千葉市土気地区:縄文の落とし穴のメッカ
今回は卑弥呼から離れて、僕が住んでいる千葉市緑区の郷土史がテーマです。
JR外房線の土気[とけ]駅南口には、あすみが丘、あすみが丘東という住宅街が広がり、昭和の森という自然公園と接しています。
これらの整備に先立って、1970年代から地域全体にわたって発掘調査が行われました。遺跡群は「土気南遺跡群」「土気東遺跡群」「昭和の森遺跡群」と分けて呼ばれています。残念ながら、すべての遺構は開発され、保存された遺跡も埋め戻されました(昭和の森「荻生道[おぎゅうみち]遺跡」)。いくつかの遺跡に説明版は立っているものの、面影は残っていません。
僕は古代史とともに、昭和の森での野生動物観察を趣味にしています。昭和の森ではこれまで、イノシシ、野うさぎ、タヌキ、リスといった野生動物と出会うことができました。2023/12/21と2024/2/11にnote記事を書き、YouTubeも開設しています。
土気地区、昭和の森には、どんな古代史が秘められているのでしょうか。調べてみました。
昭和の森は「房総のへそ」
昭和の森には驚くべき地理的な特徴があります。房総半島の3つの水系がY字形に接する中心が、まさに昭和の森なのです。房総半島の水系が大きく3つに分かれることは、open-hinataの「川と流域地図」で見ると明確です。
※open-hinataは、X(旧Twitter)の@kenzkenz氏が作成。無料で再配布・改変可能なオープンソースソフトウェア。国土地理院標準地図をはじめ様々な地図を重ね合わせて表示できる
※「川と流域地図」は@dambiyori氏が国土交通省国土数値情報などにより作成。河川とその流域を表す
※標準地図と「川と流域地図」の重ね合わせはこちら(左上の「背景」をクリックすると、それぞれの透過率が変更可能)
房総半島は「九十九里(太平洋)水系」「東京湾水系」「古鬼怒湾[こきぬわん]水系」という3つの水系に分かれています。それぞれ東部、西部、北部の水系です。古鬼怒湾というのは(リンク先は東京新聞サイト)、縄文時代に現在の利根川、霞ヶ浦、印旛沼一帯が内海だったためで、香取海[かとりのうみ]とも呼ばれます。房総半島は三方を海に囲まれていたわけです。
水系というのは、ある川や湖沼・海に水の流れ込む流域です。降った雨が地下に潜り、川を流れて、九十九里に流れ込む流域が九十九里(太平洋)水系、東京湾に流れ込む流域が東京湾水系、印旛沼や利根川に流れ込む流域が古鬼怒湾水系です。
この3つの水系がY字形に接する中心が昭和の森なのです。僕は、あすみが丘プラザ展示室の展示でそのことを知って感動してしまいました。昭和の森はそんなにすごいところだったのかと。
赤丸の地点は昭和の森のどこなのでしょうか。あすみが丘プラザの展示からはわかりません。こういった特徴のある地点が現在のどこに当たるのかがわかると、僕のような地元の住民は「ああ、あそこがそうなのか」と、わがことになって関心が高まります。
「川と流域地図」と「標準地図」をopen-hinataで重ね合わせて、拡大してみました。
地元の人はわかると思いますが、昭和の森の「市町村の森」の北端、第2駐車場(西側)からの園路と第1駐車場(東側)からの園路が合流するところ、時計塔が立っているあたりがその地点になることがわかりました。
僕が毎日、ウォーキングをしているコースです。
この地点はまさに「房総のへそ」といえます。「房総のへそ」の標識を立てて水系の説明を添え、もっとアピールしてはどうでしょうか。
3つの水系のうち、古鬼怒湾水系はわかりにくいかもしれません。九十九里水系は東側の大網白里市の小中[こなか]池から小中川、東京湾水系は昭和の森の下夕田[しもんた]池から水辺の郷を経て村田川(源流の1つ)が流れていますが、北側に川はありません。※小中池、下夕田池はどちらも人工の溜池です。
実は、昭和の森の北側(太陽の広場など)に降った雨は、地下を潜って、外房線の北側にある土気調整池に集まります。土気調整池から鹿島川(源流の1つ)を流れて、印旛沼へと流れていくのです。一粒の雨が印旛沼に達するまでに、どれだけの日数がかかるのでしょうか。神秘的な感じがします。
下野北総回廊と北総南総回廊の交差点
房総半島が3つの水系に分かれていることが、古代の房総の人びとや動物たちの暮らしにも影響しました。水系の境界には分水嶺が走っています。分水嶺とは、文字どおり水の分かれる嶺で、簡単にいうと尾根や峠になります。土気[とけ]という地名は峠[とうげ]に由来するともいわれます(昭和の森「住吉遺跡」説明板)。
