ロシア軍のウクライナ侵攻に、いちクリスチャンとして思うこと
2022年2月24日、ロシア軍がウクライナ侵攻に踏み切りました。
ロシア軍の侵攻、と聞いて私がキリスト教の文脈で思い出すのは、「終わりの日」にイスラエルに攻め込む「ゴグとマゴグ」はロシアのことだ、というディスペンセーション主義的聖書解釈です。終末小説『レフト・ビハインド』シリーズでは、ロシア軍がイスラエルに奇襲攻撃を仕掛けるのが「終末の始まり」とされていました。ディスペンセーション主義の解釈をそのまま今の(執筆当時の)国際情勢に当てはめた設定です。
ですからディスペンセーション主義に立つクリスチャンは、今回のロシア軍の侵攻を見て「終末の始まり」を意識したかもしれません(ちなみにエホバの証人も同じような解釈をしているようです)。ついに終末がきた、と恐れ、不安に思っている人もいるかもしれません。
しかし終末論は、慎重に扱わなければなりません。
というのは終末について聖書は多くを語っていませんし、語っている(と思われる)箇所についても、解釈の余地があるからです。断言できることは何一つなく、要は信じるか信じないかの話です(「これは終末の始まりだ」とはっきり言う人がいるかもしれませんが、それはその人がそう信じている、ということです)。
ですから世界情勢の急激な変化、悪化、緊急事態を見て、安易に「終末だ」と言うべきでありません。パウロも自分の時代を「世の終わり」だと考えていました。その後も人類は様々な「世の終わりのように思える事態」に直面し、その都度「世の終わりだ」と言う人が現れたと思いますが、結局世界は終わらず、こうして21世紀を迎えました。
もちろん今が「世の終わりではない」とは言えません。しかし同様に、「世の終わりだ」とも言えません。
もし仮に今が「世の終わり」だとしたら、私たちは何をすべきでしょうか。何か特別なことをすべきでしょうか。私たちの多くにできるのは、実はそれまでと同じく日々を粛々と生きていくことだけです。明日世界が終わるとしても、私たちはリンゴの木を植えたり、白米を買いに行ったり、子のオムツを変えたり、ツイートしたりするのです。
「世の終わり」という緊急事態のイメージに興奮したり踊らされたりしているから、「世の終わり」をことさら強調したくなるのではないでしょうか。「世の終わり」について語る時、まずその動機が何なのか考えなければなりません。人を不安にさせ、恐れさせることが(密かな)目的になっていないでしょうか。
そして今は信仰の話を云々するより、ウクライナの人々のために、この酷い状況のために、自分に何ができるだろうか、と考えるべきだと私は思います。もちろん戦争(というより侵略だと思いますが)という大きな事態を前に、個人にできることなどないかもしれません。しかし「これは世の終わりだ」と(対岸の火事を見るように)無為に騒ぎ立てるより、ウクライナに連帯を示し、戦争に反対する言葉を発する方が、数倍価値があると思います。
クリスチャンである前に一人の人間として、私は戦争にも侵略行為にも反対します。
※最後に関連するツイートを以下に転載します。
※苦しんでいる誰かに「祈ります」と言うことについて。