雅雄「近畿地方の古墳立地」(考古学雑誌、1951年)
(『古墳の外形・内部構造・副葬品』(雄山閣出版、1990年)所収)

古市古墳群や百舌鳥古墳は平地に立地しているように見えますが、図表5の国土地理院の陰影起伏図を見ると、確かに台地の端で周囲よりも高い場所に位置していることがわかります。残念ながら、古市古墳群や百舌鳥古墳群を歩いても、周囲より高いということまでは実感できませんが。

図表5

赤色立体地図だと百舌鳥古墳群も高い位置にあることが、よりわかりやすいです(赤色立体地図はアジア航測の特許を使って作成されていますので、リンクのみ貼ります)。

巨大前方後円墳の立地についてまとめます。

  • 前方後円墳は主に傾斜変換線に立地している

  • 平地であっても台地の末端に立地するなど、周囲より標高が高い

  • 下に続く平地には水田が広がっていることが多い

前方後円墳の立地は、古墳の周濠が溜池だったことの最低限の条件(必要条件)は満たすようです。

考古学的に否定:築造時の周濠は狭くて浅い

冒頭述べたように、古墳の周濠=溜池説は、考古学調査によって既に否定されています。

1969~70年に奈良国立文化財研究所が奈良県ウワナベ古墳の周濠の調査を行いました。ウワナベ古墳は現在は奈良盆地最大の周濠を誇ります。

ウワナベ古墳(写真AC)

調査の結果、古墳築造時の外堤は現在よりも3m以上低く、貯水量は少なく、溜池を意識したとは考えられないとされたのです。さらに、溜池としての利用は平安時代になることも示されました(「平城宮発掘調査報告Ⅵ」(奈良国立文化財研究所、1974年)p109~113)。

外堤は築造後の盛り土によって、堤のかさ上げがされ、4層になっていました。

  • 第1層 現在の外堤 海抜78m、濠から4.5m

  • 第2層 海抜76.5m

  • 第3層 海抜75.5m

  • 第4層 古墳築造時の外堤 海抜74.7m

○第2層築堤以後、外堤内斜面は著しく浸蝕を受け、ヘドロが厚く堆積していることから、定期的な推移の増減、つまり溜池としての利用がかんがえられる
○第2層築堤に属する堆積土中に平安時代の土器が混入する。これは溜池利用の開始が平城京廃絶後にあり、古墳築成時にまで遡らないことを物語る

「平城宮発掘調査報告Ⅵ」(奈良国立文化財研究所、1974年)

奈良県広陵町[こうりょうちょう]教育委員会による2004年の奈良県巣山古墳の調査でも、築造時の周濠は浅く、溜池としての利用は平安時代からとされました。 

○周濠は…丘陵の地下水が西側外堤裾から多量に湧き出す。しかしながら、周濠の最も低い地点にある出島状遺構の州浜部分や北側裾部分で樹木の根や根による撹乱跡が認められることから、築造当初から周濠に満々と水が溜まる現在の景観は想定できない
○出島状遺構の南西突出部は、周濠底から50cm程の高さで、ここに水鳥形埴輪を置いたと考えられる。このことから、築造当初の周濠の水位は極めて低く、出島状遺構の州浜を洗う程度と考えられ…る
○腐植土の堆積が進み、周濠水位が上昇する奈良時代末~平安時代初頭には、この水を利用して、墳丘、外堤裾に小区画水田を営むようになる

井上義光「巣山古墳の調査成果」(日本考古学、2004年)

2022/11/25のnote記事で紹介したとおり、福辻敦さん(纏向学研究センター)は、古墳築造時の周濠は狭かったという調査結果を報告しています。

〇今回検討の対象とした古墳・墳墓の後円部径(後方部幅)に対する後円部側の周濠状遺構の幅の比率…は、後円部径が150m前後となる大王墓級の前方後円墳ではその比率は0.1以下とな…る(便宜的に古墳の墳丘裾から周濠外肩までを「幅」と見なす)
(例)箸墓古墳 後円部径160m、周濠幅10m(0.63)
○出現期の周濠を考える上で、特に重要な意味を持つと思われる特徴は、大規模な墳丘には似つかわしくない「幅の狭さ」である。おそらく初期の周濠は…幅の狭いものである必要があったと思われる
○その理由を明らかにすることは難しいが、水を湛える機能をそなえている点を周濠の要件とすれば、湛水[たいすい]を意図したことがその理由の一つとして考えられる。幅が狭く、かつ渡土堤[わたりどて]を設けることで周濠の水位調整を容易にし、水を湛えることを意図したのではないかと思われる

