知らないうちに「模範的なクリスチャン」になっていた話
禁酒禁煙は神のオーダー?
私の教会は禁酒禁煙だった。
聖書は飲酒と喫煙を禁止している、と牧師は時々言った。そんなこと聖書のどこにも書いていないのでは? とどこかで思ったけれど、忠実なる信徒である私は疑問を挟まなかった。そもそも私は飲酒も喫煙も嫌いだった。酒臭い奴とタバコ臭い奴は近寄るな! 公共スペースの禁煙大賛成! という立場だったので、教会がそれらを禁止するのはむしろ好都合だった。いわゆるwin-winの関係。
しかし中には、それで苦労する信徒もいた。
禁煙できるように、何度も祈られる信徒がいた。祈りで禁煙できるようになるとは思えなかったけれど。
また他の信徒がこっそりタバコを吸っているのを、偶然見てしまったことがある(一度や二度ではない)。私はいつも気づかない振りをしたけれど、そうして良かったと今も思っている。そもそも人の嗜好を、本人の意思に反して禁止したり矯正したりすること自体、おかしな話ではないだろうか(憲法が謳う「自由権」に反している気もする)。
それはさておき、飲酒喫煙を禁止する教会だった。そして付き合いのある教会群はどこもそうだった。つまり少なくないキリスト教会が、今も信徒に禁酒禁煙を命じているし、信徒の方もそれが当然だと思っている。
壁に耳あり障子に目あり
私の教会はあれこれ活動的で忙しかった。他教会に行くことも多かった。訪問先は関東近辺が多く、時々東北や九州に遠征することもあった。そういった訪問先の教会の一つに、カマタさん(仮名)という信徒がいた。
カマタさんがどんな人か、実は私は知らない。顔を合わせたことが数回あるだけで、ちゃんと話したことがないからだ。失礼ながら、顔もあまり思い出せない。しかしそんな不誠実な私と違って、カマタさんは私のことを覚えてくれていた。ある時、そこの牧師が「カマタさんがあなた(ふみなる)のことをすごく褒めていた」と話してくれたのだ。ひどく驚いた。
「あなた(ふみなる)は職場の休憩中に他の職員のようにタバコを吸わないし、退勤後に皆でお酒を飲みに行くこともしない。いつもまっすぐ帰る。クリスチャンの鑑のような人だ、とカマタさんが褒めていました」と。
なんと、カマタさんは一時期上京していて、私と同じ職場にいたのだ(私はそこは週一のアルバイトだった)。私の方は全然気づかなかったけれど、カマタさんは私に気づいていて、しかし何かの事情で黙っていたらしい(そういえばあの人がカマタさんだった、と今は分かる)。
確かにその職場では休憩中、大勢がタバコを吸っていた。退勤後に誘い合わせて飲みに行くのも日常茶飯事だった。お中元などでもらったビールがある時は、仕事終わりにそのまま休憩室で乾杯することもあった。私は全部断ってさっさと帰っていたけれど、それは敬虔だったからでなく、単に酒もタバコも人付き合いも嫌いだったからだ(教会の奉仕が忙しかったせいもある)。
カマタさんはそんな私を見て、勝手に「模範的なクリスチャン」だと思ってくれたのだろう。その評価が巡り巡って本人のところまで届いた、という次第。どこで誰に見られているか、分からないものだなとちょっと怖くなった。
禁欲競争
当然ながら私は「模範的なクリスチャン」ではない。禁酒禁煙という価値観がたまたま教会と一致しただけだ。お酒を控えようと頑張ったことはないし、タバコを吸わないように我慢したこともない。表面的な「模範」でしかない。
これは見方を変えると怖い話でもある。酒やタバコが辞められないクリスチャンは「模範的」になれないのだ。教会に来ると一般社会における様々な苦悩から「救われる」かもしれないけれど、一般社会どころでない「禁欲競争」を走らされることにもなるのだ(そして私のような人間が不戦勝を得る)。
カマタさんに良い印象を与えられたのは、躓かせるよりは良かったかもしれない。けれど禁欲競争を強化させてしまった面もあるかもしれない。昔の話だが、モヤモヤする。
また、このケースにおいて私は知らないうちに「模範的なクリスチャン」だと言われたけれど、これは知らないうちに「模範的でないクリスチャン」だと言われることと表裏一体だ。
そもそもの話、人の信仰を、その表面だけ見て測るべきでないと思う。人の心の中は誰にも分からないのだから。