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昔話から紐解く、日本の差別 第三回、~猿蟹合戦の2:【牛の糞】【栗】【蜂】の人物像~

 【臼】に続いて、【牛の糞】【栗】【蜂】の人物像を読み解いていく。

 偶々、読んでいた本の知識が生きた。自分の考察よりも、先行研究に依る部分が多い。
 大学の教養科目で履修されてきた方、または大塚英二・森美夏の民俗学三部作漫画を読み親しんできた方なら、『ああ、あれか』と思う部分もあるだろう。
 より知識を深めたい方は是非、参考文献を御覧いただきたい。


力無き呪的能力者へのバッシングが差別の始まり?:呪的能力者(芸能者)差別

 さて、序論で触れた持衰の説明から、【牛の糞】の読み解きを始める。

〈その行来・渡海、中国に詣るには、恒に一人をして頭をくしけずらず、蟣蝨きしつを去らず、衣服は垢汚こうお、肉を食わず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。之を名づけて持衰じさいと為す。若し行く者吉善なれば、共に其の生口・財物を顧し、若し疾病に有り、暴害に遭えば、便ち之を殺さんと欲す。其の持衰謹まずと謂えばなり〉『魏志倭人伝』

 頭はザンバラ髪、体にノミ・シラミを飼い、身に着けた衣服は垢塗れ……、彼を記号【牛の糞】とするのは、決して無理な話ではないだろう。
 筒井は日本の差別の起源をこの呪的能力者差別に求めた。

 イチは人々の願いを神に伝えることを職掌としていた。それに成功すれば大きな畏敬の対象になり、失敗したら責めを負わねばならなかった。責めは、しばしば死に直結した。これがイチの運命であった。
『賤民と差別の起源 イチからエタへ』 筒井功

 中世の乞食法師イタカ、呪的能力者イタコ・イチコ=イチが、あの『エタ』の語源ではないかという。

 前回触れた『二十八座の下がり職』の中で、呪的能力者・下級宗教者は実に多い。
 そのものずばりは『陰陽師』『辻盲』『鉢叩』『鉦打』くらいだが、『舞々』『猿楽(現在の能)』『猿引(猿まわし)』『放下(中世の芸能者、大道芸人のようなもの)』『獅子舞』『傀儡師(人形まわし)』といった芸能者の多くが呪術者、シャーマンも兼ねていたという。源義経の愛妾・静御前の就いていた「白拍子しらびょうし」も、呪術者の職掌を持つ芸能者であり、その起源は穢多=河原者ではないかと言われる。
 また、『弦指つるさし』『箕作みつくり』などといった複数の被差別職能民も、呪術者の一面を持っていたことがあり、呪術者の線引きは難しい。

 呪術者というと胡散臭い感じがするが、その職掌の中には医者も含まれていた。実際、医者の起源は被差別職能民であったと言われる。
 筒井は、猿まわし差別の由来を探り、猿まわしが馬の健康を祈る呪的能力者=医者の職掌を担っていたことを指摘している。(『猿まわし 被差別の民俗学』)

 昔話同様、社会のはみ出し者が登場人物となる落語で、医者がよく出てくるのも頷ける話だ。
 落語『地獄八景』、昔話でいう『地獄巡り』の3人は全て【白姓】の定義に合致する職掌である。
 「医者」はここまでの指摘通り、「山伏」は漂泊の下級宗教者であるし、「鍛冶屋」も被差別職能民であった(後述)。

 欧州に目を向けると、中世の魔女も医者としての職掌を持っていた。
 正確に言うと、各地で独自の民間療法を行っていた者の多くが魔女認定され、魔女狩りの標的にされたという。
 そのため、魔女狩りがもたらした損失に、民間療法の喪失がしばしば並べられる。

 日本の魔女、「山姥やまんば」も呪的能力者として人々の信仰を集めた。
 『オンバサマ』と呼ばれる山姥信仰が東北で知られ、また、金太郎こと坂田金時の母は、足柄山の山姥であったとされている。
 岩手には、山姥信仰の民話『ちっちの木』が伝わる。


