見出し画像

【9章 捧げものは、どんな物でもいい?!】

この記事は「耳で聞くやさしいYOGA哲学フミママラジオ」の原稿になります。本編が気になる方は、下記のラジオをご視聴くださいませ。
Spotify≫≫≫ラジオ  Applepotcast≫≫≫ラジオ【平日毎日更新!!】

敬う心を持つ人の捧げものは、どんなものでもOK

たとえ一枚の葉っぱでも、一輪の花でも果物、水・・・

そこに心が乗っていれば、金銀財宝ではなくてもいい。

心が大事。

敬う心を持つ人の捧げものは、どんな粗末な物でも取るに足らない物でも、あなたのこころから捧げ垂れたものを摂理は
ちゃんと、受け止めますよ。言葉であろうと、祈りであろうと、、、小さなものであろうと。

そういう人から、世界に差し出される捧げものの数々は、すべて摂理に届いていると言います。

お祈りというヒンドゥーの形式にとらわれる必要はない。

これとこれを捧げなければ!!というルールはない。

こんなものを捧げていいのかな・・・捧げものは、小さなものでもいい。気持ちが大事。


お祈りという話がでましたが、普通の人は、淡々と日常の”行い”を捧げている。何気ないことのようですが、カルマヨーガという心を磨く行い。

食事を作ったり、一緒に分かち合ったり、部屋をきれいに片付けるという、動作の連続ですが、どういう気持ちで世界に放っていくか?それが大事。

自然の摂理に対して、真摯な態度が向けられている。それを理解しようとする態度があれば、捧げものは間違いなく自然の摂理に届きますよ。


祈りに対する結果は返されます


アルジュナの生まれ変わり『カンナッパのお話』


南インドに、カンナッパという猟師として生まれ変わったアルジュナ。

実はアルジュナ、クリシュナに教えを受けたが、よし!戦うぞ!!となったけど、いまいち迷いがあって悟りきれず、
そのあと、ヒマラヤの山で肉体を手放す。その後、カンナッパとして生まれ変わり。悟る。

アルジュナは、王子でしたが、

カンナッパは、何も持たない狩人。礼儀作法もしらない男として生まれ変わった。


川の水を飲み、野を走る動物を狩り生きていた。

あるとき、シバリンガムという祈りの石が置いてあった。

そのシバリンガム、目もあって、石が置いてある。

カンナッパは、これは、祈りを向ける対象だ!!と思い、水をかけて洗ったり、まるでお墓を洗うように、洗っていてた。


水を運ぶものはないので、口に水を含み、シバリンガムに吹きかけるwww なんとも、ワイルドな方法で。。。

カンナッパはすごく、誠実で、自分は何ももっていないが、シバリンガムを洗いたい!!捧げたい!!そう思う一心で、このやり方になってしまったわけです。

普通、儀式では捧げない、狩をした獣の肉をシバリンガムに捧げたりと。彼なりの方法で心を向けいた。

あるとき、シバリンガムの目から血が流れているのに気づき、これは!とおもって、血をふき取って、自らの目をとり、シバリンガムにあげた。

気付けば、もう一つの目からも血が流れていて、、、こっちもふさがないと!!もう一方の目も入れた。

両目をくりぬくと、シバリンガムの目の位置がわからないから、足で、片目の位置を押さえて、そこまでして、シバリンガムにあげた。

その光景を影でみていたシヴァが、ももいい、お前の気持ちは十分に分かった。受け止めた。といって、両目を返してあげた。というお話があり、
それによって、カンナッパに生まれ変わったアルジュナがここで悟った。

やっていることは、一見野蛮で、敬う心で祈っている人、、、のようには見えない。シバリンガムは血みどろだし。。。

でもこの人の気持ちはまっすぐ。

もう一方の目をくり抜こうとしたとき、もういい。
お前の気持ちは分かった。つねにお前を見守るよ。

敬う気持ちが伝わった。

アルジュナの場合は、クリシュナから悟りの知恵を聞いていた。

カンナッパの時は、シヴァの化身のシバリンガムを通じて、バクティの気持ち(誠実な態度をもって敬う気持ち)を磨き上げて、最後悟ることができた。

やっていることより、誠実な態度が大事なんだということを語っている。


今日一日も皆様にとって素敵な一日になりますように

この記事は「耳で聞くやさしいYOGA哲学フミママラジオ」の原稿になります。本編が気になる方は、下記のラジオをご視聴くださいませ。
Spotify≫≫≫ラジオ  Applepotcast≫≫≫ラジオ【平日毎日更新!!】


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?