古代に動物や人が住むようになって、分水嶺に自然道=尾根道=古道ができていったと考えられます。分水嶺を通れば、動物も人も、谷に下りることが少なく、最短距離で効率よく移動できるためです。
西野雅人さん(千葉市埋蔵文化財調査センター)は、房総半島の古道を、「①下野[しもつけ]・北総回廊」「②北総・南総回廊」と名づけています。古道でいうと、下野・北総回廊と北総・南総回廊の交差点が昭和の森だったということになります。
昭和の森からの自然道が栃木県まで延びていた可能性があるというのが驚きです(オサムシなど飛べない虫の分布で裏づけられるとおもしろいのですが、そこまではできませんでした)。
明治時代に陸軍がつくった「迅速測図[じんそくそくず]」を見ると、まさに分水嶺に沿って街道が走っていたことがわかります。特に、昭和の森から下野・北総回廊への街道は明確で、谷に下りることが少なく、ずっと台地(オレンジ部分)上を通っていることがわかります。迅速測図では道の両側に点々がついていて、木立ち(街路樹)があったことをうかがわせます。
※標準地図・地形分類図・迅速測図の重ね合わせはこちら(左上の「背景」をクリックすると、それぞれの透過率が変更可能)
昭和の森の第2駐車場を出たところの「長塚遺跡」からは、道路状遺構が出土しました(「千葉市土気東遺跡群調査概報」(千葉市教育振興財団、2009年)、第2章 6長塚遺跡)。この道路状遺構は江戸時代後期のもののようですが、古代にさかのぼる可能性があり、下野・北総回廊の出発点だったと考えられます。
ちなみに、福岡市「比恵那珂遺跡」では、道路状遺構の跡を公園の造作に残しています(リンク先は僕のInstagram)。長塚遺跡の道路状遺構は昭和の森の園内ではなく、残せなかったのが残念です。
ちなみに、下の写真の奥に見えるのは県立土気高校で、土気地区で唯一の前方後円墳である「舟塚古墳」があったところです(校内に石碑が立っています)。プロ野球・高梨裕稔選手の出身校でもあります。僕は中日ドラゴンズファンですが、高梨選手だけは応援しています。
千葉市緑区のおゆみ野地区にあった「人形塚古墳」からは、山武[さんむ]型埴輪と呼ばれる人物埴輪が出土しました。
山武型埴輪は日本人離れしている感じもあって、ユダヤ人埴輪と呼ばれることがあります。千葉市埋文センターで「当時流行した意匠(デザイン)だったのでは」という説明を聞いて、なるほどと思いました。要は、ウルトラマンや仮面ライダーのように、当時流行したキャラクターということだと理解しました(実際にはこういう人たちはいなかった)。僕も賛成です。
一般的には、古墳時代に山武地域(九十九里)の勢力が東京湾地域に進出し(白井久美子『最後の前方後円墳 龍角寺浅間山古墳』(新泉社、2016年))、埴輪も山武地域から東京湾地域に供給されたと考えられているようです。このような遺物によっても、下野・北総回廊、北総・南総回廊を通じて、人びとの行き来があったことを推測させます。
落とし穴が土気地区に集中
昭和の森は下野・北総回廊と北総・南総回廊の交差点であり、周辺は動物と人が頻繁に行き交う場所だったと考えられます。西野さんのコメント、あすみが丘プラザの展示にあるとおり、イノシシやシカなどの「野生動物の宝庫=狩猟好適地」だったことは間違いありません。
それを証明するかのように、土気地区の遺跡からは、縄文時代の落とし穴が多く出土しています。あすみが丘プラザ展示の赤丸は溝型落とし穴の分布です。土気地区と成田地区に集中していることがわかります。どちらも回廊に沿って分布しています。
落とし穴の型式は研究者によっていろいろ分類されていますが、大きく分けると、トップ写真のように、楕円形のものと、幅の狭い溝状のものがあり、後者が溝型落とし穴と呼ばれています。
※トップ写真:「千葉市土気東遺跡群調査概報」より改変
(写真左:文六東第2遺跡第3土坑、右:長塚遺跡第116土坑)
古いデータですが、1998年時点で調査されていた関東7県の溝型落とし穴の分布は以下のようになっています。
関東7県の主要な101遺跡で出土した溝型落とし穴1354基のうち、千葉県が720基(53%)と半数以上を占め、千葉県のうち138基(19%)が土気南遺跡群でした。
