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あなたの「聖霊のバプテスマ」はどこから?

1 あなたの「聖霊のバプテスマ」はどこから?

 「聖霊のバプテスマを受ければ、あなたも新しい力を得ることができます」
 牧師は言う。
 「神は求める者に豊かに与えて下さるお方ですから、聖霊のバプテスマも求めれば与えられます。ただし、少しも疑わず、必ず与えられると信じなければなりません」
 それを聞いた私の胸を巡るのは、与えられなかったらどうしよう、という不安。それを打ち消すのは「新しい力」を受けて強くなりたい、変わりたい、という願い。しかし不安が完全に消えるわけではない。
 牧師は続ける。
 「聖霊のバプテスマには印が伴います。すなわち異言です。異言を語り出す時、そして語り続ける時、あなたは聖霊のバプテスマを受けたと知るでしょう」
 「異言」なら聞いたことがある。「バラバラ」とか「ララララ」とか「ダダダダ」とかひたすら言い続ける種類の祈りだ。初めは正直気持ち悪いと思った。しかし「異言を受け入れるかどうかで、信仰が次のステップに進むかどうかが決まる」と教えられて、その不快感を反省しなければと思った。
 「ではあなたに、聖霊のバプテスマが授けられるように祈りましょう」
 牧師が私の頭に手を置く。少し湿っていて不快だ。いやそんなこと考えてはいけない。信じて求めなければ。
 牧師の隣には牧師の妻。反対の隣には副牧師。私のすぐ背後には先輩信徒が2人。計5人が私を囲んでいる。
 「皆さんは助祷をお願いします」と牧師。「異言の祈りのサポートがあれば、より授かりやすくなるでしょう」
 そして一斉に「異言」の祈りが始まる。みんな似たような「異言」で、総合すると「バラバラ」と言っているように聞こえる。「使徒の働き」の二階座敷ではそれぞがれ異なる外国語を語ったとあるが、ではこの「バラバラ」はどこかの言語なのだろうか。そうだとして、「バラ」の2文字だけで全ての表現をまかなう言語など存在するのだろうか。いや、こういう考えが「聖霊のバプテスマ」を妨げるのかもしれない。
 「体をリラックスして、」と牧師。「舌の力を抜きなさい。聖霊様が話させて下さる通りに話せば良いのです。初めは先輩方の真似で構いません」
 二階座敷の人々は誰かの真似をしたのだろうか? とまた考えてしまう。誰にも教わらず、自分でも意味が分からないまま、それでも外国人が完全に理解できる外国語を語ったから「奇跡」なのではなかったか。
 「異言」の祈りが大きくなる。「バラバラ」の波に覆われているようだ。私が「異言」で語り出すのを、みんな今か今かと待っている。気のせいかいもしれないが、そんな期待を感じる。私がこのまま黙っていたらみんなを失望させてしまうかもしれない。
 私は変わりたいと思っている。優柔不断で自信のないこの性格をどうにかしないといけない。二階座敷で弱虫だったペテロが勇敢に語り出したのは、「聖霊のバプテスマ」によるものだと聞いた。私にもそれが必要だ。
 「バラバラ」の波はさらに大きくなり、もはや叫び声に近い。みんな待っている。私が「バラバラ」言い出すのを待っている。なんとなく、口がそんなふうに動く気がする。私に内在する聖霊が、私に語らせようとしているのか。私の理性がそれを止めてしまっているのか。私は信じ切れていないのか。この躊躇は疑いなのか。
 私の頭に手を置いたまま、牧師が真横に移動する。そしてもう一方の手を私の背中に置き、ゆっくりさすり始めた。
 「腹の底から湧き出るものを解放しなさい」と牧師。「舌が動くままに語りなさい。さあ今、聖霊の力を受け取りなさい」
 そして私の背中を強く叩く。「今!」という掛け声とともにもう1回。さらにもう1回。
 今! バン! 今! バン! 今! バン!
 「バラバラ」の渦に呑まれ、背中を叩かれ続け、私はもう考えることができない。私は口を開けると……。

2 それでどうなった?

