私は私にしか幸せにできない。 当たり前な様でずっと気が付かなかった。 何かあれば、最悪誰かが助けてくれる。 そこで私が思い描く私がイメージする"誰か"は、 この世に存在しない。 でも、それが存在すると思っていると、 その時手を伸ばそうとしてくれた他人が、 私が思う"誰か"と相違が生じる部分に違和感を覚える。 そしてまた存在しない"誰か"に思いを馳せて "誰か"助けて欲しいと待ち続ける。 存在しない、私の中だけの理想の"誰か"を待ち続ける。 見つかることのない"
仕事で課される山のようなタスク それらに圧倒されないためには、 優先順位を立てて、 何を今利き手に持つかを考える。 そして、それによって発生するリスクを 反対側の手でカバーしながら前へ進む。 これらを上手くこなすことで目の前の山に圧倒されて足をすくませず、 最短距離で効率的に進むことができることを学んだ。 それを一生懸命仕事の時間内にこなしていくうちに、 私はそれをプライベートにも当てはめて活用するようになった。 そして、気がついてしまった。 私の人生単
白黒つかない グレーで在ることが ひとで在るということで、 それは間違いでもなんでもない。 ひとで在るが故の在り来たりで、 紛れもなく儚く美しいものなのだ。 それなのに私たちは、 自分も他人も、 寄ってたかって無理矢理 白か黒に塗りつぶそうとして、 グレーで在ることに苦しんで、 一体何をしているのだろうか。 時折、 宝箱にしまっておきたいような 映像作品に出逢うことがある。 最近でいうと、世間で注目されたあのドラマだ。 あの監督が創る作品が美しくて仕方
自分で自分を 大切にすることが難しくなったら 大切なひとたちの顔を思い浮かべる。 そのひとたちが今の私を見たら 本気で私が幸せになる道を探してくれる。 きっと私以上に私のことを考えてくれる。 私以上に悩んでくれるって、わかる。 そうやって 大切なひとたちの顔を思い浮かべたら、 今私を苦しめてるものなんかに、 負けてたまるかって。 今私を苦しめてるものなんかで、 大切なひとたちを悩ませてたまるかふざけんな! って。 そう思ったら、 自分で自分を大切に
過去とか未来って存在しなくて。 私が在ることができるのは今しかなくて。 だから "今までありがとう" って言葉を交わした瞬間 その日常とそこから生まれる関係性には もう戻ることはできなくて もうその時間に戻る事はできない。 極端なことを言えば、 今この文章を綴り始めた数分前の私は この文字を打った数秒前の私は もう存在しない。 目の前にある この瞬間の連続が "今"をかたち取っていて 過去に在ることはできない。 つまり、過去も未来も存在することがで
ひとの誠意によく気づき 感謝できる人でありたい。 全ての行動には意図があり、 その源には誠意がある。 例えば、昼食のおにぎりを買って、 PayPay払いなのがすぐわかるように、 おにぎりと一緒に会計受けに支払い画面を置くのも、 なんなら一緒に買ったお茶のバーコードの向きを相手側に見せて置くのも、 なんでもない日常の動作・言動・行動全てに意図という名の誠意があり、自分なりの美学がある。 そして、美学なんて言葉では仰々しくも、 全てのひとの行動の源には、 自分でも気
「しあわせって何? ひとりじゃ幸せに、なれない? 誰かと一緒にいるのが幸せ? でも誰かと一緒にいても幸せになれなかった し、、どうなるのが、しあわせ、なのかな?」 「私は私のままでいい。 そう思えるってことじゃない?」 本日最終回を迎えたドラマの一節だ。 先週の最終回前見逃して、 悔しくて最終回見るか迷ったけど 見てよかった。 最近私が愛してやまないsuper beaverさんの "幸せのために生きているだけさ" を聴きながら思う。 私は私のままでいい
涙するという行為は作業だ。 例えば 学生の頃は ぼけーっと今日給食なんだっけとか考えてたら 誰かが急に顔を隠して クラスを飛び出して行って、 全員がぎょっとした雰囲気になったところで 2、3人がその子を追いかけて行って そしたらなんか違うところで泣きだす人がいて え、何があったの?ってはじまる。 みたいな 笑 泣くということはそれはもう大事件だった。 笑笑。 それが今はどうだろうか。 小学生の頃膝によくあった あのぐちょぐちょの傷に絆創膏をして
