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桜と怒りの季節/Cherry blossoms of wrath.

桜が咲くと静かな怒りがよぎる。せっかく世間はお花見気分なのに、なんだか穏やかじゃない話だ。まあだけど、自分の中ではなんとなくそうなってるから仕方ない。

あれは何年前の春だったんだろう。
桜の花びらと生ぬるい風が吹き抜ける夜。当時、僕たちが暮らしていたマンションの目の前の建物で火事があった。

炎というより、ものすごい色と量の黒煙が火元の窓を突き破ってこみあげ、辺りはいろんな意味で一気にダークに染まり、おびただしい数の緊急自動車が集結した。

最初は小さく、だけども切迫した人の声がトレモロのように響いていたのが次第に大きく複雑な物音になってマンションの上階まで届いてきて、さすがに僕らも気がついた。あ、これヤバいやつじゃないのか。

一応、最悪の事態も想定しつつ、とりあえず吸気口を遮断する。そうしないと部屋の中まで煙でうっすらもやってしまいそうだった。

どう行動するにも状況がなんともわからないので、とりぜず階下に降りて確認する。消防とか警察関係者で、話を聞いても大丈夫そうな人を見つけて様子を聞いてみると、幸いなことに取り残された人も怪我人もいないことがわかった。

火元はどうやら使われていない倉庫のような一室らしい。そこに置かれていた何かが炎上しているところまでわかった。こういうとき、微妙に取材術が役に立つのだ。あまり、いいことじゃないけど。

話を総合すると、とりあえずすぐに避難しないといけない感じでもない。ただ、相変わらず煙と野次馬がすごい。

同じマンションの住民も出て来て肩を寄せ合うように、消防活動を見ている。まあ、これは見守るしかない。

        ***

マンションの一角が駐車スペースになっていて、そこに消防の指令所のようなテーブルが置かれ、いろんな指示が飛び交っている。そうか、こうやって指示を出して消火するんだというのが少し離れていてもわかるのだ。

その手前をさっきからスマホを火災現場に向けてちょろちょろとしている、若いリーマン風のスーツの男がいるのが気になった。どうもマンションの住人でもない感じだ。

男は無表情で火災の動画撮影をしている。こいつ、住人じゃないな。顔のどこにも心配気な様子がないのだ。

「あの、ここに住んでる人?」

僕がたずねると、一瞬だけ僕を見て「いえ」とだけ言い、また動画撮影に戻ろうとする。煽りテロップを付けた火災炎上中動画の配信でもするつもりなのか。

ふだん、見知らぬ他人に怒りを覚えることはあまりないのだけど、このとき不意に静かな怒りが訪れた。

「住人じゃなかったら、勝手にここで何してんだよ」

僕が言うと、男はまた僕を無表情に一瞥し、動画をオフにして立ち去っていった。

べつに会社からの帰宅途中に、火災現場に遭遇して野次馬するなというんじゃない。関係者の邪魔にならない範囲で勝手に見てればいい。思わずSNSに上げたいんならすればいい。

けれど、あのリーマン男の顔には、もしかしたら人命とか他の何かが失われてるかもしれない状況には無関心で、ただネタかコンテンツとしての「火災」だけに反応してる様子がありありと出ていた。

それが不気味でイラッとしたのだ。

落語の熊さん八っあんだって、きっと火事が出れば下駄を逆さまに穿いて一目散に野次馬するだろう。けれど、もしそこで何かの助けが必要な状況を目の当りにしたら、熊さん八っあんは野次馬を忘れて袖をめくるんだと思う。

あのリーマンの彼には、そんな顔が見えなかったのだ。

僕だって偉そうに言えた人間じゃない。だけど、あれはダメなんじゃないかと思う。何がどうなってとうまく言えないのだけれど。

それ以来、僕は桜の季節になると自分の存在も含めて何ともいえない気持ちになってしまう。