同性愛指向をめぐる「サイドB」への違和感
※書評ではありません。
いのちのことば社から、いわゆる「サイドB」を標榜する書籍『罪洗われ、待ち望む 神に忠実でありたいと願うゲイ・クリスチャン 心の旅』(ウェスレー・ヒル 著)が刊行された。原著は十数年前に刊行されている。なぜ今翻訳されたのだろうか。日本におけるNBUSの動きや、それに対する反発、そして「第三極」として現れた「ドリームパーティ」との絡みを考えてしまう。
「サイドB」は同性愛指向をめぐる「問題」の、一つの解答として紹介されている。
(ただしここでいう「問題」とは、同性愛指向自体の問題でなく、同性愛指向を「罪」だと考える人間たちが意図的に作り出した問題のことだ。同性愛指向は初めから何も問題ないし、何の問題も起こしていない)。
「サイドB」は「同性愛指向は罪ではない。けれど同性による性行為は罪になる」という立場。「同性愛は罪だ」という全否定に比べれば、ギリギリ一歩前進と言えるかもしれない。これを好意的に受け取る当事者もいる。けれど私は前進とは思わない(誤解のないよう書いておくと、「選択」の一つであることは否定しない)。
「指向」と「行為」の境界線?
「同性愛指向は罪ではない。けれど同性による性行為は罪になる」という表現は、「情動」と「行為」を明確に分けている。「思うのは認める。でも実行するのはダメだ」と。それ自体は一見、無理なく理解できそうだ。けれど現実には、両者にそんな明確な境界線はない。
例えば「握手」は基本的にただの挨拶だけれど、親密なふたりが交わすそれは性行為的だ。交わし合う視線、言葉、重なる手、伝わる体温にすでに(親密なふたりの間には)性行為のニュアンスがある。セックスと地続きだと思う。そういう状況に「ここから先は性行為」という明確なラインなど、果たして引けるだろうか。
逆に「握手するのも嫌だな」と思う相手もいるだろう。それは心理的距離と物理的接触が強く相関しているからだ。そのように繋がっている心と体をどうにか分離して、境界線を引こうとするのが「サイドB」のようにも思える。
もう一つ疑問なのは「思うのは認めるが、行うのは悪い」という構図自体だ。現実的に考えてみて、そんなことがあるだろうか。例えば「殺したい。でも殺さない」というのは「殺さないからいいじゃん」とはならない。殺意自体が問題だからだ。逆に「愛してる。だから守る」という場合、情動においても行為においても(一般的に)問題はない。
では「思うのは認めるが、行うのは悪い」という逆接は、一体どういう状況で成り立つのだろうか。思うこと自体は良いが、行うのは悪い、というようなことが、本当にあるのだろうか。
結局のところ、行うのが悪いのだからその根源となる動機(同性愛指向)も悪いのだ、と暗に表明しているように思えてしまう。
不均衡なイメージ化
いわゆる「禁欲」や「独身主義」を決心するのは悪いことではない。異性愛者であれば、「そういう生き方もあるよね」と数ある選択肢の一つとして認められやすい。パウロも独身を勧めているし、カトリックの教職は独身制を敷いている。
しかしここで重要なのは、「異性愛者なら選択肢の一つとして自然に認められやすい」点だ。異性愛者はマジョリティとして大勢を占めるので、「様々な生き方」が不自然なく受け入れられやすい。
だがこれが同性愛指向だと事情が変わる。例えば性的マイノリティであるゲイ・クリスチャンの有名人が「禁欲」を標榜することで、母数が圧倒的に少ない同性愛者全体が、「禁欲すべき」という印象を持たれやすくなる。例えばメディア露出の多いゲイの芸能人の表象(いわゆる「オネエ」キャラなど)がゲイ全体の「標準」と見られやすくなるのと同じだ(「ゲイはみんな同じ話し方をするよね」みたいな。実態は違う)。
既にゲイ・クリスチャンの生き様が様々に展開されていて、こういうゲイ・クリスチャンもいればああいうゲイ・クリスチャンもいるよね、みんな色々で素敵だよね、という状況になっていれば別だ。けれど現状はそうなっていない。むしろ「同性愛は罪」と断罪され、排除され、「矯正」の対象にされ、日陰に置かれてきたではないか。そこにポッと現れた(認められた)ゲイ・クリスチャンがいきなり「禁欲」を標榜するなら、それは「ゲイ・クリスチャンは禁欲であれば認められる」というメッセージになりかねない。
「ゲイ・クリスチャン=禁欲」が標準化されかねないのだ。
この不均衡を無視して「サイドB」を称揚するのは結局のところ、形をマイルドにした同性愛差別に思えてならない。分かりにくい差別という点で、いっそう質が悪い。
「認める」のは誰なのか
そして最も根本的な疑問は、「同性愛指向は認めるが、」というセリフの主語が誰なのかだ。
一体誰に、同性愛指向を認めたり認めなかったりする権利があるのか。同性愛者はその「誰か」に認めてもらわないと存在できないのか。そのように他人の尊厳を奪ったり、条件付きで認めたりする「誰か」とは何様なのか。
私たちは「禁欲によって神に忠実でありたいゲイ・クリスチャン」というキャッチーなフレーズに目を奪われるばかりで、そもそも彼をそのような状況に追い込んだ何者かを後景に追いやっていないだろうか。私たちクリスチャンが本来問題視すべきは、まさにそこではないだろうか。