早く気付くべきだった
ある牧師が、原付でスピード超過して警察に止められた。牧師は「原付ばかり止めるのはおかしい」と警察に逆ギレ。免許の提示を求められたので、財布を遠くに放り投げて「取ってこい!」と怒鳴りつけた。「警察官を犬みたいに走らせてやった」と武勇談的に語るのを聞いた時、「この人はおかしい」と気付くべきだった。
その牧師は「神の国」のために忙しく働いていて、原付でスピード超過したのもそのためだったと言う。警察は「この世の君」であるサタンの支配下にあるから、「神の僕」である牧師の活動を妨害しようとするのだ、とも。そういう話を真に受けた、自分自身のおかしさにも気付くべきだった。
牧師はさらに言った。
「『神の国』は『この世』の常識に勝る。時には社会的に認められないこと(要は法律違反)をしなければならない時もある。結果、『この世』に裁かれるかもしれない。けれど全能なる神が、忠実なる我らに報いて下さるのだ」
完全に「寺社油撒き事件」と同じ精神構造だと、早く気付くべきだった(「寺社油撒き事件」より前の出来事なので、気付きようがないのだけれど)。
イエスはローマ帝国に税金を払った。カエサルのものはカエサルに。ユダヤの律法は幾つか犯したかもしれないが、ローマの法律は破らなかった。弟子たちに破れとも言わなかった。「クリスチャンはこの世の法律を破っていい」という解釈は、聖書から導き出せない。法律自体に問題がある場合もあるけれど、それはまた別の話。
その牧師はよく怒ったり怒鳴ったりした。信徒が反論したり、別の意見を言ったりすると、(相手にもよるけれど)急に怒って怒鳴りつけることがよくあった。今思うと、「怒鳴っても大丈夫な相手」を選んでいた。痴漢が「好みの相手」に加害するのでなく、「加害しても大丈夫そうな相手」を選ぶように。その卑劣さに、早く気付くべきだった。
牧師は怒鳴った後に「厳しく指導するのも必要なのだ」とよく言った。「自分は本当はそうしたくないが、心を鬼にして怒っているのだ」と。しかし明らかに、怒鳴りたくて怒鳴っていた。怒りが制御できていないように見えた。冒頭の警察への対応を見れば分かる。まだアンガーマネジメントが認知されていない時代だったのが惜しまれる。もっと早く気付くべきだった。
ではその牧師のおかしさに気付いたのは、いつだっただろうか。
出会ってすぐの頃、一緒に「公園伝道」に行った時、些細な点で意見が食い違ったことがある。牧師はやけに怒っていた。まだ関係が浅かったせいか怒鳴られる程ではなかったけれど、「なぜそこまで怒らなければならないのだろう」と、なんとなく疑問に思った。牧師だから考え方が違うのだろうか。「神の僕」だから「霊的に」高い視野を持っているのだろうか。そんなふうに、肯定的に考えもした。しかし、どこかにずっと違和感が残っていた。
もしかしたら初めから、気付いていたのかもしれない。