音楽業界も出版業界も正しいことをやりすぎて、みんなで駄目になってる件
音楽を有料で購入しないどころか、音楽そのものに無関心な「音楽離れ」が進んでいる云々の記事が流れてましたね。
まあ、これもポジショントーク要素とか、他のジャンルとの相対的要素とかあるので鵜呑みにはできないけど、そういう雰囲気はたしかにあります。
くるりの岸田さんが、その件で面白い考察をしていて、ざっくり言えば「聴かなくてもいいや」と思うような音楽が増えすぎたんじゃなかろうか、と。
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一昔前までの音楽は“人間”がつくってたので、一つひとつの楽曲に可塑的な物語が流れていて、もっさりした部分もあるけどなんか響くものがあった。今は、そこがきれいにならされていてフラットすぎるというわけです。
音楽業界では音程を修正する「ピッチ補正」も当たり前になってて、生身の生きた歌声ではなく「こういうのが好まれるであろう正しい歌声」にピッチ補正してミキシングするんですね。
で、結果として「なんか魅力を感じない音楽」でみんなお腹いっぱいに。
「人間がやってる風のことが、世の中に溢れすぎていて、みんな馬鹿になっているだけなのかも知れない」
「味のしないものを食べる時があってもいい。でも、何故か知らないが多くの人が、味のしないものしか食べずに生きている。じゃあ、どうせなら食べなくてもいいや、ってなってしまうのだろう」
岸田日記Ⅱ #83
僕は業界が違うので、商品としてのピッチ補正のいい悪いの判断はできないけど、自分たちにも思い当たるふしがあるなと。
なんだろう。出版業界でもピッチ補正的なことをやってる気がするんですよ。たとえば「表記統一」もそうかもしれない。今の出版業界では「は? なに当たり前のこと言ってんの」ですが。
原稿を書いてても、それぞれの版元あるいは編集部毎に表記統一ルールがあって、更新版が送られてくるとこもあるんですよね。
まあ、漢数字表記(三十年)とアラビア数字表記(30年)の混在とか、頻度の高い名詞での漢字の開きとか(心、こころ)なんかは、一応、表記統一されてたほうが気持ち悪くないかなというのはあるのですが。
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けど、それをなんでもかんでも適用しすぎ? と思うことも。表記ゆれにはなるけど、あえてゆらしたほうが「リアル」に伝わる表現とかもあるわけです。
かの夏目漱石先生の作品なんかは表記がゆれまくってて、たぶん今の編集基準でレコーディング(原稿を書籍化)したら、校正で真っ赤になるんじゃないですかね。
僕の好きな『それから』の冒頭部分でも
代助は昨夕床の中で慥かにこの花の落ちる音を聞いた(略)動悸は相変らず落ち付いて確に打っていた。
いきなり「慥か(たしか)」と「確(たしか)」で表記が揺れている!
ほかにも
~彼の皮膚には濃(こまや)かな一種の光沢がある
~焼麺麭(やきパン)に牛酪(バタ)を付けていると
みたいに、独特の漢字遣いがたくさん出てきますが、その時代背景も含めて表記のゆれや生々しい漢字遣いが漱石先生の作品世界を構築してるのはたしか。
もし、ぜんぶ表記統一されてたら成立しない世界というのもあるんじゃないでしょうか。逆に言えば、今の音楽や本が「べつに、いいや」ってなるのも、「正しいこと」をやりすぎてフラットになってるからなのかも。
そんなことを考えながら、もうすぐ配本される、とあるシリーズのライティングでも、あえてでこぼこした表記を一部に残したんだけど(校正担当さんからの疑問出しはもちろんありましたが)結果、どう転びますかね。
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