排他的不寛容は自分へのブーメランになるから
生きてると、たまに「あなたの○○はダメだ。認めない」と面と向かって言ってくる人と出会うことがあります。ほんと、たまにだけど。
そういうのって、結構頻繁にコミュニケーションがある相手から言われるかというと、そうでもなく、お互いに何か深い話をしたこともないような人からだったりするんですよね。
個人的には、そういうのカチンとくるより「おもしろいな」と思って。
いや、べつにdisってるのではなくて、ほんとに純粋に、その発言をもたらす構造って何なのだろうと考えさせられるから。
ちゃんと話したこともなく(ないからこそなんだろうけど)、一時的な事象とか、断片的な情報で「ダメだ、認めない」と言えてしまうのは自分にはない回路だし、そのメタ的なメッセージってどういうものなのか読み解きたくなるわけです。
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まあ、インターネッツの世界ではクソリプとか、べつにありふれた事象でいちいち相手にしないのが正解なんだろうけど、リアルに言ってくるのはちょっとそれとは違う気がします。
なんだろう。ただ単にマウントとか、妬み僻みとか誰でもいいから溜飲を下げたいとか攻撃エクスタシーでもない。何かしら、こっちには関係のないところで「その人にとってのその発言をするまあまあな理由」があるケースが多いからかも。
《誰一人として悪を欲する人はいない》というソクラテスのパラドクスもそうだけど、どんなことでも(認めない発言でも)その背景と深層には「何か」がある。
そんなの、こっちには関係ないし、やってることがそもそも違うだろっていうのもあるけど、そこでこちらが排他的不寛容になるのもおかしいと個人的には思うんです。
「あなたの○○はダメだ。認めない」の発言自体を僕が「認めない」とすると、それは周り回って、僕が誰かに何か「こう思う」「こう感じる」というのも同時に「認められない」ことになるから。
これはカール・ポパーの『開かれた社会とその敵』にも通じる話。
結局、誰かや何かを否定すると、それは自分にも還ってくるブーメランになる。それは嫌だなと思うんです。
べつにだからといって、相手からの「ダメだ。認めない」を「わかりました。そのとおりにします」ではないですよ。
ただ相手にもそういうことを言うだけの何かがあり、僕にも、それを「なるほど」と思う、思わない自由もあるし、そこから思考を深める自由もあるというだけなんだけど、それも含めて人間ってほんといろいろですね。