外れる占い・予測が許せない:連綿と続く呪的能力者差別

 古くより、人々は心の拠り所として呪的能力者を求めた。
 そして科学技術・知識が広く共有されている今なお、呪い・オカルトは廃れる様子はない。

 一方、その裏返しである差別が無くなったかというと、それもまた色濃く残っている。
 現代日本を見渡してみれば、予想を外したアナリストや気象予報士を嘲笑ったり、貶したりする風潮が蔓延している。
 要は、期待してた分、裏切られたのが我慢ならない、許せないのだろう。

 考えてみれば、蟹の発言ではあるものの「早く芽を出せ柿の種。出さぬとハサミでちょんぎるぞ」と、猿蟹合戦には異能者への期待そして力無き者へのバッシング思想が盛り込まれている。
 これは呪的能力者である【白姓】の、過酷な運命を暗示していたのかもしれない。


【栗】は囲炉裏に潜み、猿を目掛けて爆ぜた:異能者差別

 猿蟹合戦は非生物が擬人化したキャラクターが多く、その点からツッコミを受けること多い。臼・牛の糞は勿論、グレーゾーンにある栗もその槍玉に挙げられる。
 しかし、民俗学や文化人類学に照らし合わせると、記号【栗】の論理的回答はあっさり出てくる。異能を持つ者だ。

 大きな火を扱う人間は、普通の人間ではないと意識されていました。例えば陶器を焼く、或いは鋳物をつくる、あるいはレンガをつくるといった、野外で大きな火を扱う仕事というものは、大宇宙と小宇宙の狭間で働く人間の仕事として畏怖の眼差しでみられていました。浴場主とか煙突掃除人の場合も、ほとんど同様であります。
『中世賤民の宇宙―ヨーロッパ原点への旅』 阿部謹也

 『火を扱う』からという理由で差別を受けるのは、現代の価値観ではとても理解し難い。それも、身近な労働者や生活に欠かせない日用品の生産者であることを考えると、更に信じ難い話だ。
 しかし、人並み外れた能力故に蔑視の対象になるという話は、世界中どこでもあるという。

 日本もその例外でなく、同様の差別があった。
 『二十八座の下がり職』の中から、火を扱う職能民に注目すると、『鋳物師いもじ』『土器師はじし』『土鍋』『青屋坪立(筒井によると、紺染めと壺立てに分けられる)』がそれに当たるだろう。
 『鋳物師』は鍛冶・製鉄系の職能民で、『土器師』『土鍋』『坪立』は食器や調理器具となる土器製作の職能民だ。

 縄文式土器・弥生式土器が貴重な遺物だと、歴史の授業で習わなかった人はいないだろう。一方、陶工の身分が低く見られていたこと、蔑視を受けていたことはあまり知られていない。
 桓武天皇の母、高野新笠。彼女の母は『土師真妹はじのまいも』、土器製作を掌る「土師氏」である。故にその「土師氏」は、好字令によって「大枝氏」に改姓したという。
 筒井は「土師氏」が火を扱う以外に、殉死者の代用品である埴輪製作等の葬送と関わっていたことを改姓の理由に挙げる。土器製作の異能は、呪的能力と見られた側面もあったという。

何故、栗はイガで攻撃しなかったか?:畸形差別

「『はじける』って、おい!何で、わざわざ命がけの危ない真似すんだよ。イガを使えよ、イガを!」

 まれに、猿蟹合戦の素朴なツッコミとして聞くことだ。それに対し、民俗学的回答が一つある。異形だ。

 種村季弘は著書『畸形の神―あるいは魔術的跛者』にて、火を扱う異能者のパーソナリティーについて、一つの視点を挙げている。
 足の不自由で、醜男であること……、ある種の身体障碍は、その魔術的異能と切り離せない属性だという。
 跛者であるのは、ギフトを持つ者の印だというのだ。
 その象徴が鍛冶の神『ヘパイストス』だという。

