村上春樹「午後の最後の芝生」と記憶を辿ることについて
村上春樹のはじめての短編集「中国行きのスロウボート」の中に「午後の最後の芝生」という言わずと知れた人気作品がある。
全体から漂う、夏のはじまりの気配と、
ゆったりと流れるテンポがとても心地よく、
時々、その世界観に浸りたくなる作品だ。
夏の季節の描写に惚れ惚れしてしまう。
記憶というのは小説に似ている、あるいは小説というのは記憶に似ている
これは文中の有名な一説である。
村上春樹作品は、過去を引用することで、
曖昧さや不安定さを特徴としているものがとても多い。
断定や明言を避け、決して核心には触れない。
この物語も、過去の話だ。
それに、
「14年か、15年前ぐらいのこと」
と、曖昧なことを言っている。
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私はnoteを書くようになってから、
自分が20代の前半ぐらいのを回想していることが多いことに気が付いた。
20歳の私は、決してすべて良かったわけではない。
でも無性にこのぐらいの時のことを思い出したくなる。
もしかしたら、それは20歳から35歳ぐらいまでの誰しもが経験する特有のものなのかもしれないし、あるいは、20歳を最後に、自分の感性よりも、社会に迎合することを選択してきたせいかもしれない。
書いてみたが、よくわからない。
いずれにしても、不安定で不確かなものに触れるほうが、
なんとなく”真実味”があると感じる。
断定されたり白黒と意見を書かれるよりもずっと心地よく、
こちら側にすべてをゆだねられている気がするからだと思う。
村上春樹の作品に時々触れたくなることと、自分の過去の記憶を回想することは私にとっては同じことで、どちらも、心地の良いことなのだ。
「グレー」であることを受容する感覚が今こそ必要なのかも、しれない。
「記憶のような小説」を読みながら、今そんな風に考えている。
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