【9章 私たちの体は借り物】
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自然の摂理 ”イーシュヴァラ”によって貸し出されたもの=借り物
100年位使ってOK
好きにやっていい、経験を積んでいいよと貸し出されたもの
悲しみ、痛みは、この肉体があってビビットに感じられるものだから、
様々な色んなことを経験し、行いを放っていい。
その体に、食べたものを捧げることも、世界に対して私たちが行いを放つことも、
どんなことであれ、大いなる摂理に捧げる気持ちでやってくださいと、ギーターは言います。
たとえ、どんな神や法則を信じていたとしても
その大いなる力と自分は常につなりがあること
すると、私たちに常に寄り添い見守ってくれている存在に気づくことができる。
その自分と世界が一体なんだ!と気づいたときに、心から自然と不安と恐れがなくなりますよ。と言います。
不安や恐れがあると、常に心は落ち着かないし、忙しい
何かを守ろうとして、自分が決めつけている、とるに足らない自分をなんとかして、
色んなものを身に着けたり、買ったりオプションをそろえたりしているわけですが、
そんなことをする必要がなくなる ⇒ 心が落ち着きます
それは初めは、小さな神々や小さな自然を運行させる法則を信じていたとしても、やることすべてを摂理に捧げるように・・・
ということがギーターの9章で言われています。
祈りは最終的に同じ摂理につながる。どんな対象でもよい
どんな対象に祈りを向けていたとしても、結局は、自然の摂理イーシュヴァラにつながりますよーということです。
イシュ=すべてを統率する
ヴァラ=力を持つ存在
イーシュヴァラ自然の摂理につながっていくので、どんな対象でもよい、ので心をつなげていく態度が大事です。
そういう場が、自分はないなぁ・・・と思うかもしれませんが、そういう時は、色んなものを使ってまずは養っていく。
だからインドには、いくつもお寺があるし、小さなころからそこにつれていかれて、物心つかない時から、手を合わせ自分を見守っている存在があるということを、学ぶ。
社会や大人、みんなから学び、いつの間にか、自分は摂理からイーシュヴァラから離れていないんだ!!ということを理解している。
(※だから、どこか強さがある。インド人のそこは敬服するところで、学び方もお寺も、それら含めて、国全体がバクティという大いなるものを理解する装置になっているような感じがあります。)
日本人も同じように恵まれえていて、祈りを捧げる場所がありますね。
神社やお寺も、、、
自分は生かされているといた謙虚な気持ちを感か、させてくれます。
同時に大いなる力に見守られ、その大いなる力が常に自分と寄り添い、自分を導いてくれるということを思わせてくれる、神社、お寺、空間、、、山、霊山もありますね。
日本にもいくつも深いつ上がりを養う場所がある。ことあるごとにつながっていく姿勢、それをバクティという。
この気持ちを養っていくことが大事ですよー。といいます。
今日一日も皆様にとって素敵な一日になりますように
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