好き嫌いがあったほうが幸せなんじゃないか説
好き嫌いをなくしましょう。子供のころから、そんな感じのことを言われて育った人は少なくないんじゃないかと思う。
食べ物だけじゃなくて、人間関係とか、与えられた環境とかいろいろすべて。好き嫌いをなるべくなくして何でも食べるというか、受け入れるのが健康で健全で正しいんだよという、あの空気だ。
もういい大人になって、さすがに面と向かって「好き嫌いはダメ」と言われることはあまりないけど、それでもたまに「ん?」と思うことはある。
この前も「パクチーがわからない」話を書いた気がするけど、パクチーより深刻なのが(僕にとってだけど)、今が旬らしい「柿」だ。そう、果物の柿。
これは、ほんとに食べられない。この季節、何かの集まりでどこかの家にお邪魔すると、かなりの高確率で「柿」が出てくる。あるいい感じのお店でランチをしたときも、まったく不意打ちみたいに「この柿、サービスなんでどうぞー」と剥かれた柿が目の前に滑り込んできたときは涙目になった。
柿は悪くない。出してくれる人も悪くない。だけど僕は柿がダメなのだ。何がダメなの? と問われても、うまく答えられない。味なのか食感なのか、匂いなのか、色なのかすらわからない。
何度か挑戦してみたことはある。でも、やっぱり喉を通らなかった。柿にも自分にも可哀想なことをしてしまった。
***
剥かずにそのままの状態で置かれている柿なら、まだなんとか「静物画」という設定にしてやり過ごすこともできる。だけど、ちゃんと皮が剥かれて、フォークとかフルーツピックっていうのか、なんか剣の小さいのが刺さった状態になってると落ち着かなくてぞわぞわする。
いつ「どうぞ」と柿を勧められるか気になって平常心ではいられなくなるのだ。いや、わりとまじで。
僕が柿に手を伸ばさずにいると、たいていは「遠慮しないで」と言われる。いや、遠慮なんかしてません。これが梨とかなら(梨はすごく好き)秒で目が輝いてるところだ。遠慮なんかしない。むしろしたほうがいい。
せっかく剥かれた柿から気をそらしていても、目ざとい誰かが僕が柿に手を出してないのを見つけて「あれ、食べてないじゃん! 悪かった私、いっぱい食べちゃって。ほら、これ全部食べて」と残ってる柿を僕の前に突き出してくる。ああ、もう。
僕は観念して「……あの、僕、柿ダメなんですよ…」と告白するはめになる。みんなの手が一斉に止まり「えっ?」という驚きの視線が四方八方から僕に突き刺さる。
あの、柿が食べれないってそんなに珍しいですかね? 僕が半笑いになって(他にどんな顔をすればいいんだ?)みんなに聞くと「柿ダメな人って初めて聞いた」とか言われるのだ。
こんなにおいしい果物を食べれないなんて、とまあまあ真剣に残念がられる。このときの虚脱感に名前つけたい。
***
好き嫌いをなくしましょうと言ったって、受け付けないものは受け付けないし、べつに嫌いなものを無理に克服しなくたって人生はなんとでもなる。これは食べ物に限らない話だ。
とくに先入観とか偏見とかもなく、フラットな状態でも「合わないもの」はある。僕にとっては、それがたまたま柿だったりするだけ。そこを苦しい想いをしてまで自分を無理に合わせようとして消耗したって仕方ない。
こういう話をすると、だから今の人はなんでも諦めて努力しない。苦手や嫌いを克服する経験にも意味がある的な論を飛ばす人もいるけど、僕もべつにそれは否定しない。
だけどそれは「本人が自発的に望んでやってる」場合の話だ。あるいは、望んでとまではいかなくても結果的にそれが「自分を生かす何か」につながるのとセットになったときの話。そことどう考えても関係ないところで好き嫌いをなくしてもどうなんだろう。
そもそも「好き嫌いがなくなった自分」って怖くないのかな? 好きも嫌いもどっちも人間的な要素なのに。だから個人的には好き嫌いがあったほうが幸せの総量は増えるんじゃないかとも思う。
好きのエネルギーは言うまでもなくすごいし、嫌いなものがあるから、そうじゃないものに反作用のエネルギーが生まれる。
好き嫌いのなくなった世界。そんなのがもし本当にあれば、それはオルダス・ハクスリーみたいなディストピアの世界だろう。そこではみんなが好き嫌いをなくすソーマを飲んで抑揚のない「幸せ」に包まれているのだ。