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教会のサマーキャンプと信仰の関係(あるいは無関係)

※2023年7月31日、加筆修正しました。

キャンプを楽しめるのが「信仰的」?

 教会のサマーキャンプを楽しめるから殊更「信仰的」なのではない。
 キャンプ中に洗礼の決心をしたから殊更「敬虔」なのでもない。
 キャンプ最終日にお涙ちょうだいの感動的な証(あかし)をしたから殊更「霊的に成長した」のでもない。

 そういうのは信仰の強弱の問題ではない。キャンプという行事を楽しめるタイプか否か、の違いでしかない。しかしなぜか、キャンプを楽しめることが「信仰的」だと評価される傾向が一部の教会群にはある。

 2泊3日のサマーキャンプを「信仰の成長のチャンス」と謳う教会の場合、キャンプ中に何らかの「成果」を見せなければならない、という暗黙のプレッシャーが参加者(特に子ども)に掛かる。

・未洗礼なら「洗礼を受けます」と決心すること。
・ディボーションの習慣がないなら「毎日ディボーションします」と決心すること。
・教会奉仕をしていないなら「奉仕を担います」と宣言すること。

 参加者側からすれば、「キャンプで成長する」と言うより、「キャンプだから成長したように見せなければならない」と言う方が実情に近いと思う。「宗教2世問題」と同じ構造だ。親や教会指導者の期待に応えなければならない。

 私が教会で頑張っていた頃、毎年大掛かりなサマーキャンプを開いていた。
 キャンプはだいたい流れが決まっていた。初日はひたすら楽しむ。海と花火とゲーム大会。夜はグループに分かれてお菓子パーティ。2日目の昼間は色々な分科会。そして夜はクライマックス。余興で盛り上がった後、ゲスト牧師(ある程度有名な人物)のとっておきの(ゲストとして呼ばれた時に使う十八番の)説教で、笑って泣いての大感動。その勢いのまま、賛美から「招き」に入って「信仰の決心」を促す。みんな感動しているし、ちょっといいところを見せたいから、普段しないような大胆な決心をしてしまう。だから毎年、キャンプで「洗礼決心者」や「献身決心者」が複数出る。

 冷静に考えると、教会はサマーキャンプの「特別感」を上手く利用していたと思う。

 キャンプを交通の便が悪い地域(海や山)でやるのも意味がある。車で海や山に連れて来られた参加者は、実質軟禁されたも同然だ。途中で帰ったり、ちょっと離れたりが簡単にはできない。集中合宿のようなものだ。必然的に(そして暗黙的に)、主催側の意向にできるだけ沿わなければならない空気になる。そのプレッシャーを利用して「信仰の成長」を迫るのはズルいのでは? と今は思う。

 また、キャンプの雰囲気を自然に楽しめる子と、面倒だけど教会行事だから無理くり参加した子とで温度差があるのは当然だ。なのに積極的に楽しむ子や、信仰面の何らかの決心をした子が褒められたり優遇されたりするのは、結局のところ教会も、学校と同じ弱肉強食の世界の延長線上にあることを示唆している。

 こう書くのは教会のサマーキャンプを否定したいからではない。
 ただ、楽しいイベントや明るい雰囲気、笑顔やポジティブな決断などが「信仰的」「敬虔」とみなされるのは違うと思うのだ。見た目に楽しんでいない、明るくない、笑顔でない、ポジティブでない決断の中にも、信仰は宿っているはずなのだ。

教会のパリピサークル化

 ペンテコステ派が好んで歌う元気なプレイズソングを、飛んだり跳ねたりしながら喜んで歌うのが「信仰的」だと思われる傾向もある。けれど生きていれば飛んだり跳ねたりできない時もあるし、喜べない時もある。それでも信仰はそれぞれの胸の内に宿っているだろう。むしろ苦しい時(見た目に喜んでいない時)の方が、信仰が強く働いているかもしれない。見た目の元気さや楽しさで、信仰心は測れないはずだ。

 「教会のサマーキャンプは、大人たちの価値観を子どもたちに叩き込むブートキャンプみたいだ」と友人が言っていた。言い得て妙だと思う。少なくとも私の教会はそういう側面があった。牧師は「信仰のDNAを次世代に継承する」とわざわざ格好良さげな表現を使っていたけれど、要はサマーキャンプなどのイベントを楽しめるパリピ(パーリーピーポー)を、再生産しようとしていたのだ。「信仰者は楽しむべき」「信仰者は明るく元気であるべき」という体育会系のパリピを。
 そうできない人は「信仰的」ではないのだろうか。
 教会はいつから、パリピサークルになったのだろうか。

「聖霊の爆発」を運ぶ?

 ある都心の教会が、ある地方の教会に連絡した。「そちらで若者向けの賛美集会を開きたいと思っています。聖霊の爆発をお届けしますよ!」
 自分たちの賛美で「聖霊の爆発」を発生させられる、と本気で思っているのだろうか。にわかに信じ難い発言だった。その地方の教会の牧師は良識ある人物だったので、「結構です」と断った。

 ここにも教会のパリピサークル化がある。大きな音を出して元気に賛美することで「聖霊が強く働かれる」と思い込んでいるのだ。ペンテコステ派では聖霊はよく「見えない波動エネルギー」みたいに扱われるが、自分たちの意思で出したり引っ込めたりできるパワーみたいで、非常に冒涜的だと思う。

 最初の話に戻るが、サマーキャンプを楽しめるから「信仰的」なのではない。元気に賛美できるから「聖霊が働かれている」のでもない。ポジティブなことを言えるから「霊的に成長した」のでもない。キャンプや元気な賛美を楽しめるタイプと、そうでないタイプがいる。それだけの話なのだ。

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