2000年代になって土気東遺跡群が発掘され、新しい土坑が4遺跡で336基も見つかっています。1000m2当たりの土坑数も計算してみました。全部が落とし穴だったとすると、31.6m四方に1~4基の割合で落とし穴があったことになります。かなりの密度ではないでしょうか(もちろんそれぞれの時代が異なる可能性はあります)。
ちなみに、貝塚では、全国の約2700の貝塚のうち、千葉県には約770(29%)の貝塚があり、そのうち千葉市には約120(16%)の貝塚が集中しています。千葉市は日本一の貝塚の街です。
土気地区は1969年に千葉市に編入されました。千葉市で一番新しい地区で、現在は千葉市緑区の一部です。千葉市は土気地区を編入したことで、貝塚だけでなく、縄文の落とし穴の数でも関東有数になったのです。
※千葉市は海浜幕張のある美浜区から、土気地区のある緑区まで南北に長く、海浜幕張から土気まで夜間タクシーだと、同じ千葉市内なのに1万円を超えます。運転手さんに「お客さん、成田まで行けるよ」「赤坂まで行けるよ」といわれたことがあります(2000年頃の話です。今はわかりません)。
日本有数とまではいえないかもしれません。例えば、北海道では落とし穴の調査が進んでいて、藤原秀樹さん(北海道教育庁)の集計によると、2018年時点で9849基が出土しています。特に日高・胆振[いぶり]地方が多いです。狩猟の対象となったのはエゾシカです。
ちなみに、「1000m2当たりの落とし穴数」という指標は、藤原さんの論文で使われていたものです(調査面積が広ければ、遺構数も多くなるのは当たり前ですから、いい指標だと思います)。
鳥取県の西坪中中畝[にしつぼなかなかうね]遺跡も、42基の落とし穴が出土していて、1000m2当たりでは6.287基と高い出土数となっています。報告書の「総括」では落とし穴にもフォーカスし、カラーの図表も使われていておもしろいです。
落とし穴は遺物が一緒に出土することがほとんどなく、年代の推定が難しいのですが、西坪中中畝遺跡は落とし穴に積もった土壌の炭化物を試料として、炭素14年代測定が行われ、年代の前後関係(型式や配置の変化)推定の参考資料としています。
【出典】
※北海道:藤原秀樹「北海道のTピットについて(続)」(様似郷土館紀要、2018年)
※鳥取県中畝遺跡:「西坪中中畝遺跡」(鳥取県埋蔵文化財センター、2014年)第5章総括第1節落とし穴について
関東の落とし穴のデータは1998年調査が最新ですが、いつか中村さんの調査の後を継いで、関東の現在出土している落とし穴数を調べてみたいです。千葉市のウェートはどうなっているでしょうか。
縄文のイノシシ猟も冬が中心
今でこそ、落とし穴といっていますが、1970年代前後に発見された当初は、土坑の用途は不明とされていました。落とし穴ではないかという仮説のもとに研究が進み、1990年に東京都多摩ニュータウン遺跡(No 243遺跡)で「底に埋め込まれた杭やカモフラージュ用の樹皮までもが発見され、落とし穴説を決定づけた」のだそうです(「多摩の縄文アらかると 落とし穴編」(たまのよこやまp8、東京都埋蔵文化財センター、2009年))。
型式とともに、穴がどこに配置されているかも参考になります。落とし穴は住居から離れて、尾根沿いや谷沿い、斜面などに並んで設置される傾向があります。イノシシやシカの通り道だったり(千葉市土気地区)、追い込み猟をしやすい場所が選ばれています。
落とし穴のうち、楕円形のものはイノシシ用、溝状のものはシカ用とされています。シカは溝に脚がはまると動けなくなるのだそうです。北海道の落とし穴は溝型が主体です。北海道には(現在は)イノシシはいないので、溝型がシカ用だというのも納得できます。
一方、楕円形がイノシシ用だと考えられている理由はよくわかりません。イノシシは溝型に脚が落ちただけならば、はいあがれるのでしょうか。
落とし穴の底に小さな穴があり、逆茂木[さかもぎ=先のとがった木]を立てていたと推定されるものも多いです。落ちた動物にとどめを刺したり、木に脚が絡まって逃げられなくするためでしょう。生け捕りになったイノシシは危険です。現在でも罠をはずす時の人身被害が絶えません。縄文時代にも同様の被害はあり、縄文人が対策を練ったのだと思います。
穴に落ちた動物はすぐに解体・調理する必要があります。落とし穴は毎日、見回りしていたはずです。
