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2024年パリ五輪の開会式に向けられたキリスト教保守派の「敵意」の正体

 2024年パリ五輪の開会式でマリー・アントワネットの生首が歌い、血しぶきが飛び散り、ヘヴィ・メタルバンドがシャウトし、ドラァグたちが舞い踊り、金の雄牛が掲げられた。強いインパクトを残したのは間違いない。テーマは「自由」とのこと。

 それに対して「悪魔崇拝だ」「偶像崇拝だ」とキリスト教保守派が声を上げている。「ドラァグたちが気持ち悪い」という分かりやすい差別発言もあった(「これは信仰の表明であって差別でない」と彼らは平然と言うだろう)。

 「生首」や「血しぶき」や「ヘヴィ・メタル」などの表象をあげつらって「悪魔崇拝だ」と保守派が主張するのは、もちろん今回が初めてではない。彼らにかかれば例えばファンタジー作品は総じて「忌むべき魔術」を扱う「悪魔的創造物」であり、禁書や焚書の対象だ(現に様々な作品が彼らによって一方的に禁書に指定されたり、焚書されたりしてきた)。だからむしろ、今回の件で保守派が声を上げない方が考えられない。

 しかし表象が「悪魔的」だから「悪魔崇拝/偶像崇拝」だ、とするのは短絡的に過ぎる。「悪魔」や「魔術」を扱うのがアウトなら聖書だってアウトだろう。彼らが大好きな『ナルニア国物語』も「魔法」で溢れているではないか。聖書や『ナルニア国物語』については「表象でなく物語に込められたメッセージを読み解くべきだ」などと深淵なことを語りながら、その他の作品やイベントについては表象のみで安易に語る、そのダブルスタンダードに気付いてほしい。

 ハロウィンのイベントで子どもたちが「ドクロ」や「魔女」の仮装をするのも、保守派は「悪魔崇拝」だと言う。とにかく表象が全てなのだ。では彼らは聖書に書かれている「人はうわべを見るが神は心を見る」をどう考えるのだろう。無視していると言わざるを得ない。その選択的価値判断はずいぶん都合がいいように見える。

 それに今回のように何かの表象を「悪魔崇拝」だと断じたところで、結局のところ何にもならない。保守派が「悪魔」に「勝つ」わけではなない。「悪魔崇拝者」が「勝つ」わけでもない。そもそも「悪魔」や「悪魔崇拝者」が関与しているとも言えない。

 私もかつて保守派に属していたから分かるけれど、実のところ「悪魔」そのものが都合のいい仮想敵でしかない。そうやって内と外、味方と敵を分かりやすく区別して、自分たちの一致や統制や正当性を保っているのだ。前述したファンタジーの書籍を燃やすのも同じ目的による。彼らには常に、分かりやすい敵が必要なのだ。そして敵がいないと成り立たない、その信仰や主義主張は実のところ未熟なのだ。

 ドラァグに向けられる「気持ち悪い」という差別感情も、その未熟さや無知に大きく由来している。マイノリティを敵に見立てて排除しようとするのはイジメの心理そのものだ。キリスト教保守派が大好きな聖書には、マイノリティに心を寄せるイエス・キリストが描写されている。だから保守派が本当に排除しようとしているのは、「悪魔」やマイノリティである以前に、そんなイエス・キリスト本人なのだ。

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