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画面の向こうの「礼拝」


 朝から風が強く吹いている。
 部屋の窓がガタガタ震える音で目が覚めた。
 日曜の朝から騒々しい。わたしは上着を羽織って、コーヒーを淹れにキッチンへ向かった。
 風がなければ静かな朝だろうに。

 しかしこの風の中、外に出なくて済むのはありがたい。
 わたしは風の音を聞きながらコーヒーを飲み、SNSとメールを確認し、ソファでゆっくり読書する。
 時間になるとラップトップを開き、インターネットにアクセスする。指定のチャンネルを開くと、見慣れた講壇が既に映っている。そこに牧師が姿を現す。短い挨拶と祈りのあと、本日の聖書箇所が朗読される。オンライン礼拝の始まりだ。

 わたしはヘッドホンで朗読の声を聞きながら、目を閉じる。会堂にいても朗読の最中はいつも目を閉じる。それが習慣だ。しかしわたしの服装はパジャマに上着を羽織っただけ。髪はあえて整えていない。顔は洗ったが髭は剃っていない。到底、会堂の礼拝に参加できる格好ではない。

 他のみんなはどうしているだろう。パソコンやスマホの画面の前で正装しているのだろうか。ちゃんとメイクしたり髪を整えたりして、姿勢を正して座っているのだろうか。
 わたしは少し罪悪感を覚えるものの、画面に向かって正装して姿勢を正すのもどこか滑稽に思えてしまう。オンライン礼拝が始まるまで、考えもしなかった葛藤だ。
「礼拝に臨む姿勢」とは何だろう。

 画面の向こうで賛美歌が歌われる。音がくぐもって聞こえるのはマイクのせいだろうか、スピーカーのせいだろうか。わたしは声を合わせて歌う。だがどこかカラオケみたいだ。会堂で楽器の音を全身で感じながら歌うのが早くも懐かしい。あの空気感の中で、みんなで一緒に歌うのがわたしにとっての「賛美」だった。ではこの画面に向かって歌うものは、いったい何なのだろう。

 続いて始まるのは牧師の説教。わたしは大切だと思われるポイントを箇条書きしながら聞く。これもいつもの習慣だ。ぼーっと聞いていると何も頭に残らない。学生時代に受けた通信教育をを思い出す。同じように録画されたビデオを見ながら、1人で勉強した。

 最後にオンライン決済で献金を済ませ、牧師の頌栄に耳を傾け、礼拝は終わる。そのあと、会堂礼拝のように周囲の人たちと挨拶することはない。画面を閉じると、もうそこは自分の部屋だ。いや、初めから自分の部屋だったのだが。

 このスタイルの礼拝が、もう何週間も続いている。
 これは果たして「礼拝」なのか。それとも今だけの「代替礼拝」なのか。本物に対して「偽物」なのか。急場を凌ぐ「間に合わせ」なのか。

 礼拝とは何か、問われている気がする。
 会堂の中のあの空気感、集まった人々の一体感、スピーカーから流れる楽器の音や声、沈黙の中で急に意識される空調の音、座席の感触、週報の手触り……。そういった五感で感じる全てを、わたしたちは「礼拝」と捉えているのかもしれない。そしてそれらが失われた画面のこちら側では、「礼拝」が損なわれてしまった、と感じるのかもしれない。

「教会に集う」とは物理的に会堂に行くことなのか。それともオンラインの画面越しでも成立するものなのか。それは人と直接対面しないと、成立しないものなのか。

 海辺の街は風が強い。しょっちゅう電車が止まる。意外なものが飛んできて、危険を感じることもある。
 わたしはいつまで、物理的に教会に通うことができるだろう。
 通えなくなった時、わたしはどうなるのだろう。もはや「正式な礼拝」には参加できないのか。そこに神はいないのか。

 そんなことを考える、風の強い日曜日。

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