土気南・坂ノ越[さかのこし]遺跡では、落とし穴群と調理用施設の炉穴群がすぐ近くにあったそうです(あすみが丘プラザ展示)。ちなみに、坂ノ越遺跡は現在のあすみが丘プラザ周辺のやせ尾根にありました。古鬼怒湾水系と東京湾水系の境界にあった遺跡です。千葉市で最古の縄文土器が出土したとされています(阿部芳郎「千葉市最古の縄文土器の特徴と意義」(千葉市遺跡発表会、2024年2月))。
展示されていた地図と地形分類図を照らし合わせたところ、おそらく、落とし穴群は現在のあすみが丘プラザとブランニューモール(ショッピングモール)の中間あたり、炉穴群はふれあいの広場公園あたりだったのではないかと思います。
現在、あすみが丘プラザ周辺は尾根ではありません。宅地開発とともに台地ごと削りとられてしまったようです。消滅した遺跡の説明では、そういった情報も添えてあると、地元の住民としては納得しやすいです。
溝型落とし穴が使われた年代は、縄文早期が中心ではないかと考えられますが、中期から後期にも一部で使われています。楕円型の時期的な傾向はわかっていません。可能なのであれば、西坪中中畝遺跡のように、炭素14年代測定も併用して、年代推定できるといいと思います。
東金[とうがね]市・大網白里[おおあみしらさと]市にまたがる養安寺[ようあんじ]遺跡からは大量の獣骨が見つかっています。養安寺遺跡の人びとは貝も食べていたので貝層ができ、カルシウムに囲まれて獣骨が残りやすかったようです。
養安寺遺跡から出土したイノシシの骨からは、おもしろいことがわかっています。イノシシは歯の萌出段階(生え具合)から、年齢(月齢)を推定することができます。養安寺遺跡でのイノシシの下顎骨からは、1歳・2歳・3歳とも冬に死亡した比率が高いことがわかりました。縄文時代の狩猟は冬を中心に通年で行われていたということになります(加曽利貝塚博物館考古学基礎講座「動物の骨が語る世界」(服部智至、2024年3月16日))。
現在、昭和の森にやってくるイノシシも冬に活発化し、掘り返し跡が拡大します。下の写真は、僕が昭和の森のお花見広場で定点観察したものです。現代の狩猟も冬が中心だそうです。現代のイノシシの活発化する時期と縄文時代の狩猟の季節が一致しているのはおもしろいと思いました。
2023年以降、昭和の森では、僕は2023/4/30に2頭を見かけただけで、掘り返し跡や足跡は多いものの、姿は見せなくなりました。寂しいです。
養安寺遺跡で見つかった縄文犬の上顎の骨には、歯槽閉塞が認められるそうです。歯が生えていた穴がなくなってしまっているということです。イヌが猟に出て、イノシシを噛んでいたため、歯が抜けてしまったのではないかと推測されます。
現代の豚骨スープと同じように、古代のイノシシ骨スープもおいしかったと思います。イノシシの骨にイヌが噛んだ跡も残っています。骨をイヌに与えていたのでしょう。
まとめ
最後にこの記事のまとめです。
房総の3大水系の中心が千葉市土気地区であり、昭和の森である。まさに「房総のへそ」といえる
古代には、水系の分水嶺に自然道(下野・北総回廊、北総・南総回廊)ができ、動物や人が活発に行き来したと考えられる
2つの回廊が交わる昭和の森周辺は狩猟の好適地だった
土気地区の遺跡では縄文の落とし穴が集中して出土している
千葉市は日本一の貝塚の街であるとともに、関東有数の縄文の落とし穴の街でもある
土気南・坂ノ越遺跡では落とし穴群と調理炉穴群が出土している
東金・大網白里の養安寺遺跡では獣骨が大量に出土。歯の生え具合から、イノシシの死亡時期は冬が多いことがわかった
現在も昭和の森では、イノシシは冬に活発化しており、縄文の狩猟期と一致する
貝塚などと違って、落とし穴の残念なところは、遺構が残らないことです。何らかの形で、落とし穴が復元できるとベストです。あすみが丘プラザにレプリカでもいいですし、実際に落とし穴のあった昭和の森・住吉遺跡などに復元できるとよりいいと思います。
あすみが丘プラザでは、水系・分水嶺の説明から、「房総のへそ」、落とし穴のことまで、よりわかりやすく展示してほしいです。昭和の森の「房総のへそ」、長塚遺跡の道路状遺構、坂ノ越遺跡の落とし穴・炉穴などは、現地に説明版を立ててはどうでしょうか。
昭和の森は「房総のへそ」であり、千葉市は「関東有数の縄文の落とし穴の街」であることを、土気地区の小中学校でも紹介したら、子どもたちの郷土愛が高まることは間違いないと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?