ルッキズムの何が問題なのか
最近よく耳にする「ルッキズム(いわゆる外見至上主義)」は、誤解されたまま使われている傾向があると思う。
この概念の影響で各種ミスコンが廃止になったことから、「美醜を競うのはNG=美しさにこだわってはいけない」と取る人が少なくない。それは部分的に正しい。けれど個々人が「綺麗でいたい(綺麗の基準は様々)」と願って実行するのを止めるものではない。
ルッキズムが問題になるのは、例えば採用面接で明らかな「容姿採用」がまかり通るような事態。以前、某派遣会社が登録者本人に伏せたまま、派遣先に「容姿レベル」を数値化して紹介していたことがある。つまりある程度「容姿端麗」でないと行けない派遣先があり、それが本人の意向に関係なく勝手に決められていた、ということ。芸能関係のオーディションならまだしも、能力その他の諸条件を無視して「容姿」を採用基準にするのは差別に当たる。
そうでなく、個々人が綺麗であろうとするのは自由だ。もちろんそこにも、現代的な美醜の価値基準に囚われていないか? という問いかけはいつも必要になる。その上で「自分はこれが綺麗だと思う」「自分はこうでありたい」と願うのは自然なことで、ある意味ルッキズムからの脱却でもある。
そこを理解していないから、例えばルッキズム批判をするフェミニストに向かって「お前だって綺麗に化粧してるだろ」みたいな見当違いな批判が起こる。個人が綺麗であろうとすることと、他者を美醜(のみ)で切り捨てることは全然別の話。ルッキズムは基本的に、他者に向かってなされるものだ。
セルフ・ルッキズムの危険性
美容関連の広告に「いつまでも大切にされたい(だからアンチエイジングしないとダメ)」という趣旨のものがある。「老いて『醜く』なったら大切にされない」という呪いだ。それを本人が内面化してしまうと、いつか必ず負ける戦い(誰も老化に勝ち続けることはできない)に延々と挑み続けなければならなくなる。セルフ・ルッキズム、あるいはセルフ・エイジズムとでも言うべき事態。
でも人には本来、自分らしく、自分のペースで老いる自由がある。
「綺麗でありたい」と願って実行するのにも、当然限界がある。でも美容広告が連日打ち出す「脱毛しないとダメ」「美白しないとダメ」「クマをとらないとダメ」「細くないとダメ」といった数々の文言が呪いとなって、終わりのない美容競争に人々を駆り立てる。でもその先には誰も勝者がいない。誰もいつまでも「美しく」はいられないから。
ルッキズムもエイジズムも本来、他者に向けられる差別。けれどこのように、自分自身に向けてしまうことがある(綺麗でない自分なんて許せない、みたいな)。資本主義に基づく消費社会も強力にそれを後押しする。その意味で私たちは、かなり頑丈に縛られている。