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がくれきコンプレックス

昨日、壇珠さんのノートを読んで泣いた。
カフェにいて、横の席には女子大生が留学の話か何かを何人かでしていたのだけれど、持っていたタオルハンカチで目を押さえながら、もし家だったら声をあげて泣いていたかもしれない。

そして先日、途中まで書いて下書き保存した後、やっぱりやめようと削除したことを、書き直して投稿することにした。
ここから上の文章は、ここから下の文章を書いた後に書いているのだけれど、ここまででも何度も公開しては編集している…。なにしてるんだろう?

先日、長年持ち続けていた学歴コンプレックスが、実はじぶんがおもっていたのとはちょっと違っていたんだな、ということに気がついた。

娘が最近のお気に入りの歌を聴かせてくれたのだが、その歌詞の中に「人間ってかんちがいしてるよね🎵」というフレーズが出てきて、娘はそのフレーズを楽しそうに何度もリピートしていた。

わたしは小学低学年の頃に、「勉強なんてしなくても死なない」とおもっていた。
他にも、と、ここまで書いてからトイレに行って布団に戻ったら、横で寝ていた娘が「なんかわかんないけどゲームがしたくなった…」と寝言を言ってまた眠った。
夢の中でゲームを始めているのだろうか?

そう、他にも、親が感情的になって怒りのままに手を挙げられたり怒鳴られたりしている時も、わたしは「死にはしないだろう、そのうち終わるだろう」と。
わたしは子供の頃からかなり荒んでいたのだろうかとおもったいた。

中学校最後の通知表で、わたしはとうとうオール1をとってしまった。
中学校の通知表は、確か5段階評価だったとおもう。
それを見たわたしは、しばらく眺めてからこれはちょっと……とおもった気がする。
勉強しなかったのだから当たり前のことだったのだけれど、確かに勉強はしなくても死ななかったけれど、わたしはその通知表を見て、嬉しくもなんともなかった。
勉強しなくても死なない、ということを証明したかったわけでもなんでもない。
もしちゃんと勉強していて高い評価だったら、わたしは嬉しかったのだろうか?それとも勉強してこなかったことの言い逃れだろうか?

中学校を卒業して、親戚のお姉ちゃんに紹介してもらってクリーニング店でアルバイトを始めた。何もかも初めての経験で、アルバイトに行く日が楽しくて仕方がなかった。
職場の人はみんなクセの強い人ばかりだったけど、仕事中にいつも冗談を言っては笑っていた。
お昼休憩は交代で入っていたのだが、わたしは近くの喫茶店でいつもランチを食べていた。
当時15歳だったわたしは、ちょっと大人になった気分で通っていたのだけれど、ランチについコーヒー&紅茶がついていた。
わたしはコーヒーを頼んだが飲めなかったので残していた。
どちらも飲めないと言えなかった。
その喫茶店はご夫婦で営まれていて、ホールに出ていた奥さんが、2.3度目かのランチでわたしが飲めないことに気づいてくれて、他に飲めるものがあればそれに変えましょうとキッチンのご主人にも言ってくれて、その日からのランチにはホットミルクが付くようになった。
メニューに書いてあるもの以外の飲み物を出してもらえることに、小さな驚きと嬉しさを感じていた。
アルバイトが楽しくて熱があっても出勤して、勤務時間が決まっているのにそれより早く出勤して、一度社長から店長に(そのクリーニング店はチェーン店だった)わたしの勤務時間を減らすようにと注意を受けたと聞いた。
その頃には、ワイシャツをしっかりプレスできるようになっていた。

楽しかったクリーニング店でのアルバイトは、色々あって7ヶ月でやめることになった。

その後、わたしは色々な仕事をしたのだけれど、この仕事に応募しようかなとおもうと、必ずと言っていいほど求人情報誌には応募条件に高卒以上という記載があった。
「高卒以上と書いてあっても採用される場合もあるからまずは電話してみる!」というのをいつ誰に聞いたか忘れたけれど聞いたことがあったが、当時のわたしは書いてある通りだとおもっていたのでそこは諦めて、中卒でも雇ってくれる仕事を探した。
ここなら大丈夫だな、と面接を受けて働いた職場はほとんど続かなかった。
そしてわたしは学歴コンプレックスになっていった。

ある日わたしは、履歴書に行ってもいない高校を卒業したとウソを書いたことがあった。
学歴詐称だ。
そんなに長くは勤めないだろうとおもっていた職場だったが、3年間も勤めて、辞める時には送別会までしていただいた。

娘の歌のフレーズを聴いていた時に、ふと、あ、わたしは通知表でオール1をとってしまったから、高校に行かず中卒だったことで諦めた仕事がたくさんあったから、行ってもいない高校を卒業したとウソをついたから、ではなく、わたしがわたしを否定したことに傷ついて、それが惨めで情けなかったことを、学歴コンプレックスだと勘違いしてしまっていたのだと。

小学校に入学したばかりの頃、父親から数字の書き方を教わっていた。
0〜9までの数字を、ノートに父親が書いてくれたお手本を見ながら順番に書いていった。
わたしはえんぴつで0、1、2、3、と順調に書き進めていたのだが、8にきた時、その数字をひと筆で書くことができなくて、◯を上下にふたつ書き、書けたよ、という顔をしながら父親を見た。
すると父親はちゃうやろ、と言ってもう一度お手本を見せてくれたが真似をして書こうとするのだけれどなぜか書けなくてまた◯をふたつ書いた。
父親はイライラしていたがまたお手本を書いて見せた。
でもわたしはどうしても8という数字を書けなくて、書けないと言えばいいのにそんな言葉もおもいつかなくておそるおそる◯を書いたら、なんで書かれへんねん!と父親のげんこつが頭に落ちてきた。
よく覚えていないのだけど2、3発くらってわたしは泣き出した。
ものすごく痛かった。そしてすごく悲しかった。どうしていいかわからなかった。

父親も中卒だった。
父親が20歳の時にわたしが生まれた。
わたしがまだ母親のお腹の中にいた時、父親は印刷会社に勤めていて、仕事中、断裁機で左手の親指以外の指を切断してしまうという事故が起きた。
すぐに指を拾って病院に駆け込んだが、もうつけられる状態ではなかったということだった。
その事故の知らせを受け、当時18歳だった母親はショックで出血したのだと話してくれた。
その前なのか後なのか、わたしは逆子で正常な位置に戻らず、前屈状態でお尻から生まれ、右手の親指の横には、もう一本指のようなものが生えるという多指症で、父親はそれを見て驚いたものの、じぶんの無くなった指の代わりに生えきたのだ、とおもったと言っていた。
が、すぐさま手術を受けて5本指になった。
わたしが少し大きくなってから、父親が「おまえが小さい時にお父さんの指をむしゃむしゃ食べたんやで」と聞いて、ぜんぜん面白くなかったのを覚えている。
父親はいつも、左手をズボンのポケットに入れて歩いている。

今は8という数字が書ける。
書き始めが上からでも下からでも書ける。
8という数字は横にすると無限大なので、とてもつらいおもい出だったけど、◯ふたつのままでなくてよかったのかもしれない。

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