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「牧会が大変だから」という言いわけ、通用するわけ?

※プロテスタントの教会で「牧会が大変だから」という言いわけを聞いたことがあるでしょうか? この言いわけは正当なのでしょうか、それとも問題があるのでしょうか。今回はこれについて考えてみます(約2600字)。

もしかして、教派共通の言いわけ……?

 昔、教会のリーダー的立場の先輩信徒に割と酷いことを言われたことがあります。向こうもその自覚があったらしく、後日謝ってくれました。しかし、こんな言いわけ付きでした。

「ちょっとあの時は牧会が大変だったから……」

 牧会が大変なら何をしても許されるとでも? と思って内心ズッコケました。
 入信当初にいろいろお世話になった先輩で、尊敬する方でした。それだけにガッカリ感もひとしお。以来、その先輩とは距離を置くようになりました(小規模の教会内で距離を置くというのもなかなか難しいことですが!)。

 ちなみに謝るときは謝ることに集中すべきです。粗相してしまったときはついそこに至る理由や原因を言いたくなるものですが、説明すればするほど言いわけがましくなります。

 それと同じ話を知人(全然違う教派の人)からも聞いたことがあります。やはり相手から酷いことを言われて、後日「あのときは牧会が大変だったから」という言いわけ付きの謝罪(?)をされた、というものです。まったく同じ展開すぎて驚きました。

 もしかして「牧会が大変だったから」は、各教派共通の言いわけなのでしょうか。皆さんの周囲はいかがでしょうか?

そこにある権威主義

 「牧会が大変だったから」と平然と言いわけできるのは、「牧会の大変さは他の全てに優先される」と思っているからです(なんたって神様のタメですからね!)。そして牧会をしているのはそれを言うリーダー自身ですから、「自分の大変さは他の全てに優先されるのだ」と言っているのと同じです。

 つまり「自分は優遇されるべき大業をしている人間なのだから、多少のミスは不問に付されるべきだ」と思っているわけです。意識的か無意識的かは別として。

「酷いことを言ってしまったけれど、あのときは牧会が大変だったから」

「(それくらい大目に見てくれるだろ)」

「(牧会をしている自分は重要な存在なのだから)」

「(あなたの傷は気の毒だけど、こっちはより重要なんだから)」

牧会者=自分=不可侵=文句を言われるべきでない存在
信徒=あなた=多少の理不尽は我慢すべき存在

 ザックリ書くとこういう思考です。
 実はDVやモラハラをやる人と同じ思考なのですが、場所が教会になるとなぜかあまり問題にされません。気づかれもしません。

 その手の教派はリーダーを「霊的権威者」と呼んで殊更特別な存在に位置づけます。一般信徒より「上」なのです。だから会社で部下が上司の横暴に文句が言えないように、信徒もリーダーの横暴に文句が言えないのです。
 しかも会社なら労基など訴える先がありますが、教会にはありません。結果、リーダーのやりたい放題になります(最悪です)。

 しかし本来リーダー(牧師など)は教会の役割の一つに過ぎず、上も下もありません。
 信徒より聖書や神学に通じているとしたら、それは優位性というより責任です。その責任に見合った働きが求められているのであって、信徒たちに君臨して彼らに仕えてもらう王様ではありません。リーダーについて聖書でキリストが語っていることを思い出してみましょう。

 リーダーの中には「先生」と呼ばれたり、目下(と自分が判断している相手)から挨拶されたりするのを当然と思っている人がいます。そういうのを権威主義と言います。ですからわたしはリーダーをあえて「○○さん」と呼びます。「先生」は付けません。それで相手が不満そうな顔をしたら「いい気味だな」と思います(自分の性格が悪いのは知ってますよ!)。

 というわけで「牧会が大変だから」の一言には、構造的な権威主義が潜んでいます。

権威の裏にあるおごりや甘え

 もちろん牧会は人間相手の仕事ですから、簡単ではありません。むしろ様々な苦労や葛藤、困難や失敗があるでしょう。そういう大変さを否定するつもりはありません。

 けれど他の仕事に比べて大変だ、重要だ、優先される、という認識は間違っています。信徒もみな仕事があったり、家庭があったり、介護や育児を担っていたり、疾患や障害を抱えていたりします。どれもみなそれぞれ大変で、重要で、それぞれの場所で優先されます。牧師の責任だけ殊更重くて、信徒のそれは取るに足りない、など全くありません。本気でそう思っているなら見当違いもいいところです。

 教会の構成面も考えてみましょう。教会を構成する大部分は信徒です(牧師1人に信徒30人とか)。彼らがいなかったら教会も共同体も成立しません。信徒がいなければ牧師はお役御免です。

 その意味では、リーダーこそ支えられているのです。リーダーの仕事が重要であるなら、そのリーダーを支える1人1人の信徒も同じく重要です。なぜリーダーが「自分の仕事はより大変だ」などと言えるのでしょうか。しかも自分を支えてくれている人たちに向かって。

 というわけで「牧会が大変だから」みたいな言いわけは、前述の権威主義にくわえて、おごりや甘えがあるとわたしは考えます。

 たとえばわたしは看護師ですが、仕事で失敗してしまったときに「いや、あのときは看護が大変だったからね」などと言い訳すれば許されるでしょうか。絶対に無理です。
 他のどの仕事も同じでしょう。ミスしたときに「大変だったから」などと言いわけしたら、それ自体が問題になりかねません。

 であるなら、なぜ教会のリーダーだけが「いや、あのときは牧会が大変だったからね……」などと言えるのでしょうか。これがおごりや甘えでなくて何でしょう。

 というわけで権威を振るう者が実は周囲に甘えている、という見苦しい現象が起きてしまうわけです。

最後に

 以上、「牧会が大変だから」という言説について考えてみました。
 最後に一つ付け加えるなら、「牧会が大変だから」は「自分は仕事をまともに遂行できない人間です」という表明でもあると思います。毎日何時間も残業していることを大儀そうに言う人がいますが、「定時で仕事を終わらせる能力がない」「管理能力がない」ことを自ら露呈にしているだけなのと同じです。

 なので教会のリーダーがそういう言いわけを始めたら、「ああ、この人はその程度の人なんだな」と考えたら良いと思います。すなわち「権威主義+甘え+管理能力欠如」です。こう聞くとマジで最悪だな……という気がしますが、わたしの気のせいでしょうか?

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