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「牧会が大変で……」と嘆く牧師に耐えられない

 「牧会が大変で……」と嘆く牧師に違和感がある。

 いわゆる「扱いづらい信徒」や、「問題ばかり起こす信徒」がいるのは分かる。実際苦労しているのだろう。その感情は否定しない。

 けれどその「大変で、」の中身は、例えば「婚前交渉しても良いと考える若者を説得するのが大変で、」とか、「疑問や批判ばかり訴えてくる信徒に答えるのに苦労してて、」とかだったりする。どこが大変なのですか? と正直思う。他人の考えや価値観を一方的に変えようとするあなたこそ、相手を困らせているのではありませんか? と。

 もちろんもっと深刻な事態もあるだろう。DV被害を受けて逃げ場を探している信徒とか、アルコール依存症やギャンブル依存症で苦しんでいる信徒とか、家族に洗礼を反対されている信徒とか、夜中でも構わず連絡してくる信徒とか。

 しかしこういう話を聞いて私が真っ先に抱くのは、なぜ牧師は何でもかんでも引き受けようとするのですか? という疑問だ。DVや依存症のケアは専門の訓練を受けないとできないし、家族の問題に首を突っ込む資格は牧師にはないし、1人で24時間365日オンコール対応するのは労働基準法に反している。なぜそんな無茶をするのだろうか。メサイア・コンプレックスをこじらせているのではないだろうか。

 百歩譲ってそれで解決できるならまだ評価できるかもしれない。けれどそういった「困難事例」は大概にっちもさっちも行かなくなる。そして解決できない理由を「本人が頑なだから」とか「本人が誠実でないから」とかと本人のせいにして、「ボク悪くないもん」ムーブを発動する。非常に不誠実だ。だったら初めから「自分には対応できない」と認めた方が良い。

 そんなふうに対処できない事態に対処しようとして、結局できなくて、「牧会が大変で……」と嘆くケースが多いように思う。それは能力の問題でなく、判断力の問題だ。適切に判断できない結果、相手も自分も苦しめる。その判断力のなさが本当に素人くさい。

 簡単に「導ける」相手などいない。簡単そうに見えるのは、たまたま自分と相性が良かったり、相手のニーズに応えるスキルが自分にあったりするからだ。そうでない難しいケースに当たる度に「この信徒は大変で……」と嘆くなら、最初から牧会などすべきでない。牧師であるあなたがストレスを感じているなら、「難しい信徒」はもっとストレスが大きいはずだから。迷惑を被っているのは牧師でなく、その信徒の方ではないのか。

 そういう牧師ほど「牧師の働きは大変だ」と自分で言う。恥ずかしくないのだろうか。一般の信徒が日々どうやって生きているのか考えもしないのだろう。仕事でどれだけ大変な思いをしているのか。家事や育児や介護でどれだけ苦労しているのか。病気や障害でどれだけ悩まされているのか。学校でどれだけ葛藤しているのか。それらを無視して「牧師の働きは大変だ」などと臆面なく言うのは、中二病みたいなものだ。いや、中二に対しても失礼だ。考えが幼すぎる。

 これは牧師の育成過程の問題でもあると思う。神学校のカリキュラムは学校によって違うだろうけれど、相談支援(牧会)の分野にはさほど時間が割かれていないと聞く。翻って相談支援を専門とする職業は、そのための勉学を3年なり4年なり集中的にするし、卒業後も続ける。それで困難事例に何とか対処しようとするのだから、牧師が素人くさい反応になるのは当然かもしれない。

 どの信徒にも人生のストーリーがある。見えないけれど悩みや嘆きがあり、それぞれ葛藤して生きている。その結果が例えば「とっつきにくい態度」なのかもしれない。それを「扱いづらい」とか「難しい」とかの安易な言葉で片付けるのは失礼だ。いったい何様なのだろう。

 牧師業だけが特別大変なのではない。神聖なのでもない。特別尊ばれて労われるものでもない。むしろ信徒の献金で成り立たせてもらっている自分の仕事や生活に、感謝しなければならない。

 もちろんその感謝の対象は、神様の前に、ひとりひとりの信徒だ。

・追記

 書いていて思い出したけれど、「信徒のことが心配すぎて眠れなくなってしまったので、毎晩睡眠薬をのんでいます」と話す牧師がいた。そこまでして頑張っている自分を労ってほしかったのだろう。あるいは牧師業はそこまで犠牲を払うものだと伝えたかったのかもしれない。けれど「あなたは対人支援に向いていないです」という感想だった。言わなかったけれど。

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