 そうやって聖霊のバプテスマを授かり、「異言」を語るようになって20年。
 当初は何かが変わった気がした。大胆に「異言」を語り、高い霊性を維持し、信仰の深みに漕ぎ出して、神のしもべとして力強く歩める、と思った。
 私は信者でない家族親族と縁を切り、同じく信者でない友人たちとも縁を切った。高い霊性を維持するためだ。代わりにクリスチャンのコミュニティを生きる場とした。日々聖書を読み、祈り、信仰の土台を堅固にすべく努めた。「この世の娯楽」は見ない。日曜の礼拝は休んだことがない。
 毎日「異言」で1時間は祈った。
 「異言の祈りはあらゆる霊的賜物の土台です」と牧師に教えられたからだ。「異言の祈りがあなたの霊性を高め、聖霊の力で充満させます。だから暇さえあれば異言で祈りなさい」

 しかし20年経って思うのは、結局のところ私は強くもなければ霊的でもない、ということだ。毎日「バラバラ」と言い続けて何かを積み上げた気になっていたけれど、自分のプライド(「霊的プライド」とでも言うべきか)を高く高く積み上げただけだった。

 高い霊性を何十年も積み上げたはずの牧師はその期間、妻にDVを繰り返し、信徒たちを騙し、パワハラで支配し、教会会計を不正操作していた。最後の数年は神学生に暴力を振るい、不貞を犯した。そして全てが明るみになると姿を消した。「高い霊性」や「聖霊の力」は何の役に立ったのか。数々の不正の隠れ蓑になっただけだ。「聖霊に導かれて、多少強引に見えても神の国のためにはたらく牧師」を、信徒たちは疑うはずも止めるはずもないのだから(止めたくても止められなかっただろうとも思う)。

 私の場合、そもそもの初めに問題があった。「聖霊のバプテスマ」のための祈りの、脅迫要素をもっと自覚すべきだった。目上の人間たちに囲まれ、四方から「異言」を浴びせられ、事実上逃げられない状況に追い込まれ、自分も「異言」を真似て口にするまで終わらない、という心理的脅迫の状態に。

 そうやって口にした「異言」にも疑問がある。「バラバラ」とか「ダダダダ」とかの単純な音の連続が、言語として成立するのか。例えば「Hello Hello」をいくら連続しても、英語という言語は成立しないではないか。
 他人の「異言」を真似すればいい、というのも要領を得ない。二階座敷では多様な外国語が(本人たちがそれと理解しないまま)飛び交ったと書いてあるのだから。「異言」とさえ認識していなかったのではないか。であれば尚更、「真似する」という発想はなかったはずだ。定型句の祈りを真似るのとはわけが違う。

 もちろん私自身が「変わりたい」と願っていたのも、その「異言」を受け入れる下地になっていた。そこに自分の弱さがあったのは認める。けれどだからといって、「聖霊のバプテスマ」や「異言」を特別視して持ち上げ、根拠もなく「力強くなれる」「変われる」と保証し、信徒たちに教え広めた(広めている)牧師たちに、罪がないわけではない。

 自分はいったい何をしていたのだろう、と時々考える。その20年間のことを。その間に無駄にしたもの、できたはずのこと、あり得ただろう人生を、思わないことはない。

3  「異言」で成長した?

 教会を離れてから私は様々な人に会って話を聞いた。色々な本を読んだ。勉強会や読書会に参加した。まだまだ不十分だけれど、教会で「異言」で祈っていた頃よりはマシな人間になったと思う。「この世の娯楽」からも得るものは沢山ある。

 キリスト教界に広がる欺瞞や傲慢、搾取や差別が今ははっきり見える。そういう自分になったことを心から喜んでいる。安心している。あのまま教会で「バラバラ」と祈り続けていたら、一体どうなっていただろう? そう考えると怖い。

 「異言」は賛否が分かれるテーマだ。「異言で祈るのが真のクリスチャンだ」と信じる人たちもいるし、「異言はもう終わった」と信じる人たちもいる。中立的な人たちは「現代もあるかもしれない」と判断を保留にする。

