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ついてくる

 「アーメンだと思ったら自分の口でアーメンと告白しなさい」
 牧師が言う。私はかすかな違和感を抱きつつ「アーメン」と応える。周囲の人々も口々にアーメンと言う。
 牧師の説教は次第に熱を帯び、声が大きくなる。「これこそが神の恵みなのです!」
 私たちは一斉に「アーメン!」と言う。ほとんど叫んでいる人もいる。牧師が何か言うたびにアーメンが起こる。アーメン合唱大会。
 私はやはりどこかおかしいと思いながら、それでもアーメンを止められない。

 これはもう終わったことなのでは? 冷静な自分がどこか遠くで言う。

 牧師の説教は続き、会衆はますますアーメンで盛り上がる。アーメンという字が吹き出しになって、そこここに現れる。バラエティ番組の過剰な字幕のように。アーメンにアーメンが重なり、やがて画面を埋め尽くす。

 その時、ベッドの上で目覚める。時計を見ると午前3時。
 教会でアーメン合唱大会をしたのは10年前のことだ。なのに今でも、こうして夢に見る。

 ラジオから通販番組が聞こえる。コメンテーターの大袈裟な感嘆の声やら、「でも、お高いんでしょう?」というお約束の台詞やらに私は少し救われる。あれはもう終わったことなのだ、と寝返りを打ちながら自分に言い聞かせる。今はもう遠く離れている。ここは安全だ、と。

 教会での日々を今も時々夢に見てしまう。起きた出来事そのままでなく、色々なシチュエーションで、当時の教会が再現される。夢の中で牧師と私の関係は当時のままだ。時に叱責され、時に笑いものにされる。私は反論も抵抗もできない。当時の自分に戻ってしまっている。おかしいと思うことさえできない。

 厄介なことに夢はコントロールできない。どんなに嫌でも定期的に見てしまう。今夜は見なければいいな、と願うことしかできない。一体どこまでついてくるのだろうか。時間的にも物理的にも遠く離れたはずなのに、いつまで付き纏うつもりなのだろうか。
 
 時々、眠るのが憂鬱になる。
 『エルム街の悪夢』の登場人物たちは、眠ると夢の中でフレディに襲われてしまうから、ずっと起きていようと頑張る。彼らの気持ちが今、少し分かる気がする。
 教会の夢を見て目覚めてしまう、深夜の風景にもだいぶ慣れた。ラジオの深夜番組で出会う知らない楽曲。どうでもいい通販商品のどうでもいい効果。窓の外の虫の鳴き声。風の音。雨の音。カーテンの隙間から漏れる、街のかすかな光。

 自分が教会についてずっと問題提起し続けているのは、忘れさせてもらえないからかもしれない。夢という形で付き纏われているから、私も付き纏うのかもしれない。あるいは逆なのかもしれない。

 夢に見る 教会のみな リアルすぎ

 一句詠んじまった。

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