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計算しても不確実なら楽しいほうをやったほうがいい

正解を当てにいく。正解なさそうだけどやってみる。仕事をしていて、どっちもありますよね。

すごく準備に時間をかけて、いろいろ精度も高めて「正解」のつもりでリリースしたのに「あれ、思ったほどじゃないぞ」ということや、逆に時間もなくて「正解」には程遠い最低限しかできなかったのに「まさか」の爆誕になったとか。

本づくりの現場でも、そういうのはどっちもすごくあります。べつに、本の世界に限らずモノづくりだって、サービス業だってそうだと思う。

一応、こういうふうにつくる、こういうふうに接客するのが「正解」があって、そのとおりにやってちゃんと結果が出るのもあれば、ちゃんとやったのに結果は散々で周りの視線を感じたり、お客さんに不評だったり。

で、問題なのは「ちゃんと正解を当てに」いって、正解が出なかったとき、次からもっと「ちゃんとやろう」としてしまうケース。ガチガチにデータを取ってリスク要素を削れるまで削ったり、成功例を全部トレースしてみたり。

それやり始めると、たいていの場合、楽しくはないんですよね。なにか「こうしなければ」に憑りつかれたみたいになってしんどい。

じゃあ、どうすればいいんだって話。思うのだけど、そもそもいまって本当に正解があるのかな? って考え方もできるわけです。

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あるパラメーターを投入すれば、こういう結果が導き出されるという仕組みがあって、それを「正解」とするなら、たしかに正解は存在します。Aというパラメーターを投入すればAが出るみたいなわかりやすい状況ですね。

だけど、いまはこの前までみんなAって言ってたのに、いつのまにかCって平気で言ってたりする。1年前どころか半年前に何で盛り上がってたかも、覚えてないですよね。

なので半年前とか1年前の「正解」が出るパラメーターを用意しても、ほとんどそっちには反応されないことがめちゃくちゃ起こり得ます。そう、正解はあるのに、あえて言うなら、みんな違うほうを選んだりするわけです。

なんだろう。URLの“?”以下の文字列(パラメーター)をみんな勝手に書き換えてちゃってるような状態。

だったら、正解を当てにいくためにすごく準備する意味って何? という話にもなるわけで。

実際、最近ある編集者との打ち合わせでも「ちょっと、計算してつくるのやめてもいいかもね」という話になりました。

計算しても不確実なら、やって楽しいほうをしたほうがいい。それで売れてもそこそこしか売れなくても「楽しい」は確実に残るわけだし、なんなら「楽しい」ほうに人は反応する。

何周か回って、案外いまはそんな不確実だけど「わかりやすい」楽しさに人が向かってるのかもしれないです。「VUCA」の時代だし。