 しかし私自身は、「異言」など強調すべきでないし触れるべきでもない、と思っている。

 というのは何が本当の「異言」なのか、誰にも分からないからだ。私は今でもやろうと思えば「異言」を披露できる。恣意的にコントロールして。自分は全く信じていないけれど、「聖霊に満たされて異言で祈っている」ように見せることができる。誰かを騙すこともできるだろう。では同じことを、牧師がやっていないとどうしたら証明できるのか。あるいはその牧師本人は「これは異言だ」と心底信じているかもしれないけれど、だからといってそれが本物だと断言することもできない(その牧師自身、自己暗示的に信じているだけかもしれない)。

 前項で挙げた複数の疑問点もある。「バラバラ」(などの単純な音の連続)を言うのが本当に「異言」なのか。中には色々なバリエーションの「異言」を語る人もいるけれど、よく聞けばループしているのが分かる。それが完全な言語であれば、毎回毎回ループするだろうか。そしてそもそもの話、あなたは喋る時に、毎回毎回同じ言葉で始めるだろうか。

 もちろんそういったテクニカルな問題は、聖書解釈の仕方で説明できるかもしれない。言語として文法的に成立していなくても「異言」だと言い張る根拠を、聖書を使って構築できるかもしれない。
 ではその実質はどうなのか。私の牧師は多彩な「異言」を操る「霊的」な人だったけれど、蓋を開ければ上記のように不正にまみれていた。20年以上「異言」で祈って高い霊性を維持しつつ、同時に不正を行うことなど、果たして可能なのか。

 私自身は牧師のような不正はしなかったけれど、20年も「異言」で祈り続けて何一つ変わらなかった。成長したように錯覚しただけだった。ではその「異言」には、何の意味があったのか。

4 「聖霊のバプテスマ」の本質

 今も若いクリスチャンたちが、牧師に勧められるまま「聖霊のバプテスマ」の祈りを受けていると聞く。「力強いクリスチャンになりたい」「生まれ変わりたい」という若い人たちの願いが、上手く利用されてしまっていると思う。

 そうやって無批判に「聖霊のバプテスマ」や「異言」を勧める牧師たちが、人格や霊性において優れていると言えるのか。長年「異言」で祈り、聖霊による「霊的刷新」を受けているのなら、安易に勧めないだけの思慮を身に付けても良いのではないか。

 「聖霊のバプテスマ」と「異言」は、クリスチャンを作り変える(霊的な)通過儀礼などではない。それは「聖霊のバプテスマ」と「異言」を信奉するコミュニティに属するための、いわばパスポートに過ぎない。そのコミュニティでは「異言」を流暢に語る者ほど、「霊的」に振る舞う者ほど歓迎される。今とは別種の能力主義世界に移行することなのだ。

 そこで上手くやっていける人もいるだろう。しかしそうでない人もいる。そして後者は結局のところ「聖霊のバプテスマ」を受けて以降も、「変わりたい」「力強くなりたい」という葛藤から離れられない。しかしそのコミュニティにいる限り、ひたすら「バラバラ」と言って精進し続けなければならない。その先に希望があるとも限らない。あなたはそんな世界に住みたいだろうか。

 人間は生きる限り様々な葛藤を繰り返す。それぞれの場所において日々悩んだり選択したりする。自分のことを「力強い」と感じる日もあるかもしれないし、「まったく弱い人間だ」としか思えない日もあるかもしれない。そんな不安定さや葛藤から根本的に逃れるために、「聖霊のバプテスマ」や「異言」があるのではない。

 私たちには日々戦いがあるけれど、何と戦うかはある程度、自分で選ぶことができる。「聖霊のバプテスマ」を受け入れることは、毎日「バラバラ」と言って「強くなった」と信じ込むための不毛な戦いに身を投じることだ。私はそれは無意味どころか、有害でさえあると思う。あなたはそれを願うだろうか。

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