さよならを言う相手はいない
教会だった建物を去る日がきた。
私は残っていた私物をダンボールに詰めて、両手で抱えてオフィスを出た。これがハリウッド映画ならいきなり解雇された社員といったところ。実際の話、解雇されたようなものだったけれど。
振り返って最後にオフィスを見回す。忘れ物はないだろうか。白いデスクを上から下までチェックする。そういえば最後の冬、このデスクでくしゃみした時、ギックリ腰になった。その瞬間から数日間は実に痛くて不自由だった。それでも仕事をしなければならなかったのは、「神様の働きを止めてはならない」と牧師に言われたからだ。
この1畳半くらいのスペースが私に当てがわれたオフィスだった。この床に寝袋を敷いて寝た夜が何度あったことか。自分で言うけれど、身を粉にして教会に奉仕してきた。自分自身を捧げ尽くして神様に仕えるクリスチャンだ、と密かに自負していた。旧約聖書で言えば「全焼の生贄」のような。文字通りそのまま燃え尽きてしまったわけだけれど。
玄関に向かいながら、残っていた何人かの信徒と挨拶した。もうこれきり会わないだろう人たちだ。正直なところ、惜しくも悲しくもなかった。かすかに浮かべた笑みは最低限の礼儀。会釈はお互い苦労しましたねの労いの気持ち。
「私たちは神の家族だ」
「血よりも濃い絆で結ばれている」
「何があっても運命共同体だよ」
そんな幻想が打ち砕かれた今、ほとんどの信徒と私の間には、何も残っていなかった。あれだけ親しく思っていた人たちのことを、実は私はほとんど何も知らなかった。こうして見ると、みんな近くにいるのにとても遠い。よくできた立体ホログラムみたいだ。いや、ホログラムは私自身なのかもしれない。できればホログラムになってそのまま消えてしまいたい。
玄関脇の壁には、A1サイズのポスターを剥がした跡がある。そこだけ妙に白い。教会の年ごとのスローガンが、ずっと貼ってあったのだ。そのポスターは毎年私が作って貼り替えていた。
「リバイバルをこの地に」
「主の恵みの年」
「のちの雨が降り注ぐ街」
牧師が考えた、信仰を奮い立たせるフレーズの数々。今は彼がどこまで本気だったのか分からない。
ちなみにA1サイズを家庭用プリンターで印刷することはできない。A3サイズ8枚に分割して印刷し、後から貼り合わせたのだ。その作業の難しかったこと。市販のコピー用紙は正確な長方形のはずなのに、きっちり貼ってもなぜか微妙にズレていく。あるいは私の信仰がズレていたことを、暗に教えてくれていたのかもしれない。
靴を履いて玄関を出る。ダンボールを抱えていると、本当に解雇された社員みたいだ。ところで誰に解雇されたのだろう。神様に?
私は振り返って玄関を見た。もうここに来ることはないだろう。もはや教会ではないのだ。そのうちどこかの会社か何かが入居するだろう。そうしたら教会の面影は、完全に消えてなくなるだろう。
教会がなくなっても全く惜しくない。むしろ記憶とともに消えてなくなれと思う。それでも私は少しセンチになって、「さよなら」と言おうとした。その時気づいた。もうさよならを言う相手はいないではないか。そこは教会ではなく、教会だった建物なのだ。中に残っているのは「神の家族」でなく、「神の家族」だった人たちなのだ。みんな私が去るより先に消えてしまった。いや、そもそも初めから存在しなかったのかもしれない。
ダンボールを抱えた私は一人、解雇された職員のように背中を丸めて、階段を降りた。さよならを飲みこんで。