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障害は「個性」なんかじゃない
「障害は個性」と言う人は、例えば事故で失明したり四肢切断したりしたら「個性的になった」と言って喜ぶのだろうか。
それらしい理屈をこねて「障害は個性」を擁護したい人(主に健常者)がいまだに少なくない。けれど障害がある人の意思を無視して「個性だ」と押し付けるのは暴力だ。どんな理屈だろうと、どんな文脈だろうと、暴力は許されない。
障害を負って生きることがどんなことか、具体的に知っていたら「個性」という言葉はまず出てこない。その生きづらさは到底「個性」などという言葉で言い表せるものでなく、変換できるものでもないからだ。もちろん障害の種類や軽重によって状況は異なり、例えば私の吃音症は障害全体を俯瞰すれば「軽い」方かもしれない。けれどそんな私でも死を願うほど苦しめられてきた。決して「軽い」ものではない。「個性」などという言葉で納得できるものではない。
たしかに障害者自身が、自分の障害を「個性」だと(時に無理やり)考えることで「納得しようとする」ことはある。障害をポジティブなものに捉え直すことで、少しでも生きやすくするためだ(親にそう言いくるめられてきた子どももいる)。しかし当然ながら、どう捉え直しても障害は障害だ。現実的な生きづらさ、困難さは何一つ変わらない。だから本人が自分の障害を「個性」と考えるのは、気持ちの部分の話でしかない。健常者がそれに乗じて「障害は個性だ」などと言える筋合いではない。
そもそも「個性」とは本来的には良くも悪くもないもののはずだ。少なくとも生存を脅すものではないはずだ。しかし障害は基本的に生存を脅かす。例えば呼吸不全をもたらす障害の場合、人工呼吸器のトラブルは死に直結する。そんなものは「個性」とは言わない。たとえ本人がそれをどう呼んだとしても(その心情は尊重するけれど)、障害であることに変わりはない。
仮に障害者自身が「この障害は個性です」と言ったとしても、それを聞いた健常者は安易に同意してはいけない。本人がどんな気持ちでそれを言っているか分からないし、その障害が本人を困らせ、生きづらくしているのは事実なのだから。それは障害による(本人の)葛藤を肯定する行為でなく、むしろその葛藤から手を引き、関わらないという態度だ。
だからどんな種類の障害であっても、本人がそれをどう言い換えていても、「障害は個性」などと第三者が言ってはいけない。「個性として受け入れろ」など暴力でしかない。
私は「障害は個性」だなんて絶対に思わない。認めない。自分がこの障害(吃音)にどれだけ苦しめられ、死を考えさせられてきたか、できるものなら全人類に体験させてあげたい。こんなものは不当に負わされた不利益でしかない。冗談でも「個性」なんかじゃない。