福辻敦「周濠の出現」
『纏向学の最前線』(纏向学研究センター、2022年)分割版1 p175-184

現在、近畿の前方後円墳には水をなみなみと湛える周濠が多いです。どうして現在は水が豊かなのかというと、幕末(文久=ぶんきゅう)と明治の修陵[しゅうりょう]で大規模な浚渫が行われたからです。

 本来の周濠について整理すると、以下のようになります。

  • 築造時の周濠は狭い

  • 築造時の外堤は低く周濠は浅い

  • 溜池としての利用は平安時代から

それが事実であれば、古墳の周濠は貯水量が少なく、日照りの時に水田給水機能を担うことができません。

築造時の外堤が低いとされたことについて、田久保さんは以下のように反論しています。

○かさ上げ工事を行うさい、盛土の安定を考え、古い堤体部分の多くを削り取るのが普通。…調査で確認したとされるウワナベ古墳周濠の「築堤時外堤の高さ」は削られた高さであって築堤当初のものではなかった可能性が高い
○周濠の堤が後世にかさ上げ改修されたという事実こそ、以前からその周濠が溜池として利用されていた有力な証拠の1つ

田久保晃『水田と前方後円墳』(農文協プロダクション、2018年)

新説「温水溜池」説の提示

僕は、築造時の周濠が狭くて浅かったとしても、それが溜池としての利用を否定することにはならないと思います。

なぜなら、貯水量が少なければ、溜池の温水効果が期待できるからです。

古墳時代は寒冷期

古墳時代は、中部日本の樹木年輪の酸素同位体比や群馬県尾瀬ヶ原の泥炭層に積もったハイマツ花粉の分析によって、寒冷湿潤な気候だったとされています。

図表6

図表7

貯水量が少なければ水が温まりやすい

稲の生育に適した水温は16~25℃です(JAグループ「稲を育てるための水をいろいろ変えてみよう」)。寒冷期の川や地下水はそれ以下であることが多く、稲がよく育ちません。

溜池の貯水量が少なければ、太陽熱によって水が温まりやすいです。温まった水を水田に供給する機能をもった溜池を「温水溜池」と言い、現在も北海道・東北地方・群馬県・長野県に多いです(図表9参照)。

温水溜池は、入り口では水が勢いよく流れ込まないように壁をつくり、出口では上の方の温まった水が流れ出るようにします(北海道開発局「どうして水をためておくの?-温水池」)。それによって、元の水温から、3~5℃ぐらい温まった水が水田に供給される仕組みです(秋葉満壽次、他「統計的に見た温水溜池に関する考察」(農業土木研究、1953年))。

福辻さんは「初期の周濠は…幅の狭いものである必要があったと思われる」と問題提起していますが、幅を狭くした理由は溜池の温水効果に期待したのではないでしょうか。

田久保さんも小型の前方後円墳について、以下のように述べています。小型だけでなく、巨大前方後円墳でも同じことが言えると思います。

○大きな前方後円(方)墳の周濠ほど、多くの水を貯め込むことができたので、人びとは、条件さえ許せば、できるだけ大きな墳丘と濠を造りたかった
○それがかなわなければ、小さな墳丘と濠を数多く造った。小さな前方後円(方)墳の周濠には、あまり水を貯めることはできなかったが、貯めた水の温度はすぐに上昇した。各地に造られた小型の前方後円(方)墳の中には、この昇温機能を目的としたものも多くあったのではなかろうか

田久保晃『水田と前方後円墳』(農文協プロダクション、2018年)

【コラム】榛名山麓のミニ水田

群馬県榛名[はるな]山麓の水田遺跡を調べると、1つの区画が畳2畳ほどのミニ水田が広がった時期があります。やはり古墳時代が寒冷期で、水が温まりやすいように工夫したと考えられます。

図表8

ただ、区画を小さくしてしまうと畔[あぜ]が多くなり、それだけ水田面積が小さくなってしまいます。温水溜池から水を引いたほうが効率的です。

周濠からの水の供給量

問題は、狭くて浅い溜池で、どのぐらいの面積の水田に給水できたのかということです。僕が試算したところ、仮定に仮定を重ねることになりますが、ウワナベ古墳の周濠の水だけで米を栽培する場合、約6.5ha(650m×100m)の水田の水の必要量をまかなえるという結果になりました(現在のウワナベ古墳の周濠面積で、水深が0.5mだった場合)。

  • ウワナベ古墳周濠面積(1997年):5万2700m2

  • 水深0.5mの場合の周濠の水体積:2万6000m3(100の位以下切り捨て)

