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クリスマスは誰のもの?

※2023年12月20日、加筆修正しました。

イエス・キリスト不在のクリスマス?

 「ノンクリがイエス様のいないクリスマスを祝っていて悲しい」という投稿を見たけれど、「いない」と決めつけるのは浅はかだし、神様を軽視していると思う。「クリスマスはこうあるべき」という狭い檻を作って、自らそこに入って閉じ込められているクリスチャンの方が悲しい存在ではないだろうか。

 職場の同僚のノンクリスチャンたち(キリスト教徒でない人たち)がクリスマス・パーティを開いたら、たぶん私は参加するし、そこで飲んだり食べたりおしゃべりを楽しんだりすると思う。イエス・キリストの誕生を祝う気持ちはあるけれど、その場で開示して水を差そうとは思わない。だから客観的には「イエス・キリスト不在」に見えるだろう。しかし少なくともクリスチャンが一人は存在していて、イエスの誕生を祝う気持ちを持っている。いや、ただ開示していないだけで、他にもクリスチャンの同僚がいるかもしれない。あるいは今クリスチャンでなくても、過去に教会学校に通った経験があるとかで、クリスマスをイエス・キリストの誕生を祝う日だと認識している同僚がいるかもしれない。人のバックグラウンドは見えないだけで、多様だ。

 その点でも、冒頭の「ノンクリがイエス様のいないクリスマスを祝っていて悲しい」という見方は表層的だと思う。他人の人生を安易に判定してしまっていないだろうか。言わないだけで、人は様々なことを経験している。

 逆にキリスト教会で開かれるクリスマス礼拝やクリスマス会なら、「イエス・キリストがいる」のだろうか。それこそ怪しいと私は思う。教会員として頑張っていた頃、私はクリスマスの時期は毎年忙しすぎて、正直「早く終わってくれないかな……」と各イベント毎に思っていた。そのように信徒に過剰な負担をかけてクリスマスを「成功」させようとする教会はおそらく少なくないだろう。そんな大勢の犠牲の上に成り立つクリスマスは、本当にクリスマスなのだろうか。そこに「イエス・キリストはいる」のだろうか。

 当時より今の方が、私は素直にイエス・キリストの誕生を祝えていると思う。

 それにクリスチャン不在だろうが、「ただ楽しんでいるだけ」だろうが、それぞれの文脈でクリスマスを楽しむのは何ら悪いことではない。そもそもクリスマス自体が、すでにキリスト教から離れた季節のイベントとして、それ単体で存在しているのだから。

私個人の2022年のクリスマスの祭壇。

クリスマスは誰のもの?

 イエスが現代にいたら、教会でクリスマスを祝ったり宗教儀式に勤しんだりするだろうか? まったく想像が付かない過ごし方をする気がする(それこそ冒頭のノンクリスチャンたちの中にいるかもしれない)。もちろん教会でクリスマスを祝うのもアリだけれど、それだけがクリスマスではないはずだ。

 「ノンクリがイエス様のいないクリスマスを祝っていて悲しい」という発言のもう一つの問題点は、「ほんとうのクリスマスを知っている自分(クリスチャン)」と「何も分かっていないで楽しんでいるだけの人たち(ノンクリスチャンたち)」という選民思想や優越感だ。しかしキリスト教会で行うクリスマス礼拝が「正統」であり、他は全部「邪道」だという上目線こそが、クリスマスにふさわしくないマインドではないだろうか。教会で行われるクリスマス礼拝(などの祭事や行事)は、世界的に見ればもはやクリスマスの一側面でしかない。仕事で遅くに帰ってきて、何もできないけれどコンビニでケーキを買い、蝋燭に火を灯してちょっとだけクリスマス気分を味わうことだって、立派なクリスマスのはずだ(まさに私がそうだった)。どんな形であれ、無自覚であれ、クリスマスを祝うことはイエスの誕生を祝うことだ。そこに「正統」も「邪道」もない。

 その上目線や優越感、浅はかさ、狭量さが、クリスチャンや宗教家の倦厭されるところだ。なのに「真理はなかなか理解されない」などと言って余計にその上目線をこじらせるから手に負えない。クリスマスに最も哀れなのは、そういう上目線に無自覚なクリスチャンたちだと思う。

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