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「リバイバル」の正体

※2023年4月23日加筆修正しました。

 キリスト教の終末思想の一つに「リバイバル」がある。「信仰復興」とか「霊的大覚醒」とか訳される。世の終わりが近づくと多くの人々が「神に立ち返り」、信仰の大いなる「復興(リバイバル)」がなされる、という思想だ。その界隈では北米のアズサストリートやペンサコーラがその代表地として知られている。アジア圏ではシンガポールのシティハーベストチャーチで「リバイバル」が起こったとされている(のちに同教会の主任牧師コン・ヒーが資金不正流用で起訴、収監され、教会員数は半減したけれど)。

 私の教会でも「リバイバル」は盛んに叫ばれ、「アズサストリートの炎を日本にも!」とか「ペンサコーラの祝福をもう一度!」とかよく祈られた。日本はクリスチャン人口1%未満だけれど、世の終わりになれば「大リバイバル」が起こり、多くの日本人が救われ、教会に押し寄せてくる、だから今から準備しておかねばならない、と言われた。取らぬ狸の皮算用に終わったけれど。

 この「世の終わりにリバイバルが起こる」という言説はその界隈の牧師たちが異口同音に唱えていた。私の牧師だけではない。アメリカの有名牧師も言っていたし、かの大伝道者も言っていた。だから信徒は誰も疑わなかった。むしろ大勢がクリスチャンになって「神の国」が到来するなら素晴らしいじゃないか、とみんな期待していたと思う(私もその一人だった)。

 しかし肝心の聖書を開いてみると、「世の終わり」に起こるのは「リバイバル」でなく「背教」だと書いてある。多くの人が「愛に燃える」のでなく、多くの人の「愛が冷める」と書いてある。「真理が回復する」のでなく、「多くの偽キリストや偽教師が現れる」と書いてある。「信仰復興」とか「霊的大覚醒」とか、それに類する記述は一つも見当たらない。聖書を都合よく解釈しているのは誰なのか。

 ではいったい何が「リバイバル」という言説を生んだのか。

 それは一つは「期待」と「願望」だ。大勢が救われて教会に押し寄せる、と言われれば信徒はモチベーションを維持できる。牧師は求心力を維持できる。信仰し続けることに特別な意味や価値を見出すことができる。馬の頭にニンジンをぶら下げるのと同じように。

 もう一つは「感動体験」だ。エモーショナルな賛美が流れる中、互いに祈り、涙を流し、胸を詰まらせる。その感動は個人的な「リバイバル」と言えるかもしれない。ペンテコステ系の教会では時折そういうことが起こる。超教派の大きな集会でそれが起これば、ちょっとした「リバイバル」に見えるかもしれない。しかし忘れてはならないのは、それは牧師(集会の主催側)が意図的に起こしている、という点だ。「リバイバル」は操作されている。

 もう一つの問題は、そこには信者しかいない、という点だ。それは「大勢のクリスチャンが感動して気持ち良くなる」現象であって、「信じていない人々が教会に大挙して信者になる」わけではない。あくまで内輪の盛り上がりだ。周辺地域には何一つ影響を及ぼさない。

大きな賛美集会で感動に震えるクリスチャンたち

 ここに混乱と混同がある。「大勢が信じて救われる」はずの「リバイバル」が、「既存のクリスチャンを励ます」ものにすり替わっている。牧師たちがそこに触れないのは、単に気づいていないからなのか、あるいは都合が悪いからなのか。前者だとしたら考えが足りないし、後者だとしたらモラルが足りない。

 前述のアズサストリートやペンサコーラやシティハーベストチャーチは、その後どうなったか。「リバイバル」が一過性のブームのようなものならば、それは「リバイバル」と言えるのか。そもそも今は「世の終わり」なのか。私たちは「リバイバル」という概念に踊らされてきたのではないか。

 もちろん個人的な「リバイバル」ならいつでもどこでも起こり得る。あるいは1970年代に韓国でクリスチャンが爆発的に増えたのは地域的な「リバイバル」だったかもしれない。しかし一教会内で起こる「リバイバルのようなもの」は、前述の通り、牧師が意図的に扇動したもの(それに信徒らの願望が乗っかったもの)であることがほとんどだ。

 そのように一部の教会群において、「リバイバル」は感動のエンターテイメントと化している。感動に圧倒され、心が洗い清められるように感じるのを、『水戸黄門』の印籠のシーンで毎回カタルシスに浸るのと同じ感覚で(しかしそれとは気づかずに)楽しんでいるのだ。それは感動を消費して維持する信仰であり、キリスト教信仰とは言えないと私は思う。

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