  • 水田1反(10a=0.1ha)当たりの水の必要量:400t(m3)

  • 2万6000/400=65反=6.5ha(650m×100m)

  • (参考)大和国の水田面積(平安時代):1万7905ha(町歩)

  • (参考)奈良県の水田面積(2021年):1万4000ha

(出典)

実際には周濠の水だけということはなかったと思いますが、ウワナベ古墳の周濠は現在よりも狭かったでしょうし、水深はもっと浅かったかもしれません。

ウワナベ古墳の計算結果(650m×100m)は意外と広いという印象もあります。古墳時代にどのような水田がどのぐらい開かれていたのか、今となっては確かめようがありませんが、計算上は、大和国全体の水田の水の必要量は、巨大前方後円墳が20基あっても、とてもまかなえません。

温水溜池こそヤマト王権の武器

僕はそれでもいいと思います。

2023/3/8のnote記事に書いたとおり、一面に青い稲穂がたなびく水田風景にとらわれる必要はありません。古代の水田は雑草も多く、稲穂の長さもまちまちで、栽培している作物も多様性があったと思います。

その中で、古墳の周濠(温水溜池)から水を引いた水田では、冷害でもりっぱに米が育っていたら、古墳時代の人々にとっては驚きだったのではないでしょうか。田久保さんも以下のように述べます。

○前方後円(方)墳の周濠に貯えられた水は、太陽熱で温められた
○その温められた水を水田に流し込むと、米がたくさんとれるようになった
○ヤマトが勧めた巨大墳墓の濠の水は、まさに神の水だったのである
○ヤマトの教えに従えば、日照りの年でも方策となる。寒いところでも米がとれるようになる

田久保晃『水田と前方後円墳』(農文協プロダクション、2018年)

※田久保さんは日照り対策にもなったとしているのですが、僕は周濠の規模からも、古墳時代の気候からも、その可能性は小さいと思います。

噂を聞きつけて、ヤマトには近畿各地、全国各地の豪族が視察に人を寄越したでしょう。

纏向遺跡は外来系土器、特に東海系(49%)、山陰・北陸系(17%)の比率が高いです。関東系(5%)もあります(関川尚功「纏向遺跡の外来系土器」(『大和・纏向遺跡』(学生社、2005年)所収))。九州系はほとんどありません。

纏向遺跡は特に東海系との関係が強く、その東海からは例えば上毛野[かみつけの](群馬県)に集団移住があったとされています。上毛野では畿内の布留式土器も多数出土しています(若狭徹「東国における 古墳時代地域経営の諸段階」(歴博研究報告、2018年))。

古墳時代は寒冷期でしたから、特に東国は冷害が深刻だったと思います。若狭さんも、上毛野では先進的な用水管理が行われたとしていますが、別所茶臼山古墳などは温水溜池だった可能性があるのではないでしょうか。

僕がカウントしたところ、現在、温水溜池は全国に108個あります。北海道(33個)・東北地方(38個)・群馬県(4個)・長野県(10個)が多く、九州(3個)は少ないです。

図表9

テレビでもおなじみの松木武彦さん(岡山大学)は、古墳造営の目的について、以下のように述べます。

○ヒトの行動を本源で支えるのは利の希求である
○前方後円墳にもっとも大規模かつ典型的に表現された古墳のカルトは…畿内を本源として各地に伝わっている
○同じ利を願う各地の人びとがそれに同調したところに、古墳を大きく入念に営む慣わしがきわめて短期間のうちに広がったと考えられる
○初期の古墳は…鉄の素材や加工技術の獲得に遅れをとり、その供給がふんだんでなかった瀬戸内や畿内に顕著にあらわれた。このことは、古墳のカルトが当初に目的とした利の主たる中身の一つが、生産を支える鉄の獲得にあった可能性をしめしている

松木武彦『古墳とはなにか』(角川選書、2011年)

前方後円墳をつくる目的には(経済的な)利益があったという指摘に僕も賛成です。松木さんはその1つを鉄の獲得としているのですが、僕は温水溜池であり、米の収穫だと思います。

ヤマト王権は各地の豪族に温水溜池のノウハウ(立地選定や土木技術など)を教える代わりに、王権への参画を求めたのだと思います。具体的には、土木事業や軍事行動の人員提供、交通・交易路の確保、特産品の提供、祭祀の統合などです。

