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作品と作者
制作物に作者があらかじめ付加される
制作物に私の日常も含めた未制作のものが付加されてしまうこと
「自分の作品」に対してだけの話だが、自分が意図しない雑味として「作品」に作者がみえるのが不快である。
受け手がどう受け取るのかは完全に自由なのだが、作者が意図しない部分まで作者の影が入ると、 レストランの料理を提供するときに事前に不純物が混ざってしまうようで、私が提供したかったものとは違う味になってしまう。
提供した後に、人がそれにマヨネーズを死ぬほどかけてたべるのは構わないが、提供の際に他のものを混ぜたくない。
ただ表現したいものを表現したい。
意図していないところの私の日常などはそこでは不純物である。
(もちろん意図した部分であれば自分も全て仕込み、煮込み、トッピングし、香らせていく。)
パフォーマンスにおいて
パフォーマンスにおいては、出来れば仮面や着ぐるみを「洗練し意図した形」として使いたいのは、日常の自己と全く関係のないものとして分離して見ていただきたいからである。なのでもしくは黒子でも良い。
パフォーマンスの際は肉体ごとそこにはあるのだが、その時のわたしはただの装置である。
自分の考えを表明するのは好きだし、日常の私を私は大変愛しているが、 作品にはノイズだと感じてしまう。 ずっと困ったな、と思っていること。
結論
まあ、圧倒的な作品力があれば作者の雑味など一瞬で消しとばせるので、 そこまで精進してするしかないな、とは思う。
例: 川端康成とか私生活でど変態で相当に生理的嫌悪感がすごいが、圧倒的な美しい文章でそんなことを忘却させるほど打ちのめしてくるので、そこまで実力を上げていきたい。
蛇足
ここしばらくの日本ではファンマーケティング、共感マーケティングが一般的で日常生活も含め作者をみせていくのが主流だったとは思うのだが、
「ブランディングした作者」を作ってみせていくのもなかなかに疲労がすごそうで、よほどやる気になるまでは(疲労しないブランディング方法があれば教えてください)
まあ違うやり方でやっていくのが快適そうではある。