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Nスペ「ヤマト王権 空白の世紀」を見て

2024/3/24のNスペ「ヤマト王権 空白の世紀」を見ました。特に気になった3点についてコメントします。

トップ写真:奈良県渋谷向山[しぶたにむかいやま]古墳
(2020年10月撮影)


ヤマト王権は統一国家だったのか

番組では、ヤマト王権を初の統一国家としていました。今回は登場しませんでしたが、福永信哉さん(大阪大学)も、3/5の朝日新聞記者サロンで、櫻井茶臼山古墳の銅鏡の集積から、「ヤマト王権は当初から図抜けた存在だったのではないか」と述べています。

しかし、4世紀後半には巨大前方後円墳が、奈良盆地東南部(渋谷向山[しぶたにむかいやま]古墳)、佐紀古墳群、古市古墳群(津堂城山古墳)と相次いで造営されます。これは、卓越した勢力がいなかったことを物語るのではないでしょうか。

5世紀前半には、吉備にも近畿と同じように巨大前方後円墳(造山古墳・作山古墳)が築かれます。少なくともヤマト王権が中央集権的な「統一国家」だったとは考られません。

ヤマト王権がどのような政権だったのか、まだ確定したものはありません。

ヤマト王権が朝鮮半島に遠征したのか

番組では、4世紀末から5世紀にかけて、ヤマト王権(倭の五王)が百済を救済するために、高句麗と朝鮮半島で戦火を交えたとしていました。

しかし、広開土王の年代、倭の五王の年代に、ヤマト王権が国として朝鮮半島に遠征したとは考えられません。坂[ばん]靖さん(橿原考古学研究所)は以下のように述べていて、僕も賛成です。

▶四世紀半ばに…奈良盆地の有力地域集団や日本列島各地の王や新興勢力が、五世紀代を通じて朝鮮半島各地域で積極的な活動をおこなっている。百済王との関係のなかで、その軍事行動に加担した倭人も少なからず存在したと考えられる
▶広開土王碑に刻まれた「倭」「倭寇」「倭賊」は、こうした王や新興勢力を指しているのであって、ヤマト王権のもとに編成された組織的な兵力であったわけではない

『倭国の古代学』(坂靖、新泉社、2021年)

なお、日本書紀の仁徳天皇53年条に、上毛野[かみつけの]氏に関係のある田道[たじ]が騎馬を利用して新羅征伐をしたという記述があります。雄略天皇8年条には、現在の大邱[テグ]付近で、倭国が今度は新羅を助けて高句麗(高麗)をやぶったという記述があります。

番組はこれらを組み合わせて、倭国が(騎馬によって)高句麗に対して一矢を報いたという物語をつくったようです。

ちなみに、僕は継体天皇より前の天皇や神々は、天武・持統朝を正当化するための創作だと考えています(雄略天皇を除く)。

鉄の技術革新はどこで行われたか

番組では、富雄丸山古墳から出土した蛇行剣を根拠に、ヤマト王権の下で鉄の技術革新が行われたとしていました。その1つとして羽口[はぐち]によって炉内を高温にする技術が紹介され、番組内で実験が行われました。

しかし、羽口は朝鮮半島から博多遺跡群に持ち込まれたと認識しています。

久住[くすみ]猛雄さん(福岡市埋文センター)は奴国の鉄生産について、以下のように述べています。

▼(青銅器生産に代わって庄内式併行期以降に)奴国の「基幹産業」となるのが鉄器生産である。…博多遺跡群での鍛冶は生産規模(工房範囲)が大きく…原料鉄の精錬鍛冶も行い、その推定生産量から古墳前期の各地鍛冶遺跡は「博多遺跡群経由の鉄素材への依存度も高かった」と評価される
▼「ヤマト政権」が「配布」したともされる古墳副葬品鉄器も、たとえば定角式鉄鏃については博多遺跡群で製作されている。…おそらく古墳副葬品の鉄製品には、直接各地首長が博多の「市」で入手したものと、ヤマト政権(倭王権)が(博多遺跡群の鍛冶工房に)一括注文して各地に再配分したものの両者があるだろう

「3世紀のチクシと三韓と倭国」(久住猛雄、ふたかみ邪馬台国シンポジウム、2017年)
資料は登録(無料)すればでダウンロード可能

青銅器製造の時代だけでなく、古墳前期(4世紀)にかけても、倭国の金属加工の中心地は、奴国[なこく]だったのではないでしょうか。

なお、3/17のNスペ「邪馬台国の謎に迫る」の感想はこちらです。

(最終更新2024/3/27)

#ヤマト王権 #倭の五王 #前方後円墳 #博多遺跡群

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