見出し画像

僕は僕のものになった

 福山雅治の『IT’S ONLY LOVE』を18歳の頃よく聞いた。バイト先の古本屋の有線で毎日のように流れていたからだ。ちなみに当時はその『IT’S ONLY LOVE』とNOKKOの『人魚』とスチャダラパーの『今夜はブギーバック』がよく流れていた。だからこれらの曲を聞くとあの古本屋のステンレス製の棚や、無骨なレジスターがガチャンと開く音や、パウチ機がビニールを焼くツンとした匂いなどを思い出す。

 『IT’S ONLY LOVE』の歌い出しが嫌いだった。「恋人にはもどらない/僕は僕のものになって/好きな夢を見てる」なんて自分勝手な奴なんだ、と思った。当時はクリスチャンになったばかりで、「好き勝手に生きるなんてダメじゃん」と信仰っぽく考えたのだ。どういう事情でそういう事態(恋人にはもどらない)になったかなんて、考えもせずに。

 教会で頑張っていた頃は「自分の人生は神様のもの」だと思っていた。人生の主導権を神様に明け渡し、自分の願望でなく、神様の願われることに邁進するのが最高の生き方なのだ、と(福音派でよく聞くフレーズだ)。だから『IT’S ONLY LOVE』の「僕」の選択や態度が許せなかった。我ながら極めて保守的な考え方をしていた。

 しかし私の教会での約20年間は、充実感と苦悩が交錯するものだった。終盤は特に苦悩ばかりだった。奉仕に明け暮れ、たえず牧師の顔色をうかがい、自分自身の生活ができず、そのくせ生活上の金策に追われる日々。それは保守派に言わせれば「イエス様が受けられた十字架の苦難を思えば何のことはない」のかもしれない。むしろ必要な「信仰の訓練」でさえあるのだと。しかし同じ立場にあった男性信徒がある夜ポツリと、「なんでこんなに苦しまなければならないのだろう……」と呟くのがたまたま聞こえた。その瞬間「これは何かおかしいのではないか」と気づいた。苦しんでいるのが自分だけではないと知ったからだ。かといって具体的な行動に移すことはできなかったけれど。

 奇しくもそれからまもなくして、教会が立ち行かなくなった(その経緯は別に書きたい)。教会を離れることになり、約20年を経て「普通の人」に戻った私は、心底安心していた。やっと終わった、自由になった、あれは信仰を騙った搾取だった、と気づいた。そんなある日、『IT’S ONLY LOVE』の歌い出しが胸に迫った。

 恋人にはもどらない/僕は僕のものになって/好きな夢を見てる

 教会にはもどらない、と言い換えると当時の私の心境にぴったりだ。僕は僕のものになった。好きな夢を見られるようになった。聖書の言う「御霊が与える自由」が何なのかよく分からないけれど、私はその時心底「自由」だった。奴隷が解放された気分、と言っても言い過ぎではない。まさに奴隷状態だったのだから。

 宗教は人を救いもするけれど、縛り付けもする。時には人を殺すほどの暴力を発揮することがある。「私は神様のもの」という献身的な思いががいつのまにか「私は牧師のもの」になっていることがある。そしていくら「私は神様のもの」と思っても、結局のところ「私は私のもの」から遠く離れることはできない。だから「僕は僕のもの」でいいのだと思う。

 『IT’S ONLY LOVE』のメロディを思い出すたびに、そんなことを思う。

いいなと思ったら応援しよう!