「自分の思い」とか「神様の思い」とか
※キリスト教の一部の教派で重視される「自分の思い」と「神様の思い」について書きました。「これは自分の思いなのか、神様の思いなのか……?」と悩んでおられる方の参考になれば何よりです。
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「自分の思い」と「神様の思い」をいかに判別するか、をわたしの教会は重視していました。何をするにしても「自分の思い」でやってはいけない、「神様の思い」を求めてそれに従わなければならない、と。
信徒はみんな内省して、「これは自分の思いなのか、神様の思いなのか……」みたいなことをいつも考えていました(自分がまさにそうでした)。
その考え方の根本にあるのは多分これです。
自分勝手な考えで行動してはいけない。
神様の方法、神様の計画、神様の目的に従わなければいけない。
でないと祝福がないどころか、罪を犯すことになってしまう。
そしてそれはどちらかというと、恐怖に煽られた動機だったように思います。
「神様に従いたい!」というポジティブなものでなく(もちろんそれもあるでしょうけれど)、「神様に逆らってはいけない」というネガティブな動機だったと。
ですから何かを決めなければならない時、「これは自分の思いなのだろうか……」とやたら恐れて、神経質になっていました。強迫的なくらいに。
SNSを見ても、そういう教派の人たちの発信は、その手の内容が多いです。
「これは自分の思いじゃないかと思うんです」
「神様の思いが何なのか、もう少し探っていきます」
「何事も自分の思いでやるのはやめました」(←悟った感)
しかしいきなり結論を書いてしまいますが、「神様の思い」が人間に分かるはずがありません。「分かった」と思った時点でそれは「自分の思い」なのです。あなたが考えることは初めから終わりまで全部「自分の思い」でしかないのです。なぜならそれは「あなたが」「考えた」ことなのですから。
聖書を読んだり神学を学んだりすれば、「神様が考えそうなこと」は多少は分かるようになるかもしれません。それを基にすれば、「神様はこの状況ならこう考えるのではないか」と推測することができるようになるかもしれません。
しかしそれは当然ながら、推測でしかありません。「これは自分の思いで、あれは神様の思いだ」などと切り分けることは誰にもできません。
そもそもの話、それができたらもはや「神様」は必要ないのではないでしょうか。
例えば友人のAさんを思い浮かべてみて下さい。
「よし、自分の思いでなく、Aさんの思いで実行しよう」というのは可能でしょうか。「Aさんの思い」を事細かに聞き取ることができれば、可能かもしれません。
しかしAさんが言葉で発したことが、100%完全に「Aさんの思い」なのでしょうか。あなたは「あなたの思い」を100%完全に他人に伝えることができるのでしょうか。
不可能です。
「Aさんの思い」はあなたには完全には分かりませんし、「あなたの思い」はAさんには完全には分かりません。
人間どうしでさえそうなのです。どうして「神様の思い」が明確に、クリアに分かるのでしょうか。
「分かった」というのは、あくまで「分かったつもり」でしかありません。
「あれは自分の思いだった。これこそが神様の思いなんだ!」
と喜ぶ人が時々いますが、(冷たい言い方ですが)「あーあなたはそう考えるんですね」としかわたしは思いません。
これをチャートで説明してみましょう。
①何が「自分の思い」で何が「神様の思い」か判別したい
↓
②そのためのヒントをあれこれ探す
↓
③集めたヒントや何らかのサイン、何らかの状況から「神様の思い」を判断する
↑
問①:その判断をしたのは誰?
↑
問②:判断材料を探したり、集めたりしたのは誰?
↑
問③:「これこれの状況になったらGOサイン」みたいな条件設定をしたのは誰?
結論:問①〜③の答えが「自分」であるなら、それは「自分の思い」
前述の通り、初めから終わりまで全部自分で考えているのです。そりゃそうです。誰も自分の代わりに考えてくれませんから。神様があなたの脳を乗っ取って考えてくれる(教えてくれる)わけでもありませんから。
教会でそう教えられたからとか、教会のみんながそうしているからとか、そういう「お付き合い」で信仰生活を送るべきでありません。ロジカルに考え、現実を直視しましょう。聖職者がどう言うか、他の信徒がどう言うかではありません。「あなた」はどう考えるでしょうか。
そうでないと、トンチンカンなことで人生の時間を無駄にしてしまいます。「神の国を実現したい」と本当に願うなら、「これは自分の思いか神様の思いか」なんて悩んでいないで、さっさと行動しましょう。失敗したら反省して、別の方法を試せばいいだけです。
「神様の思い」というのは、訳すると「神様の思い(だと自分で判断した思い)」でしかありません。
「今、自分はこれこれをすべきだと思う。間違っているかもしれないし結果はどうなるか分からない。けれどやってみたい。どういう結果であれ、神様は共にいて下さるのだから」
とドンと構えていた方が、ずっと精神衛生に良いです。そしてそれこそ「信仰」的な態度ではないでしょうか。