あなたに好かれる私になりたい。 あなたに期待される私になりたい。 あなたの好きな私は あなたの数だけ私が在って あなたに期待される私は あなたの好みの私だ。 完璧で正解なひとなんて存在しない 当たり前だ 先天的遺伝子も後天的経験も感じ方も違う ひとの数だけそのひとの正解がある。 あなたの中に私の正解はない だから 真似しなくていい。 期待されなくていい。 あなたのために生きなくていい。 期待って、なんて傲慢な言葉なんだろう。 1分でも、1秒でも
今年のもくひょう せかいに目を向けると たくさんの感情がぼろんぼろん落ちていて くるしい、かなしい、を抱えるより たのしい、うれしい、を掬いだすほうが難しい。 そんなせかいであることにもうきがついた。 くるしい、かなしい、に溢れるほうが 安易にできるせかいだけど わたしの周りにはわたしの幸せを願ってくれるひとがたくさんいて そこらじゅうにぼろんぼろん落ちている くるしい、かなしい、は 自らのしかばねをこえて だれかの幸せを願って落ちてる 4年間高いお金を払
みんな一緒 ひとりじゃない 助け合おう ひとつのはこにいれて おなじことをして さも誰もが同じであることがふつうであると、 ふつうであることが正しいと植え付けられる。 わたしだけなのかな、 わたしがおかしいのか 言い訳かもしれないけど、 でも、 でもさ、 言うことをきけっていうからさ、 ふつうがふつうだって、するからさ、 そうしないとさ、 ね、 おこるでしょ、 わたしのために、おこるんでしょ わたしのせいで嫌な気持ちにさせるのはさ、 こわいんだよ
どんどん大人になって 見えなかったものがたくさん見えてきて 道徳の教科書には載っていないような プリキュアの世界には描かれないような 白黒つけられない、いや、そもそも白でも黒でも、グレーでもない世界に圧倒される。 善悪、正誤で物事をはかる教育に吐き気をもよおす。 一般なんて概念生み出したのは誰だ。 そんなものがなければ、生まれない苦しみが、絶望が、この世界にはきっとたくさんある。 見たくないものを見ないように生きる事だってできる。 でも、そうやって目を伏せて、善
追い飯。 ならぬ 追い幸。 人をすきだと感じる感覚が好きだ。 久々に会えた友人。 なんだかんだ忙しない日々との おしくらまんじゅうに夢中で 正直、大抵の日常の中で、 友人について思いを馳せる時間は 然程確保し難い。 だから、久々に会うと、 あぁすきだなぁ。 と毎度思い出すように、改めて、しみじみ思う。 価値観がすきだ。 考え方がすきだ。 一緒にいるときの そこでしか生まれない空気感がすきだ。 他への思いやりの程度が近くてすきだ。 自分にはない魅力が輝い
いつも頭の中がうるさい。 起床後、出かける準備中 電車の中 就寝前 とにかくひとりになる時間 頭の中がうるさい。 つぎはあれをやらなきゃ、これをやらなきゃ とか、 あのときこう言えばよかったな とか、 あの目標、あの計画全然できてないな どうしよう、 隙さえあれば、隙のないスケジュール帳を開いて 今後1週間ほどシュミレーションを頭の中で繰り返す。 やりたくてやっている訳ではない。 ぼーーっとすることができないのだ。 だから、ひとりでいる時間が長い
幸せが続くわけなかった。 根っからのネガティブとビビりだ。 いつからだろうか。 幸せなことがあると不安になった。 不幸がくるぞくるぞと常に警戒した。 幸せより不幸の数を数えた。 中学の下校中、 真冬の夜の公園を歩きながら "寒い" そう思ったけれど、 "あ、でも心の寒さより全然ましじゃん" そう思ったらなんだか温かく感じたのを 鮮明に覚えている。 夜はよく泣いた。 呼吸が詰まって苦しくて目覚めるような 怖い夢ばかりみた。 いっそのことぜんぶおわらせ
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。 先人や他人の失敗や成功から生きる術を学ぶ。 だから私たちは歴史を学ぶ。ニュースを見る。 法が立ち、変化していく。 それがあるから私たちは今こうして生活が成り立っている。 "2度と同じ思いをする人を生まないために " 世の中は他人に優しい。 その優しさと悔しさと痛みが痛いほど流れ込んでくる。 あやまちが生まれた点から周囲に広がる悲しみ苦しみが、かたちは違えど私の中で燻る。 悲しい。辛い。悔しい。 スマホを開くたび、無秩序に