 振り返って日本の昔話を鑑みると、『火男ヒョットコの話』がある。異相で臍ばかり弄っている彼は、異能を持つ竈神かまどがみにして福神だという。
 唯一、気になる点を挙げるならば、竈は米を炊く所であるので百姓の属性が強いこと。また、竈男は種蒔き男でもあるという、これも農業従事者的属性だ。
 では、【白姓】とかけ離れた属性かというと、そうでもない。この話の肝に、『ヒョットコのお面を作る(それも粘土で)』というところがある。異相の【白姓】のお面を祀ることで魔術的異能を授かり、種蒔きや竈炊きが上手くゆくように祈る……、百姓と【白姓】の交流の話ではないか。

参考:青空文庫 佐々木喜善『東奥異聞』……ひょっとこの話

 もう一つ、忘れてはならない有名なアニメーションがある。宮崎駿の『もののけ姫』だ。
 古き inclusive な共同体を想って、劇中にハンセン氏病者を登場させているが、彼らの働く場所がタタラ場・鍛冶場なことは実に含蓄がある。
(惜しむらくは、現実離れした快癒場面を劇中に入れてしまったこと)

 【イガ】は、差別・迫害の理由にされた身体的特徴の記号と読み解けるだろう。それ故に、【栗】は【イガ(身体)】ではなく【爆ぜる(異能)】を攻撃手段としているのではないか。


【働き蜂】のパラドクス:差別とセットで雇われてきた「むさきもの」

 【蜂】=防人・番人と読み解くのが、最もシンプルな答えだろう。
 ただ、その実態はシンプルとはとても言えない。そこには複雑な差別心理がある。
 明らかに差別的な待遇の例を挙げると、古代の戦奴制や、戦時下の懲罰的徴兵などがあるだろう。

 問題は隠れた差別=暴力執行差別の方だ。
 刑罰や治安維持部隊の強制執行などに肯定的で、法的必要性を訴える一方で、その遂行を担う者に向けられる軽蔑・蔑視の解消には消極的、無関心という事態がままある。(勿論、暴力への共感・同調はまさにファシズム、暴力への加担に他ならず、それは非常に危険な兆候である)

 つまり己の中の暴力性に向き合わないことが、蔑視を発生させるのだ。
 しかし、自分の深層で抱いている差別感情を認知するのは容易ではない。死刑・体罰肯定派の中には、懲罰暴力を振るうよう強いることが如何に差別的な発想に依ることか、考えていない事も多い。
 時々耳にする卑近な話を挙げると、いじめの実行役を特定の誰かに強いることで、二重の差別を行っている事例があるだろう。

 戦争において、時に兵士は差別を引き起こす主体となり得る。それは避け難い現実だ。(故に、軍法が必要とされる)
 だが、そもそも戦争とは自国民の命に序列をつけるという差別から始まっていたのではなかったか?
 権力中枢に近しい者が、自分をさも欠かせない人材だと宣ってする前線忌避……それは裏返すと、前線に立たされる者を指して替わりが利くと言う、紛れもない差別だろう。得てして、そういう人間が地獄の戦争へと事態を向かわせて行ったのではなかったか。
 そもそも不平等で、貧乏くじを引かせる者を決めているから、暴力の連鎖が避けられぬのではないか。
 差別の連鎖は戦争だけではない。先の持衰殺し、旧優生保護法、生産性発言etc、命に序列をつけることが多くの差別の端緒となっているのは言うまでもない。
 この議論もまた限が無いので、ここまでに止める。

 改めて、日本の【蜂】=防人・番人差別の歴史を辿る。

 江戸時代の上級武士である御家人も、その言葉と職掌を辿って行くと、古代の奴隷身分の賤民であった「家人」に行き着く。
『賤民と差別の起源』 筒井功

 古代の兵士に軽く触れておく。
 朝鮮半島の王朝からの技術提供・知識人派遣、その見返りに古代日本王朝が期待されたのは軍事支援だったという。(『海の向こうから見た倭国』 高田貫太)
 例えば、479年には「筑紫軍士五百人」が軍事支援に百済へと渡っている。

