クリスチャンの「幸せ」
「幸せな自分」を見せる「幸せ」
化粧水を出し過ぎた。200mlで3000円する液体が手のひらからシンクに流れ落ちていく。もったいない。どうせなら「化粧水をバシャバシャかける」やつをやれば良かった。そう思いながら手のひらに残った化粧水を顔面に塗りつけた。
疲れた夜だった。読書もしなかったし、筋トレもサボった。友人から勧められた『キリング・イブ』の続きをぼんやり見ながら歯を磨いただけだ。その夜はヴィラネルとイブがバスの中で格闘したかと思ったらキスしていた。あの二人の関係はよく分からない。一緒に寝たり、殺し合ったり。
翌日、久しぶりの友人とドームシティでランチを食べた。久しぶり過ぎて話が積もりに積もっていた。スンドゥブが辛すぎて食べられなかったけれど、話の方でお腹いっぱいだった。そのままキルフェボンに移り、ベリーが山盛りのタルトをちびちび食べながらまた話した。食べる前に写真を一枚パシャリ。なんて「映える」のだろう、とあとで写真を見返しながら思った。
こうして生活の一部を切り取ると、いかにも「映え」ている。「映え」ているところを切り取っているのだから当たり前か。200mlで3000円する化粧水を使っていることをわざわざ書くのも「映え」を狙っている。
これって、「映えてる自分」を作って見せて、悦に浸ってるだけじゃね? と思う。いや、キルフェボンのタルトが美味しかったのは事実だけどさ。
「幸せ」や「良い暮らし」や「充実した毎日」とはこういうものだ、といつのまにか決められている気がする。
「これをやるのが幸せなんですよ」
「リア充はこういう暮らしをするんですよ」
そう明に暗に提示されることをせっせと行い、皆に承認してもらい、それで「自分は幸せなんだ、充実した毎日を送っているんだ」と自分を安心させている気がする。
だとしたら、「皆が一般に幸せだと思っていること」をしている「幸せな自分」を見せることが「自分の幸せ」になっている、のではないだろうか。
「幸せ」というプレッシャー
「幸せになりたい」という一見自然な願いは、「(いつか)幸せにならなければならない」というプレッシャーにまで高まっている気がする。我々は幸せでなければならない。不幸であってはならない。それは教会でよく聞く「我々は祝福されなければならない。罪を犯したままであってはならない」と似ている。
教会は「この世の価値観と全く異なる価値観(=聖書の価値観)を提示する」と言う。けれどちょうどいい男女が「結婚」して子をもうけ、男は働いて献金を納め、女は家庭に「入って」夫や子や教会に仕え、そうやって「家族」で教会の成長発展を支えるのが「祝福された道」だとしている点で、「この世」と何も変わらない。家父長制と男尊女卑の価値観から、実は一歩も出ていないのだ。
我々は「幸せ」の形をほとんど決められてしまっている。そのルートに乗って頑張れば、その「幸せ」を得られるかもしれない。しかしそのルートを外れようとすると、強い抵抗に遭う。そしてその先に「幸せ」なんてない、と思わせられる。そんな「幸せ」に我々は踊らされている。と思う。
もちろんその「幸せ」で満足するのは悪いことではない。ある人にとってはその方が楽だし、満足度も高いと思う。しかしカルト化教会で長く牧師に踊らされた身としては、そして結婚生活にも家庭生活にも向かなかった身としては、そのまま看過していいものか迷う。
こぼれた化粧水や辛すぎたスンドゥブやキルフェボンのタルトを思い出しながら、そんなことを考える。ねえ、あなたは「幸せ」?
追記
スンドゥブが辛くて食べられなかった、と正直に書いてしまったけれど、あれは友人の奢りだった。たぶん読んで気を悪くしたと思うので申し訳ない。言い訳すると、気持ちはしっかり受け取っている。次は奢らせてくれ。
考えてみると、こうして友人と半日食べたり喋ったりできたのは「幸せ」だった。間違いなく。我々はその気になれば家父長制ルートから外れて「自分の幸せ」を探しに行くことができる。それは困難もあるけれど、チャレンジングでもあり、時々は楽しくもある。