「霊的」という言葉が嫌いだ
「霊的」という言葉が嫌いだ。
曖昧模糊としているのに意味がありそうな、すごいことが起こりそうなニュアンスがある。教会でさんざん聞かされた。「霊的覚醒」とか「霊的勝利」とか。一生分聞いた気がする。もう人生から退場してもらって構わない。
私の牧師が今も現役だったら「この世を霊的にインフルエンスする」とか「クリスチャンは霊的インフルエンサーであれ」とか真顔で言いそうだ。
その牧師は「常識/霊的」の二項対立が好きだった。人間が守るべき「この世の常識」と、それを超越する「霊的領域」の対立だ。後者は神が治める領域であり、信仰に燃えるクリスチャンがなんとかアクセスできるステージである。「霊的領域」は「この世の常識」に優先されるので、必要なら常識など破って構わない。いやむしろ率先して破るべきだ。とされていた。
例えば「近所の神社仏閣を霊的に攻撃しなければならない」となったら、不法侵入とか器物損壊とかの法律(常識)は無視するのが信仰的態度とされる。意味がわからない? 書いてる自分だってわかんねえよ。
「霊的クリスチャン」という言葉にどんな存在を想像するだろうか。
この世界に生きていながら「霊的領域」にもアクセスしている、人間を超越した存在。というのが私の教会での認識だったと思う。少なくとも私はそんなふうにイメージしていたし、そういう存在であれと明に暗に要請されていた。振り返ってみると、全体的に中二病的な教会だった。『新世紀エヴァンゲリオン』のシンジのような超越感、特別感、選民感が重視されていた、と言えば伝わるだろうか。
ある日曜の朝、私は近所の印刷業者の居住スペースのドアをノックした。店が閉まっていても、そこに店主が住んでいると知っていたからだ。至急依頼したい印刷物があった。普通なら営業時間中に出直せ、という話だ。しかし私にとってその印刷物が少しでも早く出来上がり、少しでも早く各所に発送されることが重要だった。
なぜそこまで急いでいたかというと、前夜に牧師にこんなふうに言われたからだ。
「君の行動が遅れることで、神の御心の成就が遅れるんだぞ?」
であるなら、休日の朝に印刷屋の店主を叩き起こすくらい大した犠牲ではないではないか。それくらいの非常識は取るに足りない。店主に変人だと思われるのはむしろ神のしもべとしての栄誉ではないか。そんなふうに考えていた。
その印刷物は店主の厚意と寛大さにより、超特急で納品された。ここはクリスチャン的には「神に感謝する」タイミングだが、「神の御心が遅れないように私が常識も礼儀も無視して店主に頼み込んだ」ことを「神に感謝する」のも変な気がする。誰か説明してくれ。
しかしそこまで急いで納品させて発送した印刷物が、映画『クリムゾン・タイド』の核ミサイル発射中止コードと同じくらい各教会で重視されたかどうかは疑問だ。むしろ各所で開封されないまま、何日も過ぎた可能性さえある。私の努力はいったい何だったのか。
そんなこんなで「霊的」という言葉には嫌な思い出しかない。私の教会での苦しみの大半は「霊的」という言葉に紐づいている気がする。だからもう私の人生から退場してもらって構わない。
しかし一方で、他教派の人たちが時々使う「霊的」という言葉に、どこかに「正しい霊的」があるのかもしれない、と思わせられる。私が知らないどこかに「正しい霊的」があって、そこではみんなキャッキャウフフしている。なんだよ、ここにいたのかよ、と私は「正しい霊的」の肩を叩く。
銀行員の友人と食事をした時、『半沢直樹』の話を振ってみた。「あれってリアルなの?」
「半沢直樹以外はみんなリアル」という答えだった。どうやら半沢直樹のような正義漢はいないらしい。その時ふと思った。さて「正しい霊的」は存在するのか、と。