温水溜池のノウハウは、ヤマトの中で王の地位を争うだけではなく、ヤマト王権の全国拡大の有力な武器の1つだった可能性があります。

温暖化とともに前方後円墳は衰退

7世紀になると、近畿では前方後円墳はつくられなくなっていきます。奈良県市庭古墳のように壊されてしまう古墳もあります。

古墳の周濠が温水溜池だったならば、理由が説明できます。寒冷期が和らぎ、気候が温暖に向かったからだと思います。樹木年輪の酸素同位体比でもハイマツ花粉でも、700年頃から気候が温暖に向かった傾向が見てとれます(図表6・7)。

7世紀からは普通の溜池がつくられはじめました。狭くて浅い周濠(温水溜池)の必要性は薄れたのでしょう。

最古の溜池とされる大阪府狭山池は7世紀前半につくられたとされています。奈文研の年輪幅年輪年代法によって「616 年に伐採されたコウヤマキを用いて樋管[ひかん]※をつくって埋設し、堤を築いたことが判明」しています(大阪狭山市「史跡狭山池の本質的価値」、光谷拓実「年輪年代学(13)」(奈文研、1996年))。

※樋管:溜池の水を水田などに引くための導管

前方後円墳は王の墓でありながら、誰の墓なのか伝えられている古墳が1つもないのは驚くべきことです。強いて言えば、箸墓古墳が日本書紀で倭迹迹日百襲姫[やまとととひももそひめ]の墓とされていますが、倭迹迹日百襲姫は実在の人物とは考えられません。

前方後円墳の墓としての価値は、人々の心に残らなかったのではないでしょうか。前方後円墳の価値は温水溜池にあったからだと思います。

まとめ:「温水溜池」説の状況証拠

田久保さんは2020年にNHKテレビ「先人たちの底力」にも出演されたようです。今は観ることができませんが、田久保さんの溜池説にどんな反応があったのか気になります。

ちなみに、田久保さんが著書を紹介している記事もあります。

著書を語る「水田と前方後円墳」(田久保晃、2019年)

※著書やこの記事で、田久保さんは古墳時代に米が物品貨幣として機能していたと書いていますが、米が物品貨幣として機能したのが確かなのは16世紀以降です(浦長瀬隆『中近世日本貨幣流通史』(勁草書房、2001年))。

田久保さんは前方後円墳の築造方法についても、興味深い説を示しています。改めて記事にできたらと思います。

○直径六〇~七〇メートル、そして人の身長の三倍以上の高さの円墳を、人力だけで造ろうとすれば、たいてい纏向型前方後円墳に似た形になる
○違いは(周濠の掘った土を墳丘まで運搬し盛り土する)仮設道路の残し方ぐらいで、誰が設計しようが似たような形状となる
○三世紀に、纏向型に似た形状の古墳が全国各地に出現したとしても、まったく不思議ではない

田久保晃『水田と前方後円墳』(農文協プロダクション、2018年)

田久保さんには教えていただきたいことがたくさんあるのですが、現段階で、学会や出版社を通しても連絡がつかないのが残念です。

最後に、古墳の周濠が温水溜池だったという状況証拠をまとめます。

  • 多くの前方後円墳は水田に給水できる位置に立地している

  • 周濠は狭く浅かった。貯水量が少ないと水は温まりやすい

  • 古墳時代は寒冷湿潤な気候だった

  • ヤマトは東国と関係が深い(九州とは薄い)

  • 前方後円墳は7世紀以降、温暖化に伴って衰退する

  • 埋葬施設のない古墳(陪塚)がある

  • 平城京造営時に壊された古墳もある(墓として重視されていない)

  • 誰の墓なのか記憶と記録に残っていない(墓として重視されていない)

古墳というと、墳丘や埋葬施設の発掘が期待されがちですが、周濠の調査・研究がもっと進むといいと思います。墳丘は宮内庁管理で発掘が制限されていても、周濠は自治体または水利組合などが管理している古墳は多いです(御廟山古墳・津堂城山古墳・墓山古墳など)。

周濠が溜池として利用されていたことを直接的に示す遺構・遺物が見つからないでしょうか。

古墳時代にさかのぼる灌漑の痕跡が見つかってほしいです。狭山池のように、古墳時代の築造時の樋管などが発掘されるとベストだと思います。

僕は古墳の温水溜池機能を強調しすぎたかもしれません。もちろん、あれだけの石室と副葬品がありますから、古墳は墓として重要だったのでしょう。

ただ、墓とか祭祀の面ばかりが注目される現在の古墳研究は、古代のイメージをミスリードしている気がします。古墳が温水溜池だったとしたら、この記事で書いたとおり、古代のイメージはがらっと変わるのではないでしょうか。

(最終更新2024/9/15)

#前方後円墳 #古墳 #周濠 #溜池 #温水溜池 #ヤマト王権



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