 時代を下り、『二十八座の下がり職』の中で、職掌を番人とするものは『非人』『山守』『関守』等だ。『傾城屋(遊郭)』もこのカテゴリーに含まれるかもしれない。

番非人・番太(ばんひにん・ばんた)
 番非人は非人番または番人ともいわれ、近世の村落において、村の治安を守り、警察機構の末端を担当した非人身分の番人で、番人小屋が提供され、番人給が支給されていた。いずれも村方持ちである。
『部落問題事典』

 警察機構の末端が被差別民と聞き、ピンと来ない人もいるだろう。しかし、日本に限らず昔から暴力執行者(刑吏等)に対する軽蔑は世界共通であった。
 篠田正浩が著書『路上の義経』にて、慈円の『愚管抄』にある「武者むさの世」到来を引き合いに「むさい」という言葉を使ったよう、【蜂】=「むさきもの」と読み換えると、その差別を想像し易いのではないかと思う。
 我々が刺す生き物である蜂を実害の有無に関わらず忌避するように、「むさきもの」もまた同様に忌避され、時にそれは排斥に近いものとなる。

 その「むさきもの」差別を絶妙に描いている作品として、黒澤明の『七人の侍』を挙げておく。


【猿】を誘き出した口実

 事の経緯は案外こういうことかもしれない。

 さて、憎き【猿】めをどうやって呼び出そうか。奴は、恨みを買う真似をしたと、承知でいるはず……
「【お猿さん】、【お猿さん】。我らが軍士の視察に来て頂けませんか?勇猛果敢、百戦錬磨と名高い【お猿さん】から是非、助言を頂きたいのです」
「……オッホン!仕方ない、チラッと練兵具合を見て進ぜよう。チラッとだけじゃぞ」
 こうして【猿】は、のこのこ【蟹】の所に視察に訪れた。
 ところが鍛冶工場では、【不幸にも、刀匠の手が誤って】熱い火花を顔に浴び、慌てて台所に駆け込んだところ【偶々、窓から演習の流れ矢が】入ってきて突き刺さる。とまあ、散々な目に遭った。
「ああ、なんと不幸なことでしょう!……あ、そうだ。丁度良く、【よく当たる呪い師】が近くに……」


中途まとめ:何故、昔話が【白姓】を語るのか。

1、百姓と【白姓】の交流抜きに、社会は成立しなかった。
 百姓の生活必需品の多くが、多様な被差別職能民の手によって作られた物であった。
 そんな社会の中、通婚禁止令破りは必然的に発生し、その悲喜劇を伝える異類婚姻譚は、昔から日本人の心を打ってきた。

2、昔話は、【白姓】差別に加担してしまった者の懺悔だった。
 不条理が存在するとき、疑問を抱く者は必ずいる。
『理不尽で到底納得できない、社会制度に組み込まれている差別があった。しかし、自分にはどうしようもできなくて……』
 その罪悪感が、物語を創る原動力になったのではないか。

3、移動暮らしの【白姓】が全国で昔話を拾い集め、広く伝搬した。
 似たような筋の昔話が全国に散らばっている。
 定住農民と違って腰が軽い人々、炭焼き等の木地師や、猿まわし等の芸能者がその拡散役を担ったのだろう。
 報酬を得るため都合が良い、百姓に喜ばれるものを収集したというのが大半だろうが、惻隠の情から語り広めようとした昔話も中にはあったろう。


 次回は物語の中心である【蟹】を考察し、猿蟹合戦の核心に迫りたい。


参考文献

筒井功の集大成、古くから存在していた呪的能力者差別について
『賤民と差別の起源 イチからエタへ』 筒井功

芸能者の起源の話、日本人の判官贔屓と『河原者(穢多)』
『路上の義経』 篠田正浩

身体障碍と異能について
『畸形の神-あるいは魔術的跛者-』 種村季弘


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