キラキラしたクリスチャン家庭
キラキラしたクリスチャン家庭。
日曜は家族全員で教会に行き、子どもたちは9:30からの教会学校に参加。両親は牧師に挨拶し、奉仕の準備を始める。父親は司会で、母親はピアノの奏楽だ。他の奉仕者らと集まって祈る。互いに褒め合うのを忘れない(「今日のスーツも素敵ですね!」)。教会学校からは子どもたちの元気な「アーメン!」が聞こえてくる。「祝福と恵み」に満ちた、日曜の朝。
礼拝が滞りなく終わると、信徒たちとしばし歓談。通りかかった牧師をつかまえて、今日の説教の感動した点を伝える。今日は月に一度の愛餐会だ。母親たちは厨房に入り、父親たちはテーブルを動かしてコップを並べる。教会の子どもたちは仲良く遊んでいる。楽器に興味を持ち始めた長男は奏楽者からギターを習っている。この分だと奏楽デビューも時間の問題ですね! 家族揃って礼拝奉仕なんて素晴らしい! と方々から声が掛かる。両親は「しもべとして精一杯お仕えするだけです」と言って謙遜する。
食事の後は皆で会堂掃除。父親は重たい物を運び、母親は丁寧に掃除機をかける。長女はガムテープの裏で玄関のカーペットをペタペタやる。長男は例によって行方不明。終わると牧師に挨拶し、家族揃って教会を出る。そのまま家の近くのファミレスへ。子どもたちはパフェを、親たちはコーヒーと紅茶を楽しむ。今日も充実した日曜だったことを神様に感謝する。
そこで男は目を覚ます。かつて父親だった男だ。
こんなふうに、かつての教会生活を今も夢にみる。あの時の自分が「幸せ」だったのか、男はよく分からない。それだけでなく神様の存在も、当時たしかに感じていたはずの「祝福と恵み」の感触も、もうよく分からない。
男に分かるのは、自分たちの家庭生活が教会生活に依存していたことだ。自分の「信仰心」や「きよさ」や「献身」が教会というコミュニティに依存していたことだ。そして夫婦関係さえも、教会や牧師との関係の上に成り立っていたことだ。
キラキラしたクリスチャン家庭。もう戻らない日々。しかしそれを悔いているのかどうか、男には分からない。
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