「神の導き」を求める前に読んでほしい話
※「神の導き」を真剣に求めるクリスチャンの皆さんに向けて書きました。
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人生の重大な局面になると(あるいは重大でなくても)、「神の導き」を求めたくなるクリスチャンの方がいると思います。
神様が自分にどこへ行けと言っているのか。
自分に何をしろと言っているのか。
自分に何者になれと言っているのか……。
これは「神様は自分を具体的に導いて下さる」という考え方(信仰?)に基づいています。アブラハムがどこそこへ導かれたとか、パウロ がどっちへ行くのを禁じられたとか、そういう「具体的な導き」らしく見えるものが、聖書に記されているのが根拠でしょう。
が、実際には「(大きな声では言えないけれど)神の導きがよく分からない……」と悩んでいる方が多いのではないでしょうか。
(※ここでわたしが言う「神の具体的な導き」とは、「お、今日はカフェの良い席が空いてるじゃん。これはゆっくり読書しなさいってことだな!」みたいな日和見なものでなく、ガチのガチのガチで、「今日はAさんにこれこれの話をしなさい」みたいにリアルにかつ詳細にガイドされるような超自然的現象を意味します。)
・「神の導き」を知る方法?
このことで悩んでいる皆さんが教会等で聞いてきた「神の導きを知る方法」は、だいたいこんな感じではないでしょうか。
「聖書のある箇所が強く示されたら、それは導きのサインだ」
「心に○○の思いが強く与えられたら、それは導きのサインだ」
「あり得ない状況で○○への道が開かれたら、それは導きのサインだ」
「○○のことを考えて平安がきたら、それは導きのサインだ」
「誰かの話が強く印象に残ったら、それは導きのサインだ」
などなど。
とても主観的なものです。
何となくそんな感じがする……、でも違うかもしれない……、などと悩んでこられたのではないでしょうか。自分の内面と長い時間、向き合ってこれらたのではないでしょうか。
しかし主観とは脆いものです。気分次第なところがあります。元気な時なら「うん、これだ!」と安心できますが、そうでない時は不安に震えます。皆さんはそれを「信仰の試練」とか、「越えるべき苦しみ」とかと思って(そう教えられて)取り組んでこられたのではないでしょうか。
けれど主観に頼ることは、言ってみれば、朝のニュース番組の占いコーナーを信じるのと同じようなことです。「そう信じたい」とか「そうであってほしい」とかの気分を優先することですから。
こう書くと「キリスト教を占いと同列に並べるな」と怒られるかもしれません。が、ただ自分が「強く感じた」だけのことをそのまま「神の導きだ」と断じてしまう危うさ、主観に頼る危うさこそ、キリスト教と同列に並べてはいけないとわたしは思います。
・そもそもの話……
「神の導き」を語る上で一番問題となるのが「神の導きをどうやって知るのか」です。
しかしその方法は、前述の主観頼み(教会はそれを「信仰」とか「鍛錬」とか言うかもしれませんが)しかありません。神の肉声で「○○をしなさい」と聞こえれば分かりやすいかもしれませんが、そういうことは起こりません(起こった、と言う人もいますが、神がその方法を必要とするなら、何故全てのクリスチャンに日常的に直接語りかけないのでしょうか?)。
実は、「神がこう導いている」と確認したり証明したりする方法はありません。神の存在を証明できないのと同じことです。
これは強いて言えば、主観の問題(自分が信じるか、信じないか)でしかありません。
身も蓋もない言い方になってしまいますが……!
(↑と、寅さんに言われてしまいそうです……。)
・境界線の曖昧さ
もう一つの問題は「神の導きはどこまで細かいのか」です。
パウロの宣教旅行を例に考えてみましょう。
パウロは3回の宣教旅行と3回のエルサレム訪問をしていますが、順調な時ばかりではありませんでした。街から追い出されたり、命からがら逃げ出したり、バルナバと訣別したりと、散々な目にも合いました(最後のエルサレム訪問は文字通り命取りとなりました)。
その全てが「神の導き」だったのでしょうか。
むしろ彼の情熱や人間らしさの結果だと思うのですが。
唯一、「神の導き」を感じさせるのは使徒行伝16章6節です。
「アジヤで御言を語ることを聖霊に禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方をとおって行った。」(口語訳・太字は筆者)
何かしらの事情でアジヤへ行けなくなったのを、「これもお導きか」と日和見的に考えただけのような気もしますが、いずれにせよ「神の導き」的なのはここだけです。他に「導かれた」に類する表現は見当たりません。
もしかしたら宣教旅行そのものは、何らかの「神の導き」だったかもしれません。しかしその行程の細かいところや期間などは、パウロに委ねられていたのではないでしょうか。もし全部が「神の導き」だとしたら、彼は操り人形みたいなもので、べつにパウロでなくても良かったのでは? というそもそも論が起こります。
(↑鬼の糸で操り人形のように操られてしまう鬼殺隊員。「鬼滅の刃」面白いですよ!)
その「細かさ」が、各人でまちまちなのも問題です。
Aさん「自分は毎日毎日、神様の導きを求めて生きています」
Bさん「今週はここへ行くよう導かれました」
Cさん「今年、神様は自分をこう導かれました」
Aさんからしたら、Cさんはずいぶん大雑把ではないでしょうか。もうちょっと細かくちまちまと神様に「聞く」必要があるのではないでしょうか。
というような不統一感があるのは、何故でしょう。
神様が気まぐれだからでしょうか。
それとも、人間の側があれこれ勝手に判断しているからでしょうか……?
・クリスチャンとしての自立
「神の具体的な導きを求めること」より尊いとわたしが思うのは、「クリスチャンとして自立すること」です。
「神様に導かれたい」というのは一見敬虔そうですが、実のところ「一番良い選択がしたい」とか、「選択に失敗したくない」とか、「成功したい」とか、そういう自己実現的な願望と表裏一体です。
失敗したくないから、自分で判断できないのです。
自信がなかったり分からなかったりするから、「神頼み」にしたいのです。
かつて、わたし自身もそうでした。
しかしわたしたちは「神の導きは何だろう……?」といつまでも右往左往するのでなく、自立すべきだと思います。
神様が「親」であり、わたしたちが「子」であるなら尚更です。
子の人生を決めるのは子自身であって、親ではありません。もちろん子は親からいろいろ教わる必要がありますが、それは自立するためです。子がいつまでも親に頼りっきりで自立できないとしたら、それは教育の失敗です。
イエスは「あなたの信仰の通りになるように」と言いました。どういう信仰を持つかはあなた次第だ、という意味です。
わたしたちは自分で考え、自分で判断しなければならないのです。その責任を放り出して、「神様、どうしたらいいですか?」とすがりつくなら、神様はこんなふうに返すのではないかな、とわたしは思います。
「……で、あなたはどうしたいの?」
(↑どうしたらいいか分からなかったナランチャが、自分で決断した瞬間。)
というわけで、「神の導きが分からない……」と悩むのはもうやめたらいかがでしょうか。
その悩む時間を省いて、動き出したらいかがでしょうか。
